聖母マリアへの崇敬と聖性の道―コロナ禍の中での希望のよりどころ―

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 神奈川県では特措法に基づく緊急事態宣言が9月12日まで延長されることになりました。8月2日からの緊急事態宣言下での平日ミサ及び主日ミサを会衆参加で継続する際には東京大司教区の対応を参考にしましたが、8月14日付で東京大司教区では8月16日から信徒参列のミサを中止する旨、発表がありました。これを受けて、末吉町教会信徒の複数の医療従事者の皆さんからのご意見を頂きながら、教会委員会四役との電話及びオンライン審議を経て2021年8月14日付で「末吉町教会の今後の対応について」を発表しました。この中で、末吉町教会ではロスナイ換気システム7台が稼働し、常時換気が行われ、また、教会内での感染防止対策が徹底して実施されていること、また、人流を調べたところ、日曜日の11:30主日ミサではコロナ禍以前の2割弱まで参列者が減っていること、第1・第3日曜日の14:00英語ミサでは2割ほどまで減っていること、第2・第4日曜日の14:00韓国語ミサでは三分の一まで減っていることを受けて、これまで以上に感染防止対策を強化しながら信徒参列のミサを継続することといたしました。信徒の皆様におかれましては、ご自分と大切なご家族の健康維持をこれまで以上に優先なさっていただければ、と願っています。

 このような状況ではありますが、8月7日(土)には、宿泊と飲食は伴わない形ではありますが、2年ぶりに教会学校サマープログラムを実施することが出来ました。医療従事者に常駐していただき、感染防止対策を徹底しながら、子供たちが共に心を合わせて祈り、学び、また楽しく遊ぶことが出来ました。こうして、日本、フィリピン、中国、ベトナム共同体の子供たちが心を一つに合わせて共に集うことが出来ることは本当に素晴らしいことだと思います。また、今年の聖母被昇天の祭日(8月15日)は日曜日に当たっていたので、11:00からラテン語でロザリオの祈りを捧げ、11:30からのミサでは日本語、韓国語、中国語、ベトナム語を織り交ぜて祈りを捧げ、14:00からのミサでは英語で祈りを捧げることが出来ました。8月29日(日)には11:30ミサ中にフィリピン共同体の赤ちゃんの幼児洗礼式も執り行われ、新しい神様の家族を教会共同体として迎えることが出来たことを神様に感謝しています。

 さて、カトリック教会の典礼暦(聖人のお祝い日のカレンダーを含む)では夏から秋にかけて聖母マリアのお祝い日が沢山あります。7月16日は「カルメル山の聖母」の任意の記念日、8月5日は431年にマリア様を「神の母」と呼ぶことにしたエフェソ公会議が開かれ、その後、シクスト3世教皇様によって聖母マリアに捧げられた聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)がローマで献堂されたことを祝う「聖マリア教会の献堂」の任意の記念日、8月15日は「聖母の被昇天」の祭日、翌週の8月22日は「天の元后聖マリア」の記念日、9月8日は「聖マリアの誕生」の祝日、9月15日は「悲しみの聖母」の記念日、10月7日は「ロザリオの聖母」の記念日です。この他にも1年を通して沢山のマリア様のお祝い日があります。このことから明らかとなるのは、私たちの救い主イエズス・キリストの母であるマリア様について、カトリック教会の信仰生活の中でとても大きな崇敬を捧げていることです。

 中世には聖母マリアについて、観想修道会であるシトー会のリーヴオー大修道院の聖エルレッド修道院長(1109-1167)が次のような説教を遺しています。

【説教:マリアはわたしたちの母】

主の花嫁のもとに近づきましょう。主の母のもとに、主の最も忠実なはしためのもとに近づきましょう。この表現のすべてが、聖母マリアにあてはまります。

わたしたちは、マリアに何をしたらよいのでしょうか。どのような贈り物をささげたらよいのでしょうか。少なくともお返しすべきものだけでもり返すことができたら、と思います。わたしたちはマリアを敬い、マリアに仕え、マリアを愛し、賛美しなければならないからです。わたしたちがマリアを敬わなければならないのは、わたしたちの主の母だからです。母を敬わない者がその子を敬わないことは、言うまでもないことです。聖書は、「あなたの父母を敬え」と教えています。

マリアはわたしたちの母ではないのでしょうか。確かにわたしたちの母です。わたしたちはマリアから生まれたからです。わたしたちはこの世に生きるためではなく、神に生きるために生まれたからです。あなたがたが信じ、知っているように、わたしたちは皆、死と古さのうちに、闇と惨めさのうちに生きてきました。死のうちにと言われるのは、主を失っていたからです。古さのうちにと言われるのは、腐敗の状態に落ちていたからです。闇のうちにと言われるのは、知恵の光を失っていたからです。このように、わたしたちは完全に滅んでしまっていたのです。

しかし、キリストがマリアから生まれてくださったので、わたしたちもエバの子としての状態よりもはるかに優れた者として、マリアから生まれたのです。わたしたちは古さの代わりに新しさを回復し、腐敗の代わりに不滅を、闇の代わりに光を回復することができたのです。

マリアはわたしたちの母、いのちの母、不滅の母、光の母なのです。使徒パウロは主について次のように言っています。「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」したがって、キリストの母であるマリアは、わたしたちの知恵、わたしたちの義と聖と贖いの母です。それゆえ、マリアはわたしたちの体を産んだ母よりも、わたしたちにとって真実の母なのです。わたしたちのこのようなより優れた誕生は、マリアによってもたらされたものです。わたしたちの聖性、知恵、義、聖化、贖いなどはマリアに由来しているからです。

「聖なる人の中で主を賛美せよ」と聖書は言っています。主が聖なる人を通して力を現し、奇跡を行われたことを思うとき、その人々において主が賛美されるべきであるのは当然です。それなら、すべてにまさって感嘆すべき主は、自ら人となられるために母として選ばれたマリアにおいて、どれほど賛美されなければならないことでしょうか。

 聖エルレッド修道院長の言葉でまず注目したいのは、「わたしたちがマリアを敬わなければならないのは、わたしたちの主の母だからです。母を敬わない者がその子を敬わないことは、言うまでもないことです。聖書は、『あなたの父母を敬え』と教えています」という部分です。カトリック教会が伝統的に聖母マリアへの崇敬を捧げることについて、カトリックではない方から誤解を受けることもありますが、私たちは主エイズス・キリストを神様として信じる、つまり主へは信仰を捧げますが、聖母マリアに向かっては「主の母」であること、つまり、イエズス・キリストの最愛の母であるからこそ尊敬の念をもって崇敬を捧げるのだ、ということです。マリア様は私たちとは原罪を除いては全く同じ人間です。しかし、「神の母」である特別な立場を持っておられることで、神への信仰において、聖エルレッド修道院長が指摘するように、「わたしたちはマリアから生まれた」のであり、それは「わたしたちはこの世に生きるためではなく、神に生きるために生まれた」ことを表わしています。このことは、コロナ禍の中で自分の大切な家族を守ること、また、この社会で共に生活するすべての人の命を守ることを目指して私たちが自分の行動を選択し、周囲の人との関わりを築いていくときに大きな道しるべとなります。

 聖エルレッド修道院長は「キリストの母であるマリアは、わたしたちの知恵、わたしたちの義と聖と贖いの母です。それゆえ、マリアはわたしたちの体を産んだ母よりも、わたしたちにとって真実の母なのです。わたしたちのこのようなより優れた誕生は、マリアによってもたらされたものです。わたしたちの聖性、知恵、義、聖化、贖いなどはマリアに由来しているからです」と指摘しています。私たちがこのコロナ禍の中で何を目指して日々の生活を送れば良いのかを考えるとき、キーワードとなるのは、「聖性」、「知恵」、「義」、「聖化」、「贖い」です。社会全体が不安や先行きの見通せない閉塞感に覆われているとき、私たちには神様から素晴らしい恵みが与えられていることを祈りのうちに改めて見つめる必要があります。

 フランシスコ教皇様は2018年3月19日、聖ヨゼフの祭日に使徒的勧告『喜びに喜べ―現代世界における聖性』(Gaudete et Exsultate)を公布なさいました。日本語訳は2018年10月5日に発行されました。この『喜びに喜べ』の中で、聖エルレッド修道院長が示す5つのキーワードを具体的に理解する上で大きな助けとなるような教えを分かりやすく示してくださっています。

【使徒的勧告『喜びに喜べ―現代世界における聖性』(Gaudete et Exsultate)】

第1章 聖性への招き

・励まし、寄り添ってくださる諸聖人

4項: すでに神のみもとにいる聖人たちは、わたしたちとの愛と交わりのきずなを絶やさずにいてくださいます。黙示録は、執り成しておられる殉教者のことばに言及し、そのことをはっきりと示しています。「神のことばと自分たちがたてたあかしのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(6・9-10)。こういってよいでしょう。「わたしたちは、神の友によって囲まれ、伴われ、導かれています。……決して独りで担うことのできないことを、独りで担う必要はありません。神のすべての聖人たちが、かしこでわたしを守り、わたしを支え、わたしを担ってくださいます」(注1:教皇ベネディクト16世「教皇就任ミサ説教(2005年4月24日)(AAS 97 [2005], 708)。

・キリストのうちにあるあなたの使命

19項: キリスト者は、地上での自分の使命を聖性の道と受け止めることなく、それについて考えることはできません。「神のみ心は、あなたがたが聖なる者となること」(Ⅰテサロニケ4・3)だからです。どの聖人も、それぞれ一つの使命です。歴史の特定な時に、福音のある側面を映し出し、受肉させるために、御父が計画されたものです。

24項: あなたの人生を用いて神が世に伝えたいと望まれることば――それはイエスというメッセージです。どうかそれに気づいてください。それができるように、そしてあなたの尊い使命がくじかれることのないように、自分を変えていただきなさい。聖霊によってもう一度新たなものにしていただきなさい。愛の道を離れることなく、浄めと照らしを与える主の超自然的なわざに開かれたままでいられるなら、過ちやうまくいかない時にあっても、主がそれを完成させてくださるでしょう。

第4章 今日の世界における聖性のしるし

・大胆さ、熱意

129項: 他方、聖性はパレーシア(parrhesia)でもあります。それは、大胆さ、この世に影響を与えようとする福音宣教者の機動力です。それをもてるようにと、イエスご自身がわたしたちのもとに来られ、優しく、けれどもきっぱりと繰り返しいわれます。「恐れることはない」(マルコ6・50)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。こうしたことばがわたしたちを、聖霊が使徒たちの中にかき立てイエス・キリストを告げさせた、勇気に満ちたあの姿勢をもって歩み、働けるようにしてくれます。大胆さ、熱意、躊躇のない語り、使徒的情熱、これらはすべてパレーシアということばに含まれているものです。さらに聖書はこのことばを使って、神や他者のために開かれた、なにものにもとらわれないあり方を説明しています(使徒言行録4・29、9・28、28・31、Ⅱコリント3・12、エフェソ3・12、ヘブライ3・6、10・19参照)。

130項: 福者パウロ6世は、福音宣教を妨げるものの中で、とりわけパレーシアの欠如について語っています。「それは熱意の欠如ということです。内部からくるものだけに、いっそう重大な妨げです」。わたしたちは、危険のない陸近くから離れずにいたいと考えてばかりいます。しかし主は、沖に出て深いところに網を下ろすよう招いておられます(ルカ5・4参照)。主はわたしたちを、ご自分への奉仕に人生をささげるよう召し出しておられます。主に根ざすことで、他者への奉仕に自分のカリスマのすべてをささげるよう励まされるのです。主の愛に駆り立てられていることを自覚し(Ⅱコリント5・14参照)、聖パウロと声を合わせて「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(Ⅰコリント9・16)といえるようになりますように。

共同体の中で

140項: 人とのかかわりを断った中で、己の欲望や、悪魔や利己的な世の罠や誘惑と闘うのはとても難しいことです。誘惑は新しい砲撃であり、あまりに人との交わりが欠けてしまうと、すぐに現実感覚や精神の明晰さを失って、わたしたちは負けてしまいます。

141項:聖化とは、他の人と隣り合って歩む共同の道です。数々の列聖された集団が、それを表しています。教会は、福音を勇猛に生き、仲間全員がいのちを神にささげた共同体を、幾度も集団全体で列聖してきました。例を挙げてみましょう。聖母マリアのしもべ会創立7聖人、マリア訪問会マドリード第1修道院の7聖人、日本の聖パウロ三木と同志殉教者、韓国の聖アンデレ・キム・デゴンと同志殉教者、南米の聖ロケ・ゴンザレスと聖アルフォンソ・ロドリゲスおよび同士殉教者です。また、ティビリヌ(アルジェリア)のトラピスト会士たちによる、ごく最近のあかしのことも思い出してみましょう。彼らはともに殉教を覚悟したのです。これと同じく、相手の聖化のために、夫と妻それぞれがキリストの道具となる、聖である夫婦もたくさんいます。だれかとともに生き、だれかとともに働くことは、まぎれもなく霊的成長の道です。十字架の聖ヨハネは弟子に、「練り鍛え」られるために他者と暮らすのだといいました。

 フランシスコ教皇様の教えを通して明らかとなるのは、私たち信仰者の歩みは、決してひとりぼっちで孤立して歩むものではなく、同時代のカトリック信者同士の支えはもちろんのこと、天国にいる諸聖人たちとの交わりにおいても沢山の助けや導きを頂きながら、明るさと喜びをもって聖性の道を進んでいくものなのだ、ということです。たとえ、不安や心配は閉塞感に覆われているこの社会の中にあっても、私たちカトリック信者が聖霊によって励まされ、強められ、心を暖められ、出会う人と共に希望を胸に抱いて「聖なる者」となりながら毎日を生きていくことが出来るようになれば素晴らしいと思います。皆様お一人お一人が聖母マリアの取り次ぎのうちに「聖なる者」となる歩みを日々重ねていくことができますよう、心を込めて祈っています。

平和旬間

平和旬間とは

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 横浜市では4月20日から特措法に基づくまん延防止等重点措置が公示され、8月22日までの延長が当初、予定されていましたが、神奈川県に8月2日から8月31日まで特措法に基づき緊急事態宣言の発出が政府によってなされました。

 これを受けて、教会委員会四役による審議を経て、東京大司教区の 2021 年 7 月 12 日付の「現在の東京教区における感染症への対応」を参考にしながら、 平日ミサおよび主日ミサを会衆参加で継続することといたしました。このような状況の中で、会衆の参列するミサを継続し、教会の諸活動を実施するために皆様には新型コロナウィルス感染症拡大防止のために沢山の対策にご協力を頂いており、心から感謝しています。また、このような状況の中で末吉町教会の諸外国共同体が心を一つに合わせて協力をしてくださる姿に本当に心強く思っています。

