イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Cross

末吉町教会「街の灯」2021年3月号巻頭言

イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Cross

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

2021年に入り、1月8日から首都圏1都3県では政府の緊急事態宣言が発出され、2月に入ってからは3月7日まで延長が発表され、さらにこの度、3月21日(日)までの再延長が発表されました。

 末吉町教会では、3月6日付の『緊急事態宣言延長を受けての3月21日までの末吉町教会の対応について』でも説明させていただきましたが、2020年11月1日付の日本カトリック司教協議会による『日本のカトリック教会における感染症対応ガイドライン』に従って3月21日(日)まで聖堂、信徒会館を施錠し、主日ミサについてはYouTube配信のミサで心を合わせてお祈りいただくように皆さまにお願いしています。

 このようなお願いをすることは、本当に心が痛み、また、多くの皆様に大変大きなご不便をおかけしていることをとても申し訳なく思っています。私たちの献げるこの大きな犠牲が、特に四旬節にあたって至聖贖罪主イエズス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった「贖い(あがない)の神秘」と結ばれていくように心から祈っています。

 この3月中、歴史的な出来事がカトリック教会の中では行われています。それは、3月5日(金)から3月8日(月)までのフランシスコ教皇様によるイラクへの司牧旅行です。イラクでは21世紀に入ってからも2003年のイラク戦争、その後のISISによるモスル(旧約聖書で預言者ヨナが神さまによって悔い改めと回心を告げるために送られたニネベの町の現在の名前です)を中心とする地域の武力による恐怖政治の実施等、また、頻発するテロ事件が起きています。この結果、かつてイラクにはカルデア典礼カトリック信者を中心とする150万人ほどのカトリック信者が生活していましたが、2021年現在、その数は推定値ではありますが、25万人から40万人まで減少してしまいました。これは、その多くが難民として国外に脱出したことによります。

 このような大きな傷を受けたイラク社会とイラクのカトリック信者たちに、フランシスコ教皇様はサーレハ大統領の歓迎を受けた際のスピーチでは「暴力と過激主義、摩擦と不寛容が終結」するように願いを語られ、「イラクは数々の戦争やテロ、異なる民族や宗教グループと平和的に共存できない原理主義に根ざした分離の摩擦による悲惨な影響に苦しんできた」ことに言及され、「この土地には古くからキリスト教徒が存在し、この国の生活に貢献している。その豊かな遺産を、今後も全ての人のために使いたいと、キリスト教徒たちは願っている」ことを告げました。

 また、3月6日にはイスラム教シーア派の最高指導者のアリー・シスタニ師とも会談を行い、宗教間の相互理解の重要性を解き、この地域のよりよい未来への貢献を共に行おう、と呼びかけました。その後、太祖アブラハムのゆかりの地であるイラク南部ウルへの巡礼を行い、ISISの支配下で大きな犠牲を出したカトリック共同体がある北部モスルへの巡礼を行なってからバチカンに戻られるとのことです。

 フランシスコ教皇様が新型コロナウィルス感染症がイラクでも心配される状況の中でもイラク訪問を実施してくださったことは、21世紀にあっても本当に大きな殉教の犠牲を払ったイラクのカトリック信者一人一人にとって大きな希望の灯を灯すものとなったと思います。ちなみに、ローマ教皇のイラクへの司牧旅行は2000年の大聖年にあたって聖ヨハネ・パウロ二世教皇様が計画なさったことが最初でした。ところが、当時のフセイン大統領は聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の依頼を断ります。この結果、2000年2月23日に聖ヨハネ・パウロ二世教皇様はバチカンのパウロ6世ホールで「すべての信者の父」であるアブラハムに思いを寄せて祈りを献げ、霊的巡礼を行いました。こうして、世紀をまたいで聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の夢はフランシスコ教皇様によって実現されました。

 それでは、このイラクへの司牧旅行が持つ意味について考えたいと思います。それは、21世紀の殉教の教会の姿をフランシスコ教皇様はイエズス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった『贖い(あがない)の神秘』と重ね合わせてご覧になっており、この大きな犠牲の先には殉教した人々には天国での永遠の命が与えられること、ディアスポラになって世界中に散っていったイラクのカトリック信者にとっては自分たちのルーツであるイラクの大地は、太祖アブラハムと全能永遠の神が契約を結ばれた聖なる土地であることを意味していることを明らかにする、ということです。

イエズス・キリストが十字架の上で遺された7つの言葉をカトリック教会では伝統的に”Seven Last Words from the Cross”といって、イエズス・キリストの遺言として大切にしています。この7つの言葉を通して『贖い(あがない)の神秘』の意味を深めることが出来る四旬節になるといいですね。

【イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Cross

 カトリック教会の伝統的な理解で、イエズス・キリストが全世界の全ての人の罪や過ちをその身に負って十字架にかけられて、全世界の救いのためにご自分の命を捧げて、贖い(あがない、Redemptio=レデンプツィオ・ラテン語、Redemption=レデンプション・英語)を成し遂げた際に、遺言として7つの言葉を遺されたとされています。