 さて、末吉町教会では今夏、今年横浜教区司祭として叙階された新司祭であるルカ上杉優太神父様とルドビコ茨城・西村英樹神父様をお迎えして、それぞれ初ミサを捧げていただくことが出来ました。上杉神父様は神学科3年生と助祭の2年間、末吉町教会で司牧研修をなさっていましたが、静岡教会での司祭叙階式には、新型コロナウィルス対策のために参列者が司祭と家族に限定されていたこともあり、末吉町教会から参列していただくことができませんでしたので、初ミサの際に多くの皆さんと交流をしていただくことが出来たことはとても良かったです。上杉神父様は7月18日(日)の11:30の日本語ミサと14:00の英語ミサを司式して下さり、二つのミサの間には交流会を持つことが出来ました。こちらの様子はYouTubeの「末吉町教会公式」チャンネルで公開しておりますので、興味のある方はご覧ください。西村神父様は8月1日(日)の11:30の日本語ミサを司式して下さいました。こうして、コロナ禍の中でも新しい司祭の誕生の喜びを横浜教区の一員として味わうことが出来たことは本当に素晴らしいことだと思います。

 7月18日(日)には、11:30ミサ中に教会学校の終業式の祝福式を無事に執り行うことが出来ました。昨年は教会学校もコロナ禍の中で休止を余儀なくされていたので、4月25日の始業式以来、教会学校では1学期を無事に実施できたことは、リーダーの皆様の献身的な奉仕と、保護者の皆様のご理解があってのことですので、心より御礼申し上げます。

 新型コロナウィルス感染症対策の一環で、現在ではミサの前に検温、手指消毒、連絡先の記入を聖堂玄関ホールで実施していますが、これまでエアコンが設置されていなかったことで、受付を実施してくださる皆様には冬はとても寒く、夏は暑い中で大きな負担をしていただくことになっていました。また、香部屋にもエアコンが設置されておらず、典礼奉仕をする一人一人が、冬は寒く、夏は暑い中で準備等にあたってきました。7月中に聖堂玄関ホールおよび香部屋へのエアコン設置が完了したことで、奉仕を担当してくださる皆様のご負担を少しでも軽減できればと願っています。

 毎年、日本のカトリック教会では8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」として祈りのうちに過ごしています。カトリックの典礼暦では8月6日は「主の変容」の祝日であり、8月15日は「聖母の被昇天」の祭日です。日本の現代史では、1945年8月6日には広島に原子爆弾が、8月9日には長崎に原子爆弾が投下され、8月15日に終戦を迎えました。また、日本のカトリック教会にとっては、1549年8月15日にイエズス会の聖フランシスコ・ザビエル神父様が現在の鹿児島市祇園之洲町の海岸に到着し、日本を聖母マリアに奉献したことから福音宣教の歴史が始まります。

 このように日本にとっての歩みを振り返り、また、全世界の平和を祈念しながら過ごす平和旬間は、1981年の聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の来日を受けて始められました。その経緯についてカトリック中央協議会のホームページには次のように記されています。

【平和旬間とは】

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/heiwajunkan/

1981年2月23日~26日、教皇ヨハネ・パウロ二世は「平和の使者」として日本を訪問し、多くの人々に喜びと希望を与えました。特に広島では、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われ、日本国内外に平和メッセージを発信しました。戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。

そこで日本のカトリック教会は、その翌年(1982年)、もっとも身近で忘れることのできない、広島や長崎の事実を思い起こすのに適した8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。

毎年の平和旬間にあたり、そのための談話が発表されます。これ読んでいただき、ともに平和を祈り、平和を考え、平和について語り、平和のために行動する機会になることを願っています。

この「平和旬間」に広島教区と長崎教区では、全国から司教をはじめとして多くの信徒が集まり、「平和祈願ミサ」がささげられます。また各教区でも、平和祈願ミサや平和行進、平和を主題とした映画会、講演会、研修会、平和を求める署名などが行われます。

わたしたちが望む平和とはまだまだ程遠い状況ではありますが、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の思いを新たにし、その心を心とするためにも各教区・地区で行われます平和祈願ミサや様々な行事に参加することをお勧めします。

 今年の日本カトリック司教協議会会長談話は「すべてのいのちを守ることこそ、平和をつくる。」という題で長崎大司教である高見三明大司教様によって発表されました。この談話の中で特に以下の段落を皆様と分かち合いたいと思います。

2021年平和旬間 日本カトリック司教協議会会長談話―「すべてのいのちを守ることこそ、平和をつくる。」】

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/07/21/22769/

ミャンマーやアフガニスタンほかの国々で、逸脱した権力と武力にさらされた人々が人権を無視され、平和とはほど遠い生活を強いられています。国の安全と繁栄のためという大義名分のもとで一人ひとりのいのちがあまりにもなおざりにされていないでしょうか。

 新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)の結果、7月半ば現在で1億8千900万人以上が感染し、400万人以上が死亡、無数の人々が困窮に追い込まれています。残念ながら、感染者とその関係者だけでなく、医療従事者まで差別や偏見の対象になっています。ワクチンの配分も貧しい国々は後回しにされているため、いのちの危険が増し、社会情勢も不穏になる一方です。皆がそれぞれ苦しんでいるのです。互いに理解し助け支え合い、富める強い国は貧しい人々を助けるべきです。わたしたちは数限りない人々のおかげで生活ができているのですから、自分だけでなくほかの人のいのちをも守らなければなりません。そのためには、教皇とイスラームの指導者(大イマーム)との共同文書『世界平和のための人類のきょうだい愛』(2019年2月4日)および教皇回勅『兄弟の皆さん』(2020年10月3日)の精神を共有し、すべての人のいのちの尊厳を等しく尊重し、兄弟姉妹として相互の信頼を深めていく必要があります。

 どのような自然環境、どのような社会環境にあっても、すべてのいのちを守ることを最優先し、そうすることによってこそ平和をつくっていきたいものです。いのちは、個々のいのちだけでなくいのちのつながりをも意味すると考えるべきです。ですから、一つ一つのいのち、一人ひとりのいのちを守ることは、いのちといのちのつながりを守ることであり、それは同時に個々のいのちを守ることになります。そして、個々のいのちが充足し、いのちといのちの間に調和があり、すべてのいのちが幸福に満たされる状態こそが平和なのです。

 この8月の間、平和の元后である聖母マリアとともに、平和の君である主イエズス・キリストに向かって、私たちの生活する地上に主の平和を豊かに実らせてくださるように祈りながら過ごせますように。

7月第2日曜日はカトリック「船員の日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 横浜市では4月20日から特措法に基づくまん延防止等重点措置が公示され、8月22日までの延長が発表されました。このような状況の中で、会衆の参列するミサを継続し、教会の諸活動を実施するために皆様には新型コロナウィルス感染症拡大防止のために沢山の対策にご協力を頂いており、心から感謝しています。

 6月6日(日)はキリストの聖体の祭日でしたが、日本語ミサ中に中国共同体のレジオマリエ・プレシディウムに2名の新しい会員の誓約式が執り行われました。聖母マリアの模範に倣って、”Per Mariam ad Jesum”(ペル・マリアム・アド・イエズム:「マリアを通してイエズスへ」)という標語を大切にしながら祈りと使徒職に励んで下されば、と心から願っています。また、5月2日(日)にはベトナム共同体の赤ちゃんの幼児洗礼式がありましたが、6月13日(日)には中国共同体の赤ちゃんの幼児洗礼式があり、6月20日(日)にはフィリピン共同体の赤ちゃんの幼児洗礼式がありました。こうして、末吉町教会の信仰共同体が新しい神さまの家族を迎えることが出来ることは神様からの大きな恵み深い贈り物だと思います。それぞれのご家族が聖霊の息吹で満たされて、聖家族の模範に倣って幸せな日々を重ねていくことができるよう心を合わせてお祈り下されば幸いです。

 さて、7月の第2日曜日は教皇庁人間開発のための部署(Dicastery for Promoting Integral Human Development、長官:タークソン枢機卿)によって全世界のカトリック教会では「船員の日」として世界中の司牧者、信徒に船員たちのために祈るよう呼びかけられています。特に、日本は生活を支える物流の99%以上が海運に依存していますから、私たちの日常生活は船員の働きなしには全く維持できないことは明らかです。

 今年の「船員の日」のメッセージは「生活をつなぐ海路 - 船員が支える命の道 -」という題で日本カトリック難民移住移動者委員会の担当司教であるマリオ山野内倫昭司教様(さいたま司教)によって発表されました。その中には次のような文章があります。

2021年「船員の日」メッセージ

日ごろ、気に留めることはあまりありませんが、私たちの生活に必要な様々な物資や品物の多くは、海を介して運ばれています。したがって、世界の国々は「海路」(詩編8:9)によって互いに結ばれていると言っても過言ではありません。

海とその労働者:教皇フランシスコが大切にされている「周縁(ペリフェリア)」

 海の世界とそこで行われる人間の活動は魅力と価値のあるものですが、海で働く漁業従事者や船員たちには陸上とは異なる特別の厳しさがあります。大きな経済の課題にも直面しなければなりませんし、新型コロナウイルス感染症パンデミックの影響もより大きく、より深刻です。船員たちの多くは、ワクチンも受けられず、港に寄港しても船から降りて街に出かけることを許されず、中には契約期間を大幅に超えて18ヶ月間も交代できずに乗船したままで働いている人もいます。陸上での人々の活動がほぼ止まっている間でさえ、物資や商品の運搬のほとんどを担い続け、特に、重症の方に必要な医療機器を世界のどこまでも届けたのでした。

 ですから、教皇フランシスコは、厳しい条件の中で働く海の人々に特別に思いを馳せ、感謝し、こうした人々のために祈るようにと勧めておられます。そして教皇は、海の使徒職(ステラマリス)を通しての司牧的奉仕がさらに増えるように願っておられます。

さて、末吉町教会には横浜教区の船員司牧のステラ・マリスセンターも設置されており、神奈川第3地区は船員司牧に積極的に取り組んでいます。ちなみに、私自身も横浜教区難民移住移動者委員会の船員司牧担当司祭ですし、また、これまでは日本カトリック司教団の日本カトリック難民移住移動者委員会船員司牧コアメンバー委員会委員もしてきました。そして、この7月からは日本カトリック難民移住移動者委員会委員、同船員司牧部会責任者になりました。

 船員司牧についてはAOS(Apostleship of the Sea:海の使徒職)として1920年10月4日にスコットランドのグラスゴーで設立されたので100年を超える歴史がありますが、現在は全世界41か国、300を超える港で船員、漁師およびその家族への奉仕を実施していて、約230名のポート・チャプレンの司祭、数千名のボランティア・スタッフを擁しており、新型コロナウィルス感染症がパンデミックになる前までは、毎年、約7万隻を訪船し、のべ100万人以上の船員への奉仕が実施されてきました。

 その歴史は古く、1800年代後半、ロンドン、ブートル、モントリオール、ニューヨーク、ニューオーリンズ、メルボルン港で、船員たちの霊的、社会的、物質的な福祉の必要に対応するために、様々な船員への宣教団が活動が始まったことに端を発します。フランスでは被昇天のアウグチノ会が1894年12月に‘Société des Oeuvres de Mer’(海事協会)を設立し、医療と物的、倫理的、宗教的支援をアイスランド沖やニューファンドランド沖、フェロー諸島での深海漁業に従事するフランス人や他国の船員に提供していました。また、1890年代後半にはヴィンセンシオ・パウロ会の会員によってイギリスや世界各地の港での訪船活動が開始されます。

 1920年10月4日にスコットランドのグラスゴーで”Apostleship of the Sea”(AOS)の初会合が開催されましたが、AOSは「カトリックの男女が祈りによって結ばれ、神のより大いなる栄光のため、また、全世界の船員たちの霊的福祉のために働く会」 と定義され、会員たちは訪船し、カトリックの読み物や祈りや本やロザリオやメダイを配布するように勧められました。

その後、AOSは1969年に「国際キリスト教海事協会」(the International Christian Maritime Association)が設立された際の創立メンバーとなります。「ICMA」として知られているエキュメニカルな協会であり、現在、28の教団教派の船員司牧活動団体が参加しており、その活動は、国籍、宗教、文化、言語、性別、人種に関わらず、すべての船員、漁師およびその家族に奉仕することを目的とし、国際連合の「国際労働機関」(ILO)、「国際海事機関」(IMO)に加盟しています。なお、ICMAは2006年に発案され、2013年8月20日に発効した船員の雇用条件や福祉、医療、社会保障、レクリエーション施設、食事、宿泊施設についての国際条約である「海事労働条約」(MLC)の策定、批准にも大きく貢献しました。同条約は、2019年9月現在、海運の91%の総トン数を占める97か国によって批准されています。また、ICMA加盟のキリスト教船員司牧活動団体は世界中で船員の労働組合である「国際運輸労連」(ITF)や海運会社、代理店、政府との協力関係を築いています。

横浜教区における船員司牧の歩み

次に、横浜における船員司牧活動(ステラ・マリス)の歴史についてみていこうと思います。

1970年は日本における、また、横浜における船員司牧活動を考える際に転機となる年となりました。1969年に教皇パウロ6世によって自発教令『パストラリス・ミグラトルム・クラ』が発布され、教皇庁司教省によって指針『デ・パストラリ・ミグラトルム・クラ(ネモ・エスト)』が発表されたことを受けて、翌1970年には教皇パウロ6世によって教皇庁移住・旅行者司牧委員会が設立され、移住・移動者への司牧が重点的に全世界で強化されるようになります。また、1970年11月27日から29日の教皇パウロ6世によるフィリピンへの初めての教皇訪問を受けて、フィリピンに参集したアジア各国の司教協議会を代表する司教たちによってアジア司教協議会連盟(FABC)の結成が企図されたことで、教皇パウロ6世が推進した移住・移動者への司牧的ケアの提供はアジアでも国際的ネットワークに接続されて急速に拡大していきました。FABCは加盟司教協議会に対して、AOSについても推進担当司教の任命やチャプレンの任命、組織の構築について積極的に取り組むように働きかけました。これを受けて、日本カトリック司教協議会の中でも取り組みが始まり横浜教区でもAOS担当司祭(チャプレン)としてウェレンス神父が活動を開始しました。

1986年には後に教皇ヨハネ・パウロ2世によって教皇庁移住・移動者司牧評議会議長に任命されることになる当時の横浜司教、濱尾文郎司教によって、Apostleship of the Sea(カトリック教会・船員司牧)、 The Mission to Seamen(聖公会・船員司牧で日本聖公会とは別宗教法人)、Deustsche Seemannsmission (ドイツ船員司牧協会・ドイツのプロテスタント諸教会による船員司牧)、Dansk Somandskirke(デンマークの船員司牧教会・デンマークのプロテスタント諸教会による船員司牧)間で協定が締結され、横浜市中区役所前にあるビルで横浜船員センター(Yokohama Seamen’s Center)を開設し、訪船活動や船員たちの上陸後の市内での休息やリフレッシュのための諸活動、ミサやゆるしの秘跡をはじめとする霊的司牧、また、雇用問題にかかわる相談業務等の提供が組織的に行われるようになります。1992年のウェレンス神父の帰天を受けて、3名の司祭による共同司牧が行われましたが、1994年にはケベック外国宣教会のレイモンド神父がAOS専任チャプレンとして任命され、ボランティア・スタッフと共に、エキュメニカルな協力体制の下でAOS活動が推進されました。2007年にはAOS横浜委員会が発足し、横浜教区内でのAOS活動の協力体制が整えられていきます。2007年12月末のレイモンド神父のカナダ帰国を受けて、選任チャプレン体制から教区内の他の役職と兼務する兼任チャプレン体制へと移行する中で、教皇庁移住・移動者司牧評議会の下にAOSがあり、また、日本カトリック司教協議会においても社会司教委員会内の日本カトリック難民移住移動者委員会の下にAOSコアメンバー委員会が部門として整備されてきたことに歩調を合わせて、横浜教区でもAOSは横浜教区難民移住移動者委員会(ENCOM)の一部門として位置付けられていきました。なお、2008年4月17日には横浜船員センターが閉所となったことを受けて、横浜におけるエキュメニカルな船員司牧活動は個別の活動へと変化しました。2014年には末吉町カトリック教会の聖堂の新築、献堂式を経て、同聖堂棟1階に設置された横浜教区難民移住移動者委員会事務所およびステラ・マリスセンター(船員センター)が開設され、横浜港に寄港する船員たちに船員センターでの諸活動の提供を再開しています。

2021年6月現在、ステラ・マリス横浜では2名の担当司祭と17名の委嘱を受けたボランティア・スタッフを中心に船員司牧が展開されていて、訪船時や、プレゼント配布のためのラッピング作業時には、これまで実施してきた船員司牧研修会の際に興味、関心を示してくださった方々にもメールで情報提供をして参加を呼び掛け、ともに活動しています。

ステラ・マリス横浜においても全世界で活動する各地のステラ・マリスと同じく、主たる司牧活動は訪船活動です。2019年1月~12月は延べ72日間195隻を訪船しました。また、待降節から降誕節にかけては、東日本大震災の被災者の方々によるカリタス石巻ベースからの提供を含めて、30を超える小教区、修道会、団体、個人から手編みの帽子や船員へのクリスマスプレゼント用の物品提供を受けて、ラッピングしてクリスマスカードを付けて訪船の際にプレゼント配布しますが、横浜港、川崎港、清水港、焼津港で2237名の船員に届けることが出来ました。また、ステラ・マリス横浜センターは土曜日、日曜日に開所し、連絡を受けて本船まで乗組員の送迎も実施していますが、フィリピン、中国、韓国、ミャンマー、インドネシア等の188名の船員が利用しました。2017年には306名の船員がセンターを利用し、2018年度には269名の船員がセンターを利用したことを踏まえると、年々、船舶の大型化及び荷役の効率化が進み、また、船主が埠頭の接岸料を低くするために東京湾内での沖待ちを多用することで、船舶の埠頭への接岸時間が短縮されており、埠頭から市内へと出かける時間的余裕のある乗組員が減少していることが顕著なことが分かります。なお、センターでの船員の過ごし方は、市内で必要な買い物をしに出かけたり、Wifiに接続をして故郷の家族とテレビ電話を楽しんだり、ミサに参列したり等です。なお、新型コロナウィルス禍の中で、ステラ・マリス横浜センターの利用は、2020年は1月と2月の2回、7名のフィリピン人船員の利用にとどまり、2021年も新型コロナウィルス感染症拡大の状況の中で、船員たちが下船することを許可しない船主や船長が多く、センターの利用は6月現在、0人となっています。

ちなみに、訪船活動は船員たちとの交流を通してその気持ちに寄り添うことが主たる目標であり、コロナ禍以前は乗船した後、食堂等に案内されて船員たちとの分かち合いを行うことが多かったです。また、船員の中にはカトリック信者も多くおり、ゆるしの秘跡や船上ミサを捧げることもあります。船員が不慮の事故で陸上の病院に搬送された際には、病院での病者の塗油の秘跡や病者の聖体拝領式も執り行います。そして、船員が不慮の死を遂げた際には、船員への医療提供サービス会社と協力をして死亡診断書を作成するための医師らと一緒に本船に乗船し、乗組員と共に葬儀ミサを執り行い、帰天した船員の部屋の祝福式を執り行います。全世界のステラ・マリスでは漁船の乗組員やクルーズ船の運航に携わらない部門の従業員の司牧についても積極的な取り組みを始めていますから、ステラ・マリス横浜でもコロナ禍以前はエージェントからの依頼を受けてクルーズ船での乗客、従業員、乗組員のための船上ミサを捧げることもありました。

2020年から始まった新型コロナウィルス感染症拡大によるパンデミックは、ステラ・マリスが取り組む司牧活動について大きな制約をもたらすとともに、船員にも大きな負荷がかかっていることを2020年10月4日付のステラ・マリス100周年を祝う書簡の中で教皇庁人間開発のための部署長官のタークソン枢機卿は指摘なさっています。本来であれば、「海事労働条約」(MLC)に基づき、11か月以上の船員の連続した乗船勤務は禁止されていますが、新型コロナウィルス感染症拡大によるパンデミックで各国が空路での入出国に大きな制限を加えたために、交代要員が港に到達できずに連続した乗船勤務を強いられる船員が続出しています。また、30万人を超える船員が各国の港で上陸を制限され、船から外出することの出来ない生活を強いられているのが現状です。

このような状況の中で、東アジア・東南アジア地域コーディネーターのプリゴール神父の呼びかけで2021年3月以来、定期的にオンラインで担当司祭、修道者、ボランティア・スタッフによるZoom国際会議が重ねられ、ITFの総裁や海事専門の法律事務所の所長を招いてのオンライン研修も実施しました。なお、このステラ・マリス東アジア・東南アジア地域会議には、毎回、教皇庁人間開発のための部署の船員司牧部門から責任者のチチェリ神父をはじめ、計6名のスタッフも参加して現場の状況についてバチカンへの情報共有も行われており、ステラ・マリスの尽力でアジアではフィリピン政府の協力もあり乗組員の乗務交代コリドーが成立しました。また、フィリピンでは2021年5月からは船員たちの新型コロナウィルス・ワクチンの接種について第1種優先グループへの変更が実現し、フィリピン人船員へのワクチン接種が最優先で進められています。世界の船員に占めるフィリピン人船員の規模の大きさを考えるとき、世界の物流の安定性を維持するために大きな前進が見られたことは明らかです。

日本カトリック難民移住移動者委員会船員司牧部会では100周年にあたり、下記の祈りを作成しました。この7月の間、私たちの日常生活を支えるために、人目に付かない船上で大きな犠牲を払いながら仕事をし続ける船員たちのために、皆様にお祈りいただければ幸いです。

慈しみ深い神よ、わたしたちの生活を支えるために

今日もいのちをかけて世界の海を航海しているすべての船員たちとその家族を

あなたの恵みで満たし、真の幸せに導いてください。

母なる教会は、一人ひとりの霊的・物質的必要に応えてきました。

1920年から船員司牧に関わる全世界の司祭、修道者、ボランティアスタッフと心を一つに合わせ、

100周年を越えて、これからも船員たちとともに歩むことが出来ますように。

神の母聖マリア、海の星、すべての船員たちとその家族を母の愛で包んでください。

離れ離れになっていても、あなたの御子イエスのうちに一つに結ばれ、

家族の絆を守り育てることが出来ますように。アーメン。

6月はイエズスの至聖なる聖心に捧げられた月

末吉町教会「街の灯」2021年6月号巻頭言

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 横浜市では4月20日から特措法に基づくまん延防止等重点措置が公示され、6月20日まで延長されています。このような状況の中で、会衆の参列するミサを継続し、教会の諸活動を実施するために皆様には新型コロナウィルス感染症拡大防止のために沢山の対策にご協力を頂いており、心から感謝しています。

 5月23日(日)の聖霊降臨の主日には、1月10日(日)主の洗礼の主日に予定していた成人式の祝福式を執り行うことが出来ました。1月は緊急事態宣言の発出によって中止となりましたが、こうして8名の新成人が神さまの祝福を受け、そして、一人一人が新成人の抱負を力強く語ってくれたことは、末吉町教会の教会共同体としての歩みにとっても大きな喜びとなりました。新成人の皆様、本当におめでとうございます。

 さて、6月はイエズスの至聖なる聖心に捧げられた月です。典礼暦の上では聖霊降臨から二回目の主日後の金曜日に「イエズスのみ心」の祭日をお祝いします。ちなみに、この日取りはキリストの聖体の祭日後の金曜日にイエズスの聖心の祭日を祝うことを1856年に尊者ピオ9世教皇様が定めたことに依っています。今年は2021年6月11日(金)にお祝いします。

 このイエズスの至聖なる聖心への信心は、12世紀から13世紀にかけて、イエズス・キリストの十字架上での5つの聖なる傷についての信心が深まる中で発展してきました。ちなみに、復活徹夜祭の典礼では復活ロウソクに5つの香粒を十字架の模様に沿って打ち込みますが、この際には「1.その聖なる」「2.栄光ある傷によって、」「3.わたしたちを支え、」「4.守ってくださる」「5.主・キリスト。アーメン。」と祈りますが、イエズス・キリストの聖なる5つの傷への崇敬はここにも受け継がれています。

 12世紀、13世紀に十字架上のイエズス・キリストの聖なる傷に注目した人の中にはクレルヴォーの聖ベルナルドゥス大修道院長やアッシジの聖フランシスコがいます。このような時代に、イエズスの至聖なる聖心への最古の讃歌が作詞されました。「Summi Regis Cor Aveto」(スンミ・レジス・コル・アヴェト)という題名ですが、ドイツのケルンで1150年頃に生まれ、1241年もしくは1252年にツュルピッヒのホーヴェン修道院で帰天したプレモントレ修道会の聖ヘルマン・ヨゼフ・フォン・シュタインフェルド神父様の作品と言われています。

Summi Regis Cor Aveto

Summi Regis Cor aveto / Te Saluto corde laeto / Te complecti me delectate / Et cor meum hoc affectat / Ut ad Te loquar toleres (スンミ・レジス・コル・アヴェト/テ・サルート・コルデ・レト/テ・コンプレクティ・メ・デレクターテ/エット・コル・メウム・ホック・アフェクタット/ウット・アド・テ・ロクアール・トローレス)

(濱田試訳)

めでたし至高なる王のみ心よ、わたしはあなたを喜びをもって讃える、あなたを抱きしめることは私を喜ばせる。そして、あなたがわたしに語り掛けることを許してくださることは、わたしの心の琴線に触れる。

 イエズスの至聖なる聖心への信心は17世紀に入り、フランスのパレ・ル・モニアルにある聖母訪問会の修道女の聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~1690)にイエズス・キリストが1675年6月16日にご出現になり、ご自分の至聖なる聖心への信心を広めるように願われたことで新しい展開を迎えます。これまではイエズス・キリストの十字架上の5つの聖なる傷との関りの中で理解されてきた至聖なる聖心への理解が、「至聖なる聖心に対する人類の忘恩を償う聖体拝領」への呼びかけと合わせて広められるようになっていきました。

 ちなみに、イエズス・キリストは聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズスの聖心の祝日の制定を願いましたが、この願いは前述のように1856年に尊者ピオ9世教皇様によって実現しました。また、同時に「聖心の信心」を大切にする人に12の約束を与えてくださいました。

【イエズスの至聖なる聖心を大切にする者への12の約束】

1.職務を忠実に行うために必要なすべての恵みを与えよう。

2.家庭に平安を与えよう。

3.苦しい時、慰めを与えよう。

4.一生の間、特に臨終の時に確かなよりどころとなろう。

5.すべての事業の上に豊かな祝福を注ごう。

6.罪人は聖心のうちに、憐れみの源と限りない大海を見出すだろう。

7.信仰のにぶい人は熱心になるだろう。

8.熱心な人は高い完徳にすすむだろう。

9.私の姿を公に飾って崇敬するすべての場所を祝福しよう。

10.救霊のために働く人びとに、もっともかたくなな心を感動させる力を与えよう。

11.この信心を広める人びとの名は、聖心に書き記され、けっして消え去ることはないだろう。

12.9か月連続して初金曜日に聖体を拝領する人は、最期の時に痛悔の恵みを与える。苦しむことなく、秘跡なしに死を迎えることなく、聖心が最期の時の避難所となる。

 それでは、聖書の中ではこのイエズスの至聖なる聖心についてどのように説明されているのでしょうか。至聖なる聖心が柔和で謙遜であることをイエズス・キリストはマタイ福音書の中で次のように説明しておられます。

【マタイ福音書1125節~30節】わたしのもとに来なさい

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 また、イエズス・キリストの至聖なる聖心が槍で貫かれてあふれ出た血と水とによって、聖体の秘跡と洗礼の秘跡の恵みが現代にいたるまでカトリック信者一人一人に豊かに注がれていること、また、このときに教会が誕生したことはヨハネ福音書の中で次のように描写されています。

【ヨハネ福音書1931節~37節】イエスのわき腹を槍で突く

31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。 36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 なお、34節の「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」という個所を聖アウグスティヌス司教教会博士は「教会の驚嘆すべき秘跡」のシンボルだと説明しています。そして、復活したイエズス・キリストは恐怖で鍵をかけて部屋に閉じこもっていた使徒たちに現れた際には、ご自分の槍で刺し貫かれた手とわき腹とをお見せになり、ご自分の至聖なる聖心からあふれ出る慈しみが、罪のゆるしをもたらすことを告げ、使徒たちに聖霊をお与えになりました。

【ヨハネ福音書2019節~23節】イエス、弟子たちに現れる

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

復活の主日に、イエズス・キリストと使徒たちが出会ったときに起こったことは、イエズスの至聖なる聖心からあふれ出る慈しみは聖霊によって豊かに注がれることを説き明かし、恐れや怯えから一人一人の魂を開放するものであることを示しています。新型コロナウィルス感染症のパンデミックについて、世界中で終息の兆しが見えない中で、私たちカトリック信者がどのようにこの状況の中で世界を見つめればよいのか、また、自分の心をイエズスの至聖なる聖心に重ね合わせることで、私たちと関りを持つ人々に何をもたらすことが出来るかを考えるヒントがあるのだ、と言えるでしょう。復活の主日から8日後、双子のトマスが、1週間にわたってイエズス・キリストの復活を信じずに他の使徒たちに文句を言っていた時に、イエズス・キリストがどのような言葉を投げかけたかを見れば、この点がさらにはっきりと分かります。

【ヨハネ福音書2024節~29節】イエスとトマス

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

イエズス・キリストは疑いに凝り固まっていたトマスに勧めておっしゃいました。「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」つまり、イエズス・キリストは、トマスに対してご自分の槍で切り開かれたわき腹に手を入れて、至聖なる聖心に直接触れるように勧めたのです。そして、イエズスの至聖なる聖心に直接触れることで、「信じない者ではなく、信じる者に」なる道が開かれることをお示しになりました。

わたしたちは、聖トマスとは違って、復活されたイエズス・キリストの至聖なる聖心に自分の手を置いて、その鼓動を感じることは出来ません。しかし、イエズス・キリストは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と仰せになり、祈りを通して、イエズスの至聖なる聖心に自分の心を重ね合わせることが出来る道が用意されていることをはっきりと約束してくださいました。

このことを、ベネディクト16世名誉教皇様はイエズス会の当時のコルヴェンバッハ総長宛に、至聖なる聖心の信心を勧めたピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』(1956年5月15日)発布50周年を記念する書簡(2006年5月15日付。発表は5月23日)の中で次のように説明されました。

ベネディクト16世教皇【『ハウリエティス・アクアス』発布50周年を記念する書簡】2006515

「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹(ヨハネ19・34参照)を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・・『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」。

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/mikokoro/

 イエズスの至聖なる聖心に捧げられた6月を歩むとき、神さまの全人類への限りのない愛の深さに思いを馳せて、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださったイエズス・キリストの与えてくださる平和の福音を告げ知らせられると素晴らしいですね。イエズスの至聖なる聖心に加えられた侮辱を償う祈りを紹介します。ぜひ、この6月の間、日々の祈りに付け加えてください。

聖心の侮辱を償う決心の祈

 至聖なるイエズスの聖心よ、主が多くの人々より辱(はずか)しめられ給うを償(つぐの)わんために、われらは愛と忠実と、さらに深きけんそんをもって御前(みまえ)にひれ伏し、卑(いや)しきわが身を新たに聖心(みこころ)に献(ささ)げ、今、次の約束をなし奉(たてまつ)る。

 われらの心を聖(せい)ならしめ給う聖心よ、世の人々が、主の聖寵(せいちょう)の妙理(みょうり)を辱しむるとき、▲われらは一層(いっそう)聖心の摂理を深く信じ奉る。

 人類の唯一の希望なる聖心よ、不信の暴風雨が、われらの希望を奪わんとするとき、▲われらは一層主に希望し奉る。

 限りなく愛すべき聖心よ、世の人々が、主の御慈(おんいつく)しみを拒むとき、▲われらは一層深く主を愛し奉る。

 天主(てんしゅ)の聖心よ、世の人々が、主の御神性(ごしんせい)を否(いな)むとき、▲われらは一層主を礼拝し奉る。

 至聖なる聖心よ、主の聖なる掟が忘れられ、背(そむ)かるるとき、▲われらは一層これを守らんと決心し奉る。

 豊かなる恵みを与え給う聖心よ、主の聖なる秘蹟が軽んぜられ忘れらるるとき、▲われらは一層愛と敬いとをもって、これを受けんと励み奉る。

 すべての善徳の模範なる聖心よ、主の崇(あが)むべき御徳(おんとく)が見捨てらるるとき、▲われらは一層主の善徳にならわんと決心し奉る。

 霊魂の救いをあつく望み給う聖心よ、悪魔が人々の霊魂を亡(ほろぼ)ぼさんとするとき、▲われらは一層その救霊(きゅうれい)のために、励まんと決心し奉る。

 辱しめに飽かされたる聖心よ、世の人々が高慢(こうまん)と快楽とのために、おのれの務めを忠実に尽すをいとうとき、▲われらは一層おのれに打ち勝ち、ぎせいの心を養わんと決心し奉る。

 甘美なる聖心よ、世の人々が、主の聖会(せいかい)を軽んずるとき、▲われらは一層聖会の忠実な子たらんと励み奉る。

 やりにて貫(つらぬ)かれたる聖心よ、世の人々が、主の代理者たる教皇を迫害するとき、▲われらは一層かれを信頼し、かれのために祈らんと決心し奉る。

 祈願 至聖なるイエズスの聖心(みこころ)よ、われらをして、この世においては聖心の使徒として励ましめ、天においては主の御栄(みさか)えとならしめんため、▲われらに聖寵(せいちょう)を降(くだ)し、われらの弱さを強め給え。アーメン。

聖ヨゼフの取り次ぎの祈りのうちに歩む

末吉町教会「街の灯」2021年5月号巻頭言

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 5月1日は労働者聖ヨゼフの任意の記念日でした。5月1日がこの記念日として制定されたのは、尊者ピオ12世教皇様の時代、1955年でした。これは、5月が聖母マリアに捧げられた月であることとも関係しています。聖母マリアの浄配である聖ヨゼフの記念日が5月の一番初めの日に置かれていることはとても大きな意味があります。聖母マリアの神の母としての命を育む使命は、聖ヨゼフの支えによって成し遂げられたからです。

なお、5月1日はヨーロッパでは夏の訪れを祝う伝統がローマ帝国の時代から受け継がれてきており、今でも各国では5月1日の前後に大きなお祭りが行われています。19世紀末には、人間らしい労働のあり方を訴える日として5月1日に国際的なアピールが行われはじめたこともあり、大工として聖家族の生活を支えた聖ヨゼフにちなんで尊者ピオ12世教皇様が、労働に従事しているすべてのカトリック信者の守護聖人として「労働者聖ヨゼフ」の祝日を1955年に制定されたことが始まりです。

さて、フランシスコ教皇様は2020年12月8日から2021年12月8日までを、1870年12月8日の福者ピオ9世教皇様による聖ヨゼフを「普遍教会の保護者」として宣言した『クエマドモドゥム・デウス』の公布150周年を記念して使徒的書簡『父の心で』をもって「聖ヨゼフ年」として宣言なさいました。日本カトリック司教団として、2021年2月16日の定例司教総会での認可によって、1909年に聖ピオ10世教皇様によって認可された「聖ヨゼフの連願」の日本語訳を正式に発表しました。

【聖ヨゼフの連願】

主よ、いつくしみを。 ▲主よ、いつくしみをわたしたちに。

キリスト、いつくしみを。 ▲キリスト、いつくしみをわたしたちに。

主よ、いつくしみを。 ▲主よ、いつくしみをわたしたちに。

キリスト、わたしたちの祈りを聞いてください。 ▲キリスト、わたしたちの祈りを聞いてください。

キリスト、わたしたちの祈りを 聞き入れてください。 ▲キリスト、わたしたちの祈りを 聞き入れてください。

神である天の御父 ▲いつくしみをわたしたちに。

神であり世のあがない主である御子 ▲いつくしみをわたしたちに。

神である聖霊 ▲いつくしみをわたしたちに。

唯一の神である聖三位 ▲いつくしみをわたしたちに。

聖マリア ▲わたしたちのために祈ってください。

聖ミカエル ▲わたしたちのために祈ってください。

聖ヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

誉れ高いダビデの子孫 ▲わたしたちのために祈ってください。

太祖の光 ▲わたしたちのために祈ってください。

神の母マリアの夫 ▲わたしたちのために祈ってください。

おとめマリアの純潔な守護者 ▲わたしたちのために祈ってください。

神の御子の養育者 ▲わたしたちのために祈ってください。

キリストの注意深い擁護者 ▲わたしたちのために祈ってください。

聖家族の長 ▲わたしたちのために祈ってください。

まことに正しいヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

まことに貞潔なヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

まことに賢明なヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

まことに勇敢なヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

まことに従順なヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

まことに誠実なヨセフ ▲わたしたちのために祈ってください。

忍耐のかがみ ▲わたしたちのために祈ってください。

貧しさを愛するかた ▲わたしたちのために祈ってください。

職人の模範 ▲わたしたちのために祈ってください。

家庭生活の誉れ ▲わたしたちのために祈ってください。

独身者の守護者 ▲わたしたちのために祈ってください。

家族を支える柱 ▲わたしたちのために祈ってください。

嘆き悲しむ人の慰め ▲わたしたちのために祈ってください。

病める人の希望 ▲わたしたちのために祈ってください。

死に臨む人の保護者 ▲わたしたちのために祈ってください。

悪魔の恐れるかた ▲わたしたちのために祈ってください。

聖なる教会の保護者 ▲わたしたちのために祈ってください。

世の罪を取り除く神の小羊 ▲主よ、わたしたちをゆるしてください。

世の罪を取り除く神の小羊 ▲主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください。

世の罪を取り除く神の小羊 ▲いつくしみをわたしたちに。

神は、ヨセフをご自分の家のあるじとし、 ▲ご自分のすべてのものをおゆだねになりました。

祈りましょう。

神よ、あなたは計り知れない摂理によって、聖ヨセフを聖母の夫としてお選びになりました。この世において聖ヨセフを保護者と敬うわたしたちが、天においてその取り次ぎをいただくことができますように。あなたは世々に生き、治めておられます。アーメン。

2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可

 バチカンの典礼秘跡省はフランシスコ教皇様の認可を受けて、2021年の5月1日「労働者聖ヨゼフ」の記念日にあたり7つの追加の称号をこの「聖ヨゼフの連願」に付け加えました。それは、①Custos Redemptoris, ②Serve Christi, ③Minister salutis, ④Fulcimen in difficultatibus, ⑤Patrone exsulum, ⑥Patrone afflictorum, ⑦Patrone pauperum です。日本語訳は、司教団によっては確定はされていませんが、①贖罪主の保護者、②キリストのしもべ、③救いの奉仕者、④困難の中の支え、⑤亡命した人々の守護者、⑥苦しんでいる人々の保護者、⑦貧しい人々の守護者と訳すことが出来ます。聖ヨゼフ年にあたり、この「聖ヨゼフの連願」も日々の祈りの中に加えてみてはいかがでしょうか。

 さて、今年の労働者聖ヨゼフの記念日は復活節第4土曜日に当たっていたので、ミサの福音個所はヨハネ福音書の14章7節から14節でした。

【ヨハネ福音書147節~14節】

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。14・7「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 ここでは、イエズス・キリストは「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」と仰せになっています。イエズス・キリストの「わざ」、つまり「行い」は天の御父がなさっている「行い」であるのだ、ということです。こうして、「行い」が信仰の証しであることがはっきりと示されています。一方で、イエズス・キリストは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」と仰せになりました。こうして、「業そのもの」、つまり、イエズス・キリストの具体的な「行い」が信じる根拠だということが示されます。

 聖ヨゼフは、毎日の生活の中で養父として、聖母マリアの浄配として幼子イエズスの養育に心を込めて当たりました。相手への具体的なお世話を通して天の御父の「業」を行い、イエズス・キリストが成人するまで育て上げたのです。このように考えると、フランシスコ教皇様が聖ヨゼフの模範を「聖ヨゼフ年」にあたってすべてのカトリック信者に想い起すように勧めている意味がはっきりと浮かび上がってきます。

 イエズス・キリストはヨハネ福音書の中で「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」とも仰せになりました。「聖ヨゼフ年」にあたり、私たち一人一人がイエズス・キリストの行う業を行い、もっと大きな業を行うようになるとき、キリストの聖なるみ名によって願うことは何でもかなえていただけることが分かります。

 なお、労働者聖ヨゼフの記念日の固有の第1朗読の聖書箇所はコロサイの教会への手紙3章14節から15節、17節でした。

【コロサイの教会への手紙 314節~15節、17節】

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 聖ヨゼフの取次を願うことは、私たち一人一人が心から「キリストの平和」が私たちの心を支配するように願い、いつも感謝することが出来るようになることを願うことと同じなのだと言えます。この5月の私たち一人一人の歩みが、聖ヨゼフに倣って、どんなときにも「主の平和」を生きる日々となり、出会う人々への具体的な「愛の実践」であるキリストの業を行うものとなるとき、私たち一人一人の心の中には、「感謝」という言葉がいつも満ち溢れるようになることでしょう。

 皆様が恵みに満ちた5月を過ごすことが出来ますよう、心を込めて祈っています。

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イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Cross

末吉町教会「街の灯」2021年3月号巻頭言

イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Cross

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

2021年に入り、1月8日から首都圏1都3県では政府の緊急事態宣言が発出され、2月に入ってからは3月7日まで延長が発表され、さらにこの度、3月21日(日)までの再延長が発表されました。

 末吉町教会では、3月6日付の『緊急事態宣言延長を受けての3月21日までの末吉町教会の対応について』でも説明させていただきましたが、2020年11月1日付の日本カトリック司教協議会による『日本のカトリック教会における感染症対応ガイドライン』に従って3月21日(日)まで聖堂、信徒会館を施錠し、主日ミサについてはYouTube配信のミサで心を合わせてお祈りいただくように皆さまにお願いしています。

 このようなお願いをすることは、本当に心が痛み、また、多くの皆様に大変大きなご不便をおかけしていることをとても申し訳なく思っています。私たちの献げるこの大きな犠牲が、特に四旬節にあたって至聖贖罪主イエズス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった「贖い(あがない)の神秘」と結ばれていくように心から祈っています。

 この3月中、歴史的な出来事がカトリック教会の中では行われています。それは、3月5日(金)から3月8日(月)までのフランシスコ教皇様によるイラクへの司牧旅行です。イラクでは21世紀に入ってからも2003年のイラク戦争、その後のISISによるモスル(旧約聖書で預言者ヨナが神さまによって悔い改めと回心を告げるために送られたニネベの町の現在の名前です)を中心とする地域の武力による恐怖政治の実施等、また、頻発するテロ事件が起きています。この結果、かつてイラクにはカルデア典礼カトリック信者を中心とする150万人ほどのカトリック信者が生活していましたが、2021年現在、その数は推定値ではありますが、25万人から40万人まで減少してしまいました。これは、その多くが難民として国外に脱出したことによります。

 このような大きな傷を受けたイラク社会とイラクのカトリック信者たちに、フランシスコ教皇様はサーレハ大統領の歓迎を受けた際のスピーチでは「暴力と過激主義、摩擦と不寛容が終結」するように願いを語られ、「イラクは数々の戦争やテロ、異なる民族や宗教グループと平和的に共存できない原理主義に根ざした分離の摩擦による悲惨な影響に苦しんできた」ことに言及され、「この土地には古くからキリスト教徒が存在し、この国の生活に貢献している。その豊かな遺産を、今後も全ての人のために使いたいと、キリスト教徒たちは願っている」ことを告げました。

 また、3月6日にはイスラム教シーア派の最高指導者のアリー・シスタニ師とも会談を行い、宗教間の相互理解の重要性を解き、この地域のよりよい未来への貢献を共に行おう、と呼びかけました。その後、太祖アブラハムのゆかりの地であるイラク南部ウルへの巡礼を行い、ISISの支配下で大きな犠牲を出したカトリック共同体がある北部モスルへの巡礼を行なってからバチカンに戻られるとのことです。

 フランシスコ教皇様が新型コロナウィルス感染症がイラクでも心配される状況の中でもイラク訪問を実施してくださったことは、21世紀にあっても本当に大きな殉教の犠牲を払ったイラクのカトリック信者一人一人にとって大きな希望の灯を灯すものとなったと思います。ちなみに、ローマ教皇のイラクへの司牧旅行は2000年の大聖年にあたって聖ヨハネ・パウロ二世教皇様が計画なさったことが最初でした。ところが、当時のフセイン大統領は聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の依頼を断ります。この結果、2000年2月23日に聖ヨハネ・パウロ二世教皇様はバチカンのパウロ6世ホールで「すべての信者の父」であるアブラハムに思いを寄せて祈りを献げ、霊的巡礼を行いました。こうして、世紀をまたいで聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の夢はフランシスコ教皇様によって実現されました。

 それでは、このイラクへの司牧旅行が持つ意味について考えたいと思います。それは、21世紀の殉教の教会の姿をフランシスコ教皇様はイエズス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった『贖い(あがない)の神秘』と重ね合わせてご覧になっており、この大きな犠牲の先には殉教した人々には天国での永遠の命が与えられること、ディアスポラになって世界中に散っていったイラクのカトリック信者にとっては自分たちのルーツであるイラクの大地は、太祖アブラハムと全能永遠の神が契約を結ばれた聖なる土地であることを意味していることを明らかにする、ということです。

イエズス・キリストが十字架の上で遺された7つの言葉をカトリック教会では伝統的に”Seven Last Words from the Cross”といって、イエズス・キリストの遺言として大切にしています。この7つの言葉を通して『贖い(あがない)の神秘』の意味を深めることが出来る四旬節になるといいですね。

【イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Cross

 カトリック教会の伝統的な理解で、イエズス・キリストが全世界の全ての人の罪や過ちをその身に負って十字架にかけられて、全世界の救いのためにご自分の命を捧げて、贖い(あがない、Redemptio=レデンプツィオ・ラテン語、Redemption=レデンプション・英語)を成し遂げた際に、遺言として7つの言葉を遺されたとされています。

 ちなみに、贖い(あがない)とは、日本語の直訳では「買戻し」という意味で、奴隷を自由身分にするために支払われた身代金のことを古代では意味していました。つまり、人類が罪や過ちという負債によって、罪に隷属させられている状態から、神さまの子供として、尊厳と自由を持つ者へと解放されるために、イエズス・キリストは救い主、贖い主(あがないぬし)としてご自分の尊い生命を代価として差し出してくださったということです。

 この「贖い(あがない)」という考え方があるからこそ、キリスト教的価値観の中では、人種、国籍、言語、性別、年齢の差に関係なく、全ての人が受胎の瞬間から地上で息を引き取る瞬間まで平等に尊厳を持ち、他者からそれを脅かされることがないように「全てのいのちを守る」ことが大切にされます。2019年11月に第266代ローマ教皇であるフランシスコ教皇様が来日した際のテーマである「すべてのいのちを守るため(Protect all life)」も、この考えをもとにしています。

 それでは、7つのイエズス・キリストの十字架上での言葉を見ていきましょう。

Seven Last Words from the Cross 

1番目の言葉:ルカ福音書2334節―ゆるしの言葉-Forgiveness

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

十字架上でのこの最初のイエズス・キリストの言葉は、伝統的に「ゆるしの言葉」と言われます。それは、キリストを十字架につけたローマ軍の兵士と他のすべての人々のために天の御父からゆるしが与えられるように祈られた、イエズス・キリストの祈りとして理解されてきました。

2番目の言葉:ルカ福音書2343節-救いの言葉-Salvation

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 この言葉は伝統的に「救いの言葉」と言われます。十字架刑を通して償いを十分に果たし、心から痛悔して神に立ち返った人に対して、イエズス・キリストが救済意思を明確に示し、天国に連れていくことを明言された言葉です。福音書の中では、この個所で唯一「楽園」(Paradise)という言葉が用いられています。

3番目の言葉:ヨハネ福音書1926節~27節-絆の言葉-Relationship

26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 この言葉は伝統的に「絆の言葉」と言われます。イエズス・キリストがご自分がご死去なさるにあたって、聖母マリアを福音記者ヨハネに託し、霊的に養子縁組を結んだこととして理解されています。したがって、人間の代表である福音記者ヨハネが聖母マリアの霊的な息子になったことによって、現代にいたるまで私たち一人一人は聖母マリアの息子であり娘として、どんなときにも聖母マリアから、天におられる母としての優しさに満ちた眼差しを向けられていることとして理解されています。

4番目の言葉:―遺棄の言葉―Abandonment

a)マルコ福音書15章34節

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

b)マタイ福音書27章46節

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 この言葉は伝統的に「遺棄の言葉」と言われます。この言葉は詩編 22の2節からの引用と考えられています。

1【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

 イエズス・キリストが、罪の闇に沈んでいる全人類を代表して、ゆるしと癒しをもたらしてくださる全能の父である神に向かって叫びをあげて、祈りを捧げられたのだと理解されています。

5番目の言葉:ヨハネ福音書1928節-苦悩の言葉-Distress

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

 この言葉は伝統的に「苦悩の言葉」と言われます。特に、詩編69の22節を実現したとされています。

詩編69・22

17恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。/18あなたの僕に御顔を隠すことなく/苦しむわたしに急いで答えてください。/19わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。/20わたしが受けている嘲りを/恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。/わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。/21嘲りに心を打ち砕かれ/わたしは無力になりました。/望んでいた同情は得られず/慰めてくれる人も見いだせません。/22人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。

6番目の言葉ヨハネ福音書1930節-勝利の言葉-Triumph

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 この言葉は伝統的に「勝利の言葉」と言われます。それは、救い主、贖い主としてのイエズス・キリストの使命において、復活を通して天国の門を開き、永遠の命の扉を開けるためには、地上での人間としての生命において、ご死去を通らなければならなかったことが背景にあります。つまり、イエズス・キリストのご死去によって復活が実現し、主の復活を通して、私たち一人一人にも永遠の命の扉が開かれたので、勝利の言葉として理解されています。

7番目の言葉:ルカ福音書2346節-再会の言葉-Reunion

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

 この言葉は伝統的に「再会の言葉」と言われます。地上を離れて天の祖国へと戻り、御子イエズス・キリストは御父と再会を果たすことになる希望を込めて捧げられた祈りとして理解されています。また、この言葉は、詩編31の6節を祈っている、と理解されています。

詩編 31

1【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

2主よ、御もとに身を寄せます。/とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。/3あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。/砦の岩、城塞となってお救いください。/4あなたはわたしの大岩、わたしの砦。/御名にふさわしく、わたしを守り導き/5隠された網に落ちたわたしを引き出してください。/あなたはわたしの砦。/6まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。/わたしを贖ってください。

四旬節の間、祈りのうちに考えてみたいこと

1)イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Crossの中で、イエス・キリストは「時(とき)」を見極めて、その時にできる最善のわざを行い、世界中の人々の罪や過ちを一身に負って、十字架の道を歩みぬきました。これは他者のために示した無私の愛を示しています。皆さんは、このイエズス・キリストがお示しになった無私の愛に共感できますか。できるとしたら、なぜですか。できないとしたら、なぜですか。

2)十字架上のイエズス・キリストは周りの人からひどい言葉を投げかけられ、傷つけられました。しかし、この傷によって、私たちの傷をご自分の傷と重ね合わせて受け取って下さり、私たちの心を癒してくださいます。もし、自分の周りに心に傷を受けた人がいることに気づいたときに、イエズス・キリストの模範を想い起しながら、自分から相手の心を癒すためにむきあう勇気は持っていますか。

3)キリスト教の伝統に“Memento Mori”(メメント・モリ)というラテン語の言い伝えがあります。日本語にすると「死を想い起せ」という意味です。灰の水曜日の灰の式では「悔い改めて福音を信じなさい」と言われ灰を受けることになっていますが、これは、いつ、自分の死が訪れても、後悔することなく満足できるような人生を送ってきたかを確認する言葉です。自分の日々の生活の中で、「今という瞬間を大切にして生きる」ことによって、日々、満足しながら生活を送ることは出来ていますか。

『聖ヨゼフの年』に聖ヨゼフ様に捧げる祈りの変更について

 2020年12月8日から2021年12月8日まで全世界のカトリック教会では聖ヨゼフ年を祝っています。この聖ヨゼフ年にあたって捧げる祈りについて、日本の司教団では、2月16日の定例司教総会で、レオ13世教皇様の聖ヨゼフへの祈りの公式日本語訳を確定しました。今後、皆様にはこのレオ13世教皇様の聖ヨゼフへの祈りを毎日の祈りの中で捧げることによって聖ヨゼフ年の祈りとしていただければ、と思います。

この祈りは、聖ヨセフに対する信心に関する教皇レオ十三世の回勅「クアムクアム・プルリエス」(1889年8月15日)とともに発表されました。

聖ヨセフへの祈り

聖ヨセフよ、わたしたちは苦難の中からあなたにより頼み、あなたの妻、聖マリアの助けとともに、あなたの保護を心から願い求めます。

あなたと汚れないおとめマリアを結んだ愛、幼子イエスを抱いた父の愛に信頼して、心から祈ります。

イエス・キリストがご自分の血によってあがなわれた世界をいつくしみ深く顧み、困難のうちにあるわたしたちに力強い助けをお与えください。

聖家族の賢明な守護者よ、イエス・キリストの選ばれた子らを見守ってください。

愛に満ちた父ヨセフよ、わたしたちから過ちと腐敗をもたらすあらゆる悪を遠ざけてください。

力強い保護者よ、闇の力と戦うわたしたちを顧み、天から助けを与えてください。

かつて幼子イエスをいのちの危険から救ったように、今も神の聖なる教会を、あらゆる敵意と悪意から守ってください。

わたしたち一人ひとりを、いつも守ってください。

あなたの模範と助けに支えられて聖なる生活を送り、信仰のうちに死を迎え、天における永遠の幸せにあずかることができますように。

アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可)

緊急事態宣言にあたって―ヨゼフ様への祈りの大切さ

末吉町教会「街の灯」2021年1月号巻頭言

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

2020年は新型コロナウィルス感染症拡大による緊急事態宣言によって教会閉鎖が実施され、ミサが再開された後も末吉町教会では人数制限によるミサ参列やミサ中の沈黙の徹底等、大きな犠牲を皆様に払っていただいた一年でした。2021年はどのようになるのかと思っていたところ、1月8日から2月7日まで、再度の緊急事態宣言によって、この1か月の間、教会閉鎖を実施することとなりました。皆様には大きな犠牲を再び払っていただくことになり、とても心苦しく思いますが、私たちが生活する社会の中で、一人でも多くの命と健康が守られるように捧げる犠牲として、祈りの心で受け止めていただければと心から願っています。

 本来であれば1月10日、主の洗礼の祝日には成人式の祝福式が行われる予定でした。今年、新成人となった皆さん一人一人の上に神様の祝福と恵みが豊かに注がれるように心を込めて祈っています。なお、成人の祝福式については、緊急事態宣言解除後に日を改めて行おうと考えています。

 私たちが捧げる犠牲について考えるとき、テモテへの手紙Ⅱの次の個所を祈りの手掛かりにすることができます。

【Ⅱテモテ13節~14節】

ゆだねられているものを守る

3わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。 4わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。 5そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。 6そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、 10今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 11この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 12そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

この手紙は、テモテに宛てて書かれたパウロの手紙とされています。テモテとは、伝承によると、65年にパウロによって司教叙階(按手)を受けてエフェソの司教になったそうです。そして、テモテは15年にわたりエフェソの教会の司教として司牧したそうです。なお、他の伝承によると90年または93年まで司牧したそうです。エフェソではローマ帝国の他の地域と同様に、キリスト教徒にも自分たちの神々を礼拝させようとしたそうです。そして、テモテにも自分たちの神を礼拝させようとしましたが、テモテは従わずに彼らに対して福音を説きました。激怒した人々はテモテを街路にひきずりだし、石を投げて殺したという伝承があります。

テモテの堅固な信仰は使徒パウロによって教え導かれていく中で形成されてきたことが分かります。パウロは7節で神さまが私たちに「力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」ことを指摘しています。そして、8節、9節では「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによる」のだと示しています。

この新型コロナウィルス感染症拡大がますます加速していく日々の生活の中で、私たち一人一人は信仰面でも仕事や生活の上でも大きな犠牲を強いられています。しかし、この日々の重圧の中でも、私たちには私たちを支える「神の力」が働いていることをパウロははっきりと教えています。

全世界が大きな困難を共有している中で、フランシスコ教皇様は2020年12月8日に「カトリック教会の保護者」の称号が1870年に福者ピオ9世教皇様から聖ヨゼフに捧げられたことの150周年を記念して、使徒的書簡『パトリス・コルデ(Patris corde)』を発表され、2021年12月8日までを「ヨセフ年」として宣言なさいました。この「ヨセフ年」について、カトリック中央協議会のお知らせでは次のように説明されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/12/08/21746/

教皇フランシスコ、「ヨセフ年」を宣言

2020年12月8日から2021年12月8日まで

教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言しました。

教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆることを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つことがなかった生き方に触れています。聖ヨセフは「執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれる人」だと教皇は記しています。

使徒的書簡は福者ピオ9世教皇が1870年12月8日に聖ヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言してから150年を記念して発表されました。教皇フランシスコは使徒的書簡で、新型コロナウイルスのパンデミックが続く中で、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています。

『パトリス・コルデ』(現在、日本語の公式訳はありませんので私の試訳です。)

序文:(略) 神の母であるマリアに次いで、教皇の教導職において彼女の配偶者であるヨゼフほど頻繁に言及される聖人はいません。私の前任者たちは、救いの歴史における彼の中心的な役割をより完全に理解するために、福音書によって伝えられた限られた情報に含まれているメッセージを省察しました。福者ピオ9世は、彼を「カトリック教会の守護聖人」と宣言しました。尊者ピオ12世は彼を「労働者の守護者」として、聖ヨハネ・パウロ2世は「贖い主の守護者」として提示しました。聖ヨゼフは「幸せな死の守護聖人」として普遍的に思い起こされます。

福者ピオ9世による「カトリック教会の守護者」としての宣言(1870年12月8日)から150年後、私はこの並外れた人物について、私たち自身の人間の経験に非常に近いいくつかの個人的な省察を共有したいと思います。なぜなら、イエズスが言われるように、「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」(マタイ12:34)からです。パンデミックのこの数ヶ月の間に、私たちは危機の中で、「生活が普通の人々によって織り合わされ、支えられていることを経験していますが、人々はしばしば見過ごされてきました。新聞や雑誌の見出しや最新のテレビ番組に登場しない人々が、今も確かに私たちの歴史の決定的な出来事を形作っています。医師、看護師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、介護職員、輸送労働者、基本的なサービスと公共の安全を提供するために働く男性と女性、ボランティア、司祭、修道士、修道女、その他多くの人々です。彼らは誰も一人では救われることがないことを理解しました。…パニックではなく責任を共有するように注意しながら、毎日何人もの人々が忍耐をしながら希望を提供しています。何人もの父親、母親、祖父母や教師が、私たちの子供たちに、日常生活を適合させ、先を見据え、祈りの実践を奨励することによって、危機を受け入れ、対処する方法を日常的に示しています。何人もの人が祈り、犠牲を払い、すべての人のために世話をしています。」私たち一人一人は、毎日、ヨゼフを見出すことができます―見過ごされ、控えめで、隠された存在-執り成し手、支え手、そして困難の時の導き手として。聖ヨセフは、隠れているように見える人や影の中にいる人も、救いの歴史において比類のない役割を果たすことができることを私たちに思い出させます。このような人々を認めること、また感謝の言葉はこれらすべてによるのです。

(中略)

4項:受け入れる父親

ヨゼフはマリアを無条件に受け入れました。彼は天使の言葉を信頼しました。「ヨゼフの心の高潔さは、彼が慈しみにより頼んで律法から学んだことであります。今日、女性に対する心理的、言語的、肉体的暴力が非常に明白である私たちの世界では、ヨゼフは敬意と繊細さを持つ男性の姿として現れます。彼は全体像を理解してはいませんでしたが、マリアの評判と彼女の尊厳、そして彼女の人生を守ることを決心します。最善の行動をとるのをためらっていた彼を、神は判断を啓発することによって助けました。」

多くの場合、人生では、その意味が理解できないことが起こります。私たちの最初の反応は、しばしば失望と反感であります。ヨゼフは、出来事の過程を受け入れ、それらを受け入れ、責任を負い、彼自身の歴史の一部にするために、彼自身の考えを脇に置きました。私たち自身の歴史と和解しない限り、私たちは一歩も前進することはできません。私たちは常に私たちの期待とそれに続く失望の人質であり続けるからです。

ヨゼフが私たちのためにたどるこの霊的な道は、説明ではなく、受容です。この受け入れること、つまり、和解の結果としてのみ、私たちはより広い歴史、より深い意味を垣間見ることができます。ヨブが耐えていた悪に抵抗するように促した妻へのヨブの熱烈な返事が響き渡ります。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2:10)。

ヨゼフは確かに受動的に諦めさせられたのではなく、勇気を持ってしっかりと積極的に諦観させられました。私たち自身の生活の中で、受け入れと歓迎は、聖霊の勇気の賜物(=剛毅の徳)の表現でありえます。主だけが、矛盾、欲求不満、失望を伴うとしても、人生をそのまま受け入れるために必要な力を私たちに与えることができます。

私たちの只中にいるイエズスの姿は、父からの賜物であり、完全に理解できない場合でも、私たち一人一人が個人史の身体性と和解することを可能にします。

神がヨゼフに言われたように、「ダビデの子よ、恐れることはありません!」(マタ1:20、訳注:新共同訳では「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」)あたかも彼は私たちにこう言っているようです:「恐れることはありありません!」。私たちはすべての怒りと失望を脇に置き、私たちが望むように結果が出なかったとしても、物事のあり方を受け入れる必要があります。単なる諦めではなく、希望と勇気を持ってです。このようにして、私たちはより深い意味に心を開くことになります。福音に従って生きる勇気があれば、私たちの生活は奇跡のように再生されます。すべてがうまくいかなかったように見えても、いくつかの問題が修正できなくなっていても関係ありません。神は石の多い地面からでも花を咲かせることができます。たとえ私たちの心が私たちを非難したとしても、「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(1 ヨハネ3:20)。

(後略)

 フランシスコ教皇様は聖ヨゼフの眼差しを現代のコロナ禍の中で苦しみ続けている全人類に示してくださいました。この状況をどのような思いで受けれいるのか、また、このような状況の中で周囲の人々に対してどのような眼差しを向け、どのような関りを結んでいくのかという点です。

 私たち一人一人が聖ヨゼフの眼差しを自らのものとし、聖霊の助けの中で最善の行動を見出し、たとえ人目につくことはないとしても、この社会を構成し、人類史を織り成す大切な一員であることを心に刻んで、神さまの慈しみと愛をもたらすことができるように祈りのうちに歩んでまいりましょう。

 今年の12月8日まで、どうか日々の祈りの中に聖ヨゼフへの祈りを付け加えてください。

【カトリック祈祷書 祈りの友】(カルメロ神父編 サンパウロ社)

213頁:聖ヨセフへの祈り(十月中ロザリオの後に唱える)

 幸せな聖ヨセフよ、あなたは聖マリアと愛の絆で結ばれ、幼な子イエスに尽くされました。イエスの御血によってあがなわれたわたしたちを顧みてください。あなたのご保護を願います。

 聖家族の柱なる聖ヨセフよ、イエスに選ばれたわたしたちを守ってください。すべての迷いと悪徳を遠ざけてください。

 力ある保護者聖ヨセフよ、やみの権威と戦うわたしたちを助けてください。聖なる教会を困難から守ってください。わたしたちが信仰をもって生涯を貫くことができるよう見守ってください。アーメン。

新しい典礼暦年が始まりました

末吉町教会「街の灯」2020年12月号巻頭言

新しい典礼暦年が始まりました

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

今年も11月29日(日)の待降節第1主日から新しい典礼暦年が始まりました。生活の暦では「年末」という意識ではありますが、祈りにおいては新しい歩みを始めるのだ、という決意を新たにして、コロナ禍の中であっても神様の恵みを地球上に生きる全ての人がいただくことが出来るように心を込めて一日、一日を重ねてまいりましょう。

 さて、11月には、11月1日(日)の諸聖人の祭日に、11:30の日本語ミサと14:00の英語ミサで末吉町教会の皆様のご家族やご友人で帰天された方々の芳名禄を奉納し、お一人お一人の永遠の安息を心を合わせてお祈りすることが出来ました。皆様、ありがとうございました。

11月8日(日)には13:30から相沢墓地で、また14:45からは上大岡墓地で墓前の祈りをお捧げしました。今年も200基近いお墓に1基ずつ灌水、献香をしながら祈りをおさげしましたが、今年は横浜教区のルカ上杉優太助祭様とアルバを身に着けた典礼奉仕者も一緒でしたので、コロナ禍での制限がいろいろとありましたが荘厳に祈りをお捧げすることが出来ました。こうして私たちよりも一足早く神さまの元へ帰天された兄弟姉妹とも、霊的な絆で一つに結ばれていることを深く感じられる素晴らしい祈りのひと時を準備し、奉仕してくださった典礼委員会や墓地管理委員会をはじめとする皆様、本当にありがとうございました。

 11月15日(日)には七五三の祝福式が行われ、子供たちが健やかに成長している姿を目の当たりにでき、そして、神さまが一人一人を心から慈しんで祝福してくださったことは素晴らしい恵みの時でした。私は、2007年5月3日に司祭に叙階された際に、叙階記念カードに載せる聖句として「『子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコ福音書10章15b~16節)という個所を選びましたので、子供たちが健やかに成長している姿を末吉町教会全体でお祝いできたことは本当にうれしいことです。

 そして、11月15日の11:30ミサ後から、教会学校リーダーの皆様のご尽力で、ミサに来た子供たちは信徒会館ホールで、ご家庭の事情でミサ参列を遠慮している子どもたちはZoomを用いたオンライン参加で教会学校を再開することが出来ました。こうして、IT技術を用いて、一人でも多くの子どもたちと福音の喜びを分かち合うことができるようになったことを本当に神様に感謝しています。皆様、どうか子どもたちの信仰が健やかに成長していくようお祈りください。

 11月28日(土)には、例年であれば1泊2日で待降節黙想会をするところですが、新型コロナウィルス感染症拡大防止対策の一環として、飲食、宿泊をしないことを前提として、14:00から18:00に短縮した形で教会学校待降節黙想会を実施しました。参加者は22名でしたので、例年よりは少ないですが、それでも、こうして主の降誕の喜びに向けての準備を重ねることが出来たことは本当に素晴らしいことです。

 11月29日(日)には10:00から14:00の予定で、イエズス会の赤松神父様を講師として待降節黙想会を開催することが出来ました。今回は、コロナ禍での開催ということで、赤松神父様にも無理を承知でお願いをして、Youtubeの「末吉町教会公式」チャンネルで講話をライブ配信させていただきました。こうして、ご自宅でステイホームを実践しておられる皆様とも待降節黙想会の霊的実りを共に味わうことが出来ましたこと、本当にうれしく思います。なお、フィリピン共同体の黙想会については、今年は対面では実施せず、オンライン形式で山手教会助任司祭のダリル・ディニョ神父様の指導で行われることになりました。こうして、今年の待降節も素晴らしい霊的な実りをそれぞれの共同体が味わうことができることを神様に心から感謝しています。

 さて、カトリック教会の典礼暦年は大きく分けると、「〇〇節」と呼ばれる「季節」とそれ以外の期間の「年間」に分かれています。その順番は、主の降誕に向けての準備を行う「待降節(Adventus・アドヴェントゥス)」、主の降誕を祝う「降誕節」、その後、「年間」となり、今度は主の受難の道を共に歩む「四旬節」、そして主の復活を祝う「復活節」、その後、再び「年間」となり、年間第34週をもって1年の典礼暦年が結びを迎えます。ちなみに、「待降節」と「四旬節」の典礼色は紫色、「降誕節」と「復活節」の典礼色は「白色」、「年間」の典礼色は緑色となっています。色の違いに注目すると、主日についてはどの季節を歩んでいるかがすぐにわかるようになっています。

 この「待降節」は、主の降誕に向けての準備期間ですが、クリスマスはあらゆる人間の誕生の意味を説き明かすときでもあることを聖ヨハネ・パウロ2世教皇聖下は回勅『いのちの福音』の中で教えておられます。1995年3月25日、「神のお告げ(Anunciatio)」の祭日に公布された回勅『いのちの福音』は「人間のいのちの価値と不可侵性について司教、司祭と助祭、修道者、信徒、そしてすべての善意の皆さんへ」宛てて公布されました。つまり、クリスマスを祝う全ての人に向けられているメッセージでもあります。この待降節の間、また、降誕節にあたって私たち一人一人がどのような思いを周りの人たちと共有していけばよいのかを考えるヒントが沢山散りばめられています。

回勅『いのちの福音』

序文

1項 いのちの福音は、イエスのメッセージの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への「よい知らせ」として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません。救いの出来事の初めに喜ばしい知らせとしてのべ伝えられるのは、イエスの誕生です。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・10)。この「大きな喜び」の源は救い主の誕生ですが、クリスマスはまた、あらゆる人間の誕生の意味も余すところなく説き明かしています。メシア誕生の喜びは、あらゆる人間がこの世に生まれ出るときの喜びの礎であり、完成なのです(ヨハネ16・21参照)。  イエスはあがないの使命の神髄を、こう説きます。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。実にイエスは、父との交わりの中に存在するあの「新しい」「永遠の」いのちのことを言っているのです。すべての人は、聖霊の清める力のもとに、御子において、自由にそのいのちにあずかることができます。人間のいのちのあらゆる局面と発達段階が十分にそれぞれの重要さに達するのは、まさにこの「いのち」においてなのです。

 この指摘から分かるのは、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は「救い」の出来事の初めにイエズス・キリストが赤ちゃんとして私たちと同じ人間性を帯びてお生まれになったことが喜びの知らせだと理解しているということです。このことが、「いのち」の祝祭としてのクリスマスの深い意義を示しているのです。続いて、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は「人格の無比無類な価値」について2項で次のように説明しています。

人格の無比無類な価値

2項 人間はこの世に存在する者ですが、その次元をはるかに超えるいのちの豊かさへと招かれています。いのちは、神のいのちそのものにあずかるところにあるからです。この崇高な超自然的招きは、人間のいのちがこの世の様相を帯びるものであっても、偉大さとはかりしれない価値を持つことを明らかにします。事実、時間のうちにあるいのちは、人間存在を一つにまとめ上げたプロセス全体の根本的な状態であり、その最初の段階であり、なくてはならない要素です。時間のうちにあるいのちは、思いもよらない形で、分不相応にも神の約束によって導かれ、神のいのちのたまものによって刷新されるプロセスであり、永遠性において完成に至るプロセスなのです(1ヨハネ3・1参照)。同時に、一人ひとりのこの世の生が持つ相対的な性格に光を当てるのは、この超自然的な招きにほかなりません。結局のところ、この世の生は「究極の」現実ではなく、「究極に至る手前の」現実です。

 聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は、私たちいのちが神さまの豊かないのちにあずかることによって、偉大な性格を与えられ、はかりしれない価値を持つことを教えています。このことは、コロナ禍で自由に人と交流したり、出かけたりすることが困難な状況の中で、2020年のクリスマスに向けての待降節の祈りのポイントになると思います。私たちは、たとえ何もしていないように感じさせられる時間を過ごしているとしても、時間の中で生きている、というこの事実によって日々、新たにされ、神のいのちのたまものを豊かに受け取っているということが分かるからです。教皇様はつぎのように続けています。

2項(続き) とはいえ、わたしたちにゆだねられたこの世の生は、責任を自覚して保持すべき聖なる現実、愛において、また神と兄弟姉妹への献身的な行いをとおして完成へと至るべき聖なる現実なのです。教会は、主から受けたこのいのちの福音が、信仰者だけでなくすべての人の心の奥底に響き、揺り動かしていることを知っています。それは、いのちの福音は、人の心に潜むあらゆる期待をはるかに超えると同時に、そのような期待を驚くべきありようでことごとく満たすからです。すべての人は、さまざまな困難や不確かさの中にあっても、真実と善に対して誠実に立ち向かえば、理性の光と人知れず働く恵みによって心に書き記された自然法の中に(ローマ2・14参照)、始まりから死に至るまでの人間のいのちには神聖な価値があることを理解することができ、さらに、すべての人間の権利には、このうえなく尊重すべき基本的善があると断言できるのです。人間の手になるあらゆる共同体は、政治的なものも含めて、この人権理解に基づいて築かれます。とりわけ、キリストを信じる者は、第2バチカン公会議が説く素晴らしい真理を念頭に置いて、この人権を守り育てなければなりません。「神の子が受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」この救いの出来事は、「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ2・16)神の限りない愛だけではなく、さらには、すべての人格には比類のない価値があることを人類に啓示します。

 教皇様の教えの中でとりわけ注目したいのは、この世の生について「責任を自覚して保持すべき聖なる現実、愛において、また神と兄弟姉妹への献身的な行いをとおして完成へと至るべき聖なる現実」なのだ、という部分です。コロナ禍で多くの人たちの心には不安や心配、時には恐怖が深く澱のように沈殿しています。このような状況の中で、カトリック信仰を生きる私たちがどのように「いのちの福音」を生き、今年のクリスマスに向けて、生活の中で出会う人たちにこの喜びを伝えていけばよいのでしょうか。聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は「さまざまな困難や不確かさの中にあっても、真実と善に対して誠実に立ち向かえば、理性の光と人知れず働く恵みによって心に書き記された自然法の中に(ローマ2・14参照)、始まりから死に至るまでの人間のいのちには神聖な価値があることを理解することができ」ることを私たちにお示しになっています。そして、救いの出来事は「『そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された』(ヨハネ2・16)神の限りない愛」を示しているのだと教えています。

 もし、私たちが救い主イエズス・キリストの降誕を祝うことを、天の御父が私たち人類一人一人をこの上なく愛してくださっているしるしとして、そのひとり子をこの世の全ての人にお与えになった天からのしるしとして心から祝えるならば、わしたちが出会う人に向けるまなざしは愛に満ちたもの、優しさに満ちたもの、感謝に満ちたもの、敬意を払うものになっていくことでしょう。

 教皇様は2項の結びで次のように教えています。

2項(続き) あがないの秘義を心を込めて黙想するたびに、教会は感嘆の思いを新たにしてこの価値を承認します。教会は、どの時代にあっても確固とした希望の源でありまことの喜びであったこの「福音」を、あらゆる時代の人々にのべ伝えるようにとの招きを感じています。人類に神の愛を告げる福音、人格の尊厳を説く福音、そしていのちの福音は、同じ唯一の福音であり、別々に考えることはできません。  このような理由で、人間―生きている人間―は、教会へと続く第一の道、根源的な道を示すといえるのです。

 教皇様の教えを素直に受け止めるとき、私たちがイエズス・キリストの降誕を希望の源、まことの喜びとして心から祝えるならば、私たち自身が神さまから全人類にもたらされた「福音」を体現してくことが出来るようになることが分かります。それは、人類に神の愛を告げる福音となること、人格の尊厳を解く福音になることです。コロナ禍での毎日の生活の中で、知らず知らずのうちに私たちの心の奥底に沈殿していく不安や恐れ、心配は、イエズス・キリストの降誕を祝うために祈りを捧げながら待降節の日々を歩むとき、きっと「福音」の美しいまばゆい光に照らされて、氷解していくことと思います。

 私たちが毎日の生活の中で新型コロナウィルス感染症対策は万全に取ることは、他の人の命を守るために、自分の大切な家族や友人の命を守るために、そして、なによりも自分の命を守るためには当然のことですが、心はいつもいのちの福音をもたらされた主イエズス・キリストによって満たされて、出会う人にも喜びや慰め、希望や励ましをもたらすことを目指すことが出来れば、新しい典礼暦年も希望に満ちた日々を歩み続けることが出来ると思います。

 マザー・テレサ(コルカタの聖テレサ)は次のような言葉を残しています。

 小さなことに忠実でありなさい。/思いやりの心をこめましょう。/その中にわたしたちの力があるのですから。/多くを与えることはできないかもしれません。/けれど、いつも神と共にいる愛のうちにわき上がる喜びを与えることができるのです。(『マザー・テレサ日々のことば』ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなますみかこ訳 女子パウロ会2009年 「12月18日 our strength lies」より。

マタイ福音書では、「共にいて下さる神」として、イエズス・キリストの誕生が告げられています。

マタイ福音書120節~23 イエス・キリストの誕生

20主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

私たちの待降節の歩みが、「共にいて下さる神」であるイエズス・キリストからの愛に心の扉を開き、わき上がる喜びを出会う人々に贈る日々となりますように。

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11月は死者の月-煉獄の霊魂のために「全免償」を贈りましょう

末吉町教会「街の灯」2020年11月号巻頭言

11月は死者の月-煉獄の霊魂のために「全免償」を贈りましょう

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

11月はカトリック教会の伝統として「死者の月」を祈りのうちに過ごします。その始まりである11月1日には「諸聖人の祭日」をお祝いしますが、今年は日曜日にあたっているので、特に沢山の方と心を合わせてお祈りすることが出来ました。また、11月第1日曜日の末吉町教会の慣例に従って今年も日本語と英語のミサではそれぞれのご家族やご友人で帰天された方の芳名禄を祭壇に捧げ、特にお一人お一人の永遠の安息をお祈りすることが出来たことにも神さまからの大きな慰めを感じています。

カトリック教会にはローマ教皇の公式宣言によって公式に「聖なる普遍教会の聖人録」に名前が記される列聖式が執り行われた「聖人」が沢山いますが、この聖人たちだけが天国の住人というわけではありません。地上での人生の歩みの中で勇敢に福音的勧告を生き抜き、聖なる生活を歩んだ数えきれないほどのカトリック信者たちが、今や「至福直観」の恵みを頂きながら「聖人」として天上のエルサレム、つまり、神の御国で永遠の喜びを生きています。このような、カトリック教会の典礼暦において全世界で、または各教区で記念日や祝日、祭日が割り当てられていない全ての聖人を想い起して賛美する日として「諸聖人の祭日」をお祝いします。ちなみにラテン語では”Sollemnitas Omnium Sanctorum”(ソレムニタス・オムニウム・サンクトールム)と言います。なお、8世紀にグレゴリオ3世教皇(在位731年~741年)がローマのサンピエトロ大聖堂に「使徒と全ての聖人・殉教者のため」に聖遺物を安置した「小聖堂=(Oratorio)」を建立しましたが、この祝日が11月1日に祝われるようになっていったことで、「諸聖人の祭日」を11月1日祝うようになりました。なお、カール大帝の時代にはフランク王国内では11月1日にこの祭日を祝っていたことが記録されています。そして、835年にはルイ敬虔王の布告によってフランク王国内ではカトリック信者の「守るべき祝日」とされました。

それでは、全ての死者が死後、すぐに天国に迎え入れられるのでしょうか。神さまの救いの約束に心からの信頼を置いて地上での人生を終え、旅立ちの時を迎えたけれども、未だに果たしていない罪の償いのために「煉獄」で清めの時を過ごしながら、天国に迎え入れられる日を待ち望んでいる死者の霊魂がたくさんいます。ですから、「諸聖人の祭日」を祝った翌日である11月2日には「死者の日」の祈りを捧げます。ラテン語では”[Dies] in commemoratione omnium fidelium defunctorum”(ディエス・イン・コメモラツィオーネ・オムニウム・フィデリウム・デフンクトールム)と言いますが、直訳すると「全ての死せる信者の記念」の日といいます。

「死者の日」には煉獄にいる霊魂のために神さまの慈しみを心から求めて、死者の代わりとして「代願」の祈りを捧げ、ミサや死者のための聖務日課をはじめとする典礼が捧げられます。

煉獄については、『カトリック教会のカテキズム』1030項以下で次のように教えられています。

【最終の清め・煉獄】

「1030項:神の恵みと神との親しい交わりを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます。

1031項:教会は、永遠にのろわれた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の個所に基づいた、清めの火というものを取り上げています。」

煉獄については、ラテン語ではpurgatoriumと言いますが、これは「浄化する場」という意味です。ドイツ語ではFegefeuerといって、「(罪の汚れを)払う火」という意味です。したがって、日本語の「煉獄」やドイツ語の「フェーゲフォイヤ」という訳語には、聖書にある「清めの火」という概念が色濃く反映されていることが分かります。

聖書の中で使徒パウロは次のように教えています。

コリント31017

03・10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 03・11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 03・12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 03・13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 03・14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 03・15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。 03・16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 03・17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

使徒パウロは、イエス・キリストという土台の上に建てられた家が私たちであることを示したうえで、「かの日」つまり、「審判の日」に火によって全ての人の人生が吟味され、ある人のキリストという土台の上に「建てた仕事」は残り、ある人の建物は燃え尽きてしまうけれども、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われ」る、つまり、「煉獄」の「清めの火」をくぐり抜けて救われることを教えています。また、私たち一人一人は神の神殿であるけれども、それを壊す者については、「滅び」の宣告を受けること、つまり、「地獄」へと落ちることをもはっきりと教えています。

聖書の中で初代教皇ペトロは次のように教えています。

ペトロ13b7

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 01・04 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 01・05 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 01・06 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 01・07 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

Ⅰペトロ書では、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られてい」ることを示したうえで、「公審判」のときに、つまり神の裁きの日に現わされる救いのために今しばらくの間、火で精錬されながらも朽ちるほかない「地上的物質」にすぎない金よりもはるかに尊い実りが、「清めの火」によって魂にもたらされることが教えられています。

私たちが「死者の月」である11月の間、死者の魂のために祈ることは、旧約聖書続編にあるⅡマカバイ記に記されているユダ・マカバイの死者のための祈りと重なり合うとき、神さまの恵み深さに信頼を置いた深い祈りとなって、「煉獄」で清めを待つ人々の魂にとってかけがえのない、この上なく美しい贈り物となっていきます。

マカバイ記123645

12・36 エスドリスの部隊が連戦の果て、疲労の極みにあったので、ユダは主に向かって、共に戦い、神自ら指揮をとってくださるように祈った。 12・37 そして、父祖たちの言葉で神を賛美しつつ、鬨の声をあげ、ゴルギアスの軍に不意打ちをかけ、これを敗走させた。 12・38 ユダは軍隊を率いてアドラムの町へ行った。第七日が近づいていたので、いつものように身を清め、その地で安息日を守った。 12・39 翌日ユダとその兵士たちは、いつまでも放置しておけないので戦死者たちのなきがらを持ち帰り、墓に葬って先祖の列に加えるために出発した。 12・40 ところが、それぞれ死者の下着の下に、律法によってユダヤ人が触れてはならないとされているヤムニアの偶像の守り札が見つかり、この人々の戦死の理由はこのためであるということがだれの目にも明らかになった。 12・41 一同は、隠れたことを明らかにされる正しい裁き主の御業をたたえながら、 12・42 この罪が跡形もなくぬぐい去られることを、ひたすら祈願した。高潔なユダは、これらの戦死者たちの罪の結果を目撃したのであるから、この上はだれも罪を犯してはならないと一同を鼓舞した。 12・43 次いで、各人から金を集め、その額、銀二千ドラクメを贖罪の献げ物のためにエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行いであった。 12・44 もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。 12・45 だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである。

このように、聖書に起源をもち、歴代公会議でも確認され、1962年から1965年にかけて開催された第2バチカン公会議でも確認された、カトリック教会の長い歴史の中で大切にされてきた「煉獄の魂」のために捧げられる祈りですが、教皇庁内赦院からは特に「免償の手引き(Manuale delle Indulgenze)」の中で特別な「免償規定」が付与されています。今年、2020年11月については、全世界での新型コロナウィルス感染症が猛威をふるっている現状に鑑みて、今年の11月のみ、以下の通り、免償規定が変更されることになりました。

a. 111日から118日までの各日において、故人のために、たとえ精神の上だけでも、墓地を訪問し、祈る者に与えられる全免償を、11月中の他の日々に代替できる。これらの日々は、個々の信者が自由に選ぶことができ、それぞれの日が離れていても可能である。

 b. 「死者の日」を機会に、聖堂を敬虔に訪問し、「主の祈り」と「信仰宣言(クレド)」を唱えることで与えられる112日の全免償は、「死者の日」の前後の日曜日、あるいは「諸聖人の日」に代替できるものであるが、信者が個々に選べる、11月中の別のある1日に代替することもできる。

高齢者、病者、そして、たとえばパンデミック時において、多数の信者が聖なる場所に集まることを避けるために当局から出された制限令など、重大な理由のために外出できないすべての人は、他のすべての信者と心を合わせ、あらゆる罪から完全に離れようとする心を持ち、全免償を得るために必要な通常の3つの条件(ゆるしの秘跡、聖体拝領、教皇の意向に従った祈り)を可能な限り早く果たす意志を持ち、イエスあるいは至福なるおとめマリアの聖画像の前で、敬虔に死者のための祈り、たとえば、「教会の祈り」(聖務日課)中の「死者の日」に唱える聖務の朝と晩の祈り、あるいは、ロザリオの祈り、神のいつくしみのチャプレット、その他、信者に最も親しまれている死者のための祈りを唱える、または、死者の典礼で提案される福音朗読箇所の一つを黙想しながら読む、もしくは自分の生活の苦しみと困難を神に捧げつつ、いつくしみの業を行うことで、全免償が与えられる。

ちなみに、規定a.にある例年の「11月1日から11月8日」という期間設定は、シクストゥス4世教皇(在位1471年~1484年)によって11月1日から8日まで「諸聖人のオクターブ(8日間)」が制定され、1955年の典礼暦改革によって義務のオクターブから外されるまで祝われてきた伝統に基づいています。

末吉町教会としては、今年も例年通り相沢墓地と上大岡墓地で墓参の祈りをお捧げします。今年からは、末吉町教会の司祭館に司祭が一人だけの体制になりましたので、第1日曜日には14:00の英語ミサも私が捧げますから、墓地での祈りは11月第2日曜日に移動することを教会委員会で決定しました。したがって、11月8日に相沢墓地では13:30から、上大岡墓地では14:45から祈りをお捧げします。今年は新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止の観点から、全員で声を合わせてお祈りしたり、聖歌をお捧げすることはせずに、皆様には沈黙で祈っていただくことになります。この墓地を訪問して捧げられる祈りによって「全免償」を受け、その「全免償」を煉獄の霊魂に贈ることが出来ます。

なお、末吉町教会の墓地にお墓をもっていらっしゃらない方も、今年については11月中のいずれの日でも、霊的な墓参をすることで「全免償」を受けることが出来ますので、ぜひ心を合わせてお祈り下さい。ゆるしの秘跡については、個別に申し出ていただければお授けいたしますので、この世を去った大切なご家族の霊魂に神様の慈しみ深さからあふれ出る美しい「全免償」の恵みを贈る方が一人でも多くなるように心から願っています。また、11月29日(日)にはイエズス会の赤松神父様(栄光学園チャプレン)による待降節黙想会が開催されますが、その際には赤松神父様と私とでゆるし秘跡も行いますので、その際にゆるしの秘跡を受けていただいても「全免償」を受ける条件を満たすことが出来ます。

カトリック教会は三位一体の神と共に永遠の賛美を歌う天使たちと諸聖人による「天上の教会」と、天国に迎え入れられる日を心待ちにしながら清めの時を過ごす霊魂がいる「煉獄の教会」と私たちが毎日の生活を送っている「地上の教会」という3階層からなっています。この3階層の教会が「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会」であることを想い起しながら「死者の月」を通して「煉獄の教会」の霊魂を身近に意識して、清めを待つ霊魂のために祈りを捧げながら過ごす1か月になると素晴らしいですね。

10月18日は「世界宣教の日」

10月18日は「世界宣教の日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 9月20日に敬老の祝福式を執り行いました。例年であれば、10月に開催する銀嶺会の際に祭壇前に皆様にお集まりいただき、聖堂での祝福の後、聖堂前ホールで会食をしつつ、教会学校から歌のプレゼントをしたり、フィリピン共同体の皆さんがいろいろな演目を披露するところですが、今年は新型コロナウィルス感染症拡大防止対策のため、10月11日(日)に予定していた銀嶺会を中止せざるを得ませんでしたので、ミサ中にそれぞれのお席にとどまっていただいてか、モニター越しでの祝福式となりました。ただ、神さまからの恵みは例年と変わらず皆様の上に注がれましたので、この1年も、皆様が健やかに日々を重ねていっていただけることと本当にうれしく思います。

 さて、7月4日(土)に助祭に叙階されたルカ上杉優太助祭様ですが、神学院の夏季休暇中は静岡県で過ごしていましたから、なかなか末吉町教会の皆さんとはお会いできない日が続いていましたが、東京カトリック神学院の後期が始まり、9月26日(土)から土日に末吉町教会と港南教会に司牧研修に毎週来てくれることになりました。神学院にとっても、それぞれの神学生、助祭をさいたま教区や東京大司教区、横浜教区の教会に送ることについては、新型コロナウィルス感染症拡大防止の観点でいろいろと議論はあったこととは思いますが、こうして、私たちとともにミサで祈り、また、色々な制限はあれども、信仰生活を共に歩むことが出来るようになり、本当にうれしく思います。9月27日(日)にはさっそくミサ説教の奉仕もしてくれました。今後も私と交代でミサ説教の奉仕をしてくださいます。末吉町教会が信仰共同体として上杉助祭様から霊的な糧を頂くことが出来ることは本当に素晴らしいことです。

 10月は「ロザリオの月」ですが、10月7日(水)は「ロザリオの聖母」の記念日です。末吉町教会では毎年、10月は11:00からみんなで声を合わせ、心を合わせてロザリオの祈りを捧げてきましたが、今年は残念ながら新型コロナウィルス感染症拡大防止対策にあるように、聖堂内では沈黙を優先することになっていますから、声を合わせてお捧げすることが出来ません。代替策として、上杉助祭様の先唱で11:00からロザリオの祈りを聖堂で捧げますが、皆様は沈黙のうちに先唱の上杉助祭様の声に心を合わせてロザリオの祈りをお捧げいただければと思います。また、YouTubeでも配信予定ですので、モニター越しであっても心を合わせてお祈り下さればと願っています。ロザリオの祈りはとても大切な祈りですから、日曜日以外にも毎日お捧げ下さるように心からお勧めします。

ところで、10月には20世紀に生きた聖人の記念日がありますが、10月22日には聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の任意の記念日をお祝いします。そして、今年から新たに新設された任意の記念日として、「いつくしみのチャプレット」の私的啓示を受け、聖ヨハネ・パウロ二世教皇様によって列聖され、復活節第2主日が「神のいつくしみの主日」として制定される際に大きな貢献をした聖ファウスティナ・コヴァルスカ修道女の記念日が10月5日となりました。10月1日はリジューの聖テレジア、10月2日は守護の天使、10月4日はアシジの聖フランシスコの記念日ですから、10月前半には、どうぞそれぞれの聖人や天使の取次を願ってお祈りください。

さて、今年の「世界宣教の日」(毎年10月の最後から2番目の日曜日)は10月18日です。今年のフランシスコ教皇様のメッセージはイザヤ書から題名がとられています。

2020年「世界宣教の日」教皇メッセージ

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年10月、教会全体が「福音宣教のための特別月間」に熱意をもって取り組んだことを神に感謝したいと思います。わたしはこの特別月間が、「洗礼を受け、派遣される──世界で宣教するキリストの教会」をテーマとする歩みを通して、多くの共同体で、宣教のための回心を促すことに貢献したと確信しています。

 COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックがもたらす苦しみやさまざまな課題が著しい今年、教会全体は、預言者イザヤの召命物語にある次のことばに照らされながら、この宣教の歩みを続けています。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。このことばは、「だれを遣わすべきか」(同)という主の問いかけに対する、つねに新たにされるこたえです。神のみ心から、神のいつくしみから出るこの呼びかけは、今日の世界的な危機のただ中で、教会と人類に向けられています。「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。わたしたちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、だれもが大切で必要な存在なのだと。皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと。この舟の上に……わたしたち皆がいます。不安の中で声をそろえて『おぼれて』(マルコ4・38)しまうと叫ぶあの弟子たちのように、わたしたちも自力で進むことはできず、ともに力を出すことで初めて前進できるのだと知ったのです」(「特別な祈りの式におけるウルビ・エト・オルビのメッセージ」2020年3月27日)。わたしたちは心底おびえ、途方に暮れ、不安にさいなまれています。痛みと死により、人間のもろさを痛感していますが、それと同時に、だれもが生きたい、悪から解放されたいという強い思いを抱いていることに気づかされます。こうした状況においては、宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へとわたしたちを変えるのです。

フランシスコ教皇様は冒頭でこのように述べられ、同じ舟の上に私たち全員が乗っていることに気づく体験として今般の新型コロナウィルス感染症拡大を捉えています。そして、分かち合い、奉仕、執り成しを通して神と隣人への愛を生き、自分を差し出す勇気を持つことの重要性を示しておられます。そして、第4段落、第5段落では次のように述べておられます。

「使命(ミッション)、『教会が出向いて行くこと』とは、ある種の計画でも、意思の力だけでなし遂げる意向でもありません。教会を外に出向かせておられるのはキリストに他なりません。福音を告げ知らせるという使命を果たそうとするのは、聖霊があなたを突き動かし、あなたを導いておられるからです」(教皇フランシスコ『このかたなしには何もできない──現代世界で宣教者であること』16-17〔Senza di Lui non possiamo far nulla: Essere missionari oggi nel mondo, Libreria Editrice Vaticana-San Paolo, 2019〕)。神はいつも、まず先にわたしたちを愛してくださり、その愛をもってわたしたちに会い、わたしたちを呼んでおられるのです。一人ひとりの召命は、教会においてわたしたちが神の息子、娘であり、神の家族であること、イエスが示した神の愛において兄弟姉妹である、という事実から生まれます。ただし、だれもが人間としての尊厳をもっています。その尊厳は、神の子になりなさい、洗礼の秘跡と自由意志による信仰によってみ心につねにかなう者になりなさいという神の呼びかけに根ざしています。

 すでに無償でいのちを受けたということが、一粒の種として自分自身を差し出すという力強い動きに加わるよう招かれていることを示唆しています。洗礼を受けた人のうちでその種は、結婚生活や神の国のために独身で生きることの中で、愛の応答として実ります。人間のいのちは神の愛から生まれ、愛のうちに成長し、愛に向かいます。だれも神の愛から排除されることはありません。そして神は、十字架上の御子イエスの聖なるいけにえのうちに、罪と死に勝利されました(ローマ8・31-39参照)。神にとって悪は──罪でさえも──、愛するため、さらに深く愛するための機会となります(マタイ5・38-48、ルカ23・33-34参照)。ですから、神のいつくしみは、過越の神秘を通して、人類の原初の傷をいやし、宇宙全体へと注がれているのです。この世界のための神の愛の普遍的秘跡である教会は、イエスの使命を歴史の中で引き継ぎ、あらゆるところへわたしたちを派遣します。それは、わたしたちによる信仰のあかしと福音の告知を通して、神がご自分の愛をはっきりとお示しになり、いつどこででも、人々の心に、思いに、からだに、社会に、文化に触れて、それらを変えられるようにするためです。

フランシスコ教皇様は、神さまから遣わされる体験である宣教について、「聖霊があなたを突き動かし、あなたを導いておられる」ことなのだと説明します。これは、教会が「この世界のための神の愛の普遍的秘跡」であることと深くかかわっています。つまり、私たち一人一人が自分と出会う人たちに対して、具体的な関りの中で神の愛を伝えられるとき、相手へのほほえみややさしさ、親切さ、手助けする行動などがそれにあたりますが、これらを実践するとき、私たち一人一人はまさに教会の一員として「神の愛の普遍的秘跡」を携えて相手に出会い、聖霊に突き動かされて神の愛を相手に尊い美しい贈り物として手渡していけるのだ、ということです。フランシスコ教皇様は第6段落、第7段落で次のように述べています。

 宣教は、神の呼びかけへの自由で自覚的な応答です。しかし、その呼びかけは、教会のうちに現存されるイエスとの個人的な愛の結びつきを生きているときにのみ気づけるものです。次のように自らに問いましょう。聖霊を自分の人生に迎え入れる心構えができているだろうか。結婚生活を送るにせよ、独身での奉献生活や叙階による司祭職を生きるにせよ、日常生活の中で、宣教への呼びかけに耳を傾ける備えができているだろうか。いつくしみ深い父なる神への信仰をあかしするために、イエス・キリストの救いの福音を告げ知らせるために、教会を築くことによって聖霊の聖なるいのちを分かち合うために、どこへでも派遣される覚悟ができているだろうか。イエスの母マリアのように、何のためらいもなく、み旨に仕える備えができているだろうか(ルカ1・38参照)。こうした心構えは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と神にこたえるために欠かせないものです。しかも、それは抽象的なことではなく、教会と歴史の今この瞬間にあることなのです。

このパンデミックのときに神が何を語っておられるかを理解することもまた、教会の宣教に課せられた挑戦です。病、苦しみ、恐れ、孤立が、わたしたちに挑んでいます。看取られずに亡くなった人、独りで置き去りにされた人、仕事も収入も失った人、家や食べ物のない人、そうした人々の窮状がわたしたちを問いただします。ソーシャルディスタンスや在宅が要請される中で、わたしたちは社会的なかかわりだけでなく、共同体としての神とのかかわりも必要としていることを再認識するよう招かれています。こうした事態によって促されるのは、不信感や無関心を増幅することなどではなく、他者とのかかわり方にこれまで以上に心を配ることであるべきです。また、祈り──その中で神はわたしたちの心に触れ、働きかけておられます──を通して、わたしたちの心は、兄弟姉妹が求める愛と尊厳と自由へ、すべての被造物の保護へと開かれます。感謝の祭儀を祝うために教会として集うことができなくなったことで、わたしたちは、主日ごとにミサを行えない多くのキリスト教共同体の境遇に触れることができました。こうした状況の中で、神は再びわたしたちに問いかけておられます。「だれを遣わすべきか」。そして、物惜しみしない確信に満ちたこたえを待っておられます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。神は、ご自分の愛と、罪と死からの救いと、悪からの解放をあかしするために、世界と諸国民のもとに遣わす人を探し続けておられます(マタイ9・35-38、ルカ10・1-12参照)。

今年は、特に末吉町教会でも教会閉鎖期間が3月末から長く続いたりしました。また、現在でもミサ参列について100名までの人数制限をし、ミサ中も沈黙を守っていただく制限が続いています。しかし、このような困難はあれども、許しの秘跡や病者の塗油の秘跡、また臨終の祈りや納棺式、葬儀ミサや追悼ミサや納骨式は執り行われています。こうして、信仰共同体として神様との関りをしっかりと保っている末吉町教会共同体であれば、必ずこの困難な状況の中でも「神の愛の普遍的秘跡」として地域における希望の源として福音宣教者の共同体でい続けることが出来ると確信しています。

教皇様は「世界宣教の日」の意義について教皇メッセージの中で次のように説明しておられます。

「世界宣教の日」を記念することは、いかに皆さんの祈り、黙想、物的支援が、教会におけるイエスの使命に積極的にあずかる機会となっているかを、再確認することでもあります。10月の第三主日の典礼祭儀での献金として行われる愛のわざは、教皇庁宣教事業がわたしの名で行う宣教活動を支えています。それは、すべての人を救うために、世界中の人々と教会の霊的・物的なニーズにこたえるための活動に使われます。

福音宣教の星、悲しむ人の慰め、御子イエスの宣教する弟子である至聖なるおとめマリアが、わたしたちのために執り成し、わたしたちを支え続けてくださいますように。

私たち末吉町教会共同体の祈りと物的支援が世界中で最も祈りと支援を必要としている人のもとにフランシスコ教皇様の手を通して届けられ、沢山の人に聖霊の炎が灯り、希望と喜びと感謝が満ち溢れますように。

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