 ちなみに、贖い(あがない)とは、日本語の直訳では「買戻し」という意味で、奴隷を自由身分にするために支払われた身代金のことを古代では意味していました。つまり、人類が罪や過ちという負債によって、罪に隷属させられている状態から、神さまの子供として、尊厳と自由を持つ者へと解放されるために、イエズス・キリストは救い主、贖い主(あがないぬし)としてご自分の尊い生命を代価として差し出してくださったということです。

 この「贖い(あがない)」という考え方があるからこそ、キリスト教的価値観の中では、人種、国籍、言語、性別、年齢の差に関係なく、全ての人が受胎の瞬間から地上で息を引き取る瞬間まで平等に尊厳を持ち、他者からそれを脅かされることがないように「全てのいのちを守る」ことが大切にされます。2019年11月に第266代ローマ教皇であるフランシスコ教皇様が来日した際のテーマである「すべてのいのちを守るため(Protect all life)」も、この考えをもとにしています。

 それでは、7つのイエズス・キリストの十字架上での言葉を見ていきましょう。

Seven Last Words from the Cross 

1番目の言葉:ルカ福音書2334節―ゆるしの言葉-Forgiveness

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

十字架上でのこの最初のイエズス・キリストの言葉は、伝統的に「ゆるしの言葉」と言われます。それは、キリストを十字架につけたローマ軍の兵士と他のすべての人々のために天の御父からゆるしが与えられるように祈られた、イエズス・キリストの祈りとして理解されてきました。

2番目の言葉:ルカ福音書2343節-救いの言葉-Salvation

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 この言葉は伝統的に「救いの言葉」と言われます。十字架刑を通して償いを十分に果たし、心から痛悔して神に立ち返った人に対して、イエズス・キリストが救済意思を明確に示し、天国に連れていくことを明言された言葉です。福音書の中では、この個所で唯一「楽園」(Paradise)という言葉が用いられています。

3番目の言葉:ヨハネ福音書1926節~27節-絆の言葉-Relationship

26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 この言葉は伝統的に「絆の言葉」と言われます。イエズス・キリストがご自分がご死去なさるにあたって、聖母マリアを福音記者ヨハネに託し、霊的に養子縁組を結んだこととして理解されています。したがって、人間の代表である福音記者ヨハネが聖母マリアの霊的な息子になったことによって、現代にいたるまで私たち一人一人は聖母マリアの息子であり娘として、どんなときにも聖母マリアから、天におられる母としての優しさに満ちた眼差しを向けられていることとして理解されています。

4番目の言葉:―遺棄の言葉―Abandonment

a)マルコ福音書15章34節

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

b)マタイ福音書27章46節

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 この言葉は伝統的に「遺棄の言葉」と言われます。この言葉は詩編 22の2節からの引用と考えられています。

1【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

 イエズス・キリストが、罪の闇に沈んでいる全人類を代表して、ゆるしと癒しをもたらしてくださる全能の父である神に向かって叫びをあげて、祈りを捧げられたのだと理解されています。

5番目の言葉:ヨハネ福音書1928節-苦悩の言葉-Distress

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

 この言葉は伝統的に「苦悩の言葉」と言われます。特に、詩編69の22節を実現したとされています。

詩編69・22

17恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。/18あなたの僕に御顔を隠すことなく/苦しむわたしに急いで答えてください。/19わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。/20わたしが受けている嘲りを/恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。/わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。/21嘲りに心を打ち砕かれ/わたしは無力になりました。/望んでいた同情は得られず/慰めてくれる人も見いだせません。/22人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。

6番目の言葉ヨハネ福音書1930節-勝利の言葉-Triumph

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 この言葉は伝統的に「勝利の言葉」と言われます。それは、救い主、贖い主としてのイエズス・キリストの使命において、復活を通して天国の門を開き、永遠の命の扉を開けるためには、地上での人間としての生命において、ご死去を通らなければならなかったことが背景にあります。つまり、イエズス・キリストのご死去によって復活が実現し、主の復活を通して、私たち一人一人にも永遠の命の扉が開かれたので、勝利の言葉として理解されています。

7番目の言葉:ルカ福音書2346節-再会の言葉-Reunion

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

 この言葉は伝統的に「再会の言葉」と言われます。地上を離れて天の祖国へと戻り、御子イエズス・キリストは御父と再会を果たすことになる希望を込めて捧げられた祈りとして理解されています。また、この言葉は、詩編31の6節を祈っている、と理解されています。

詩編 31

1【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

2主よ、御もとに身を寄せます。/とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。/3あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。/砦の岩、城塞となってお救いください。/4あなたはわたしの大岩、わたしの砦。/御名にふさわしく、わたしを守り導き/5隠された網に落ちたわたしを引き出してください。/あなたはわたしの砦。/6まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。/わたしを贖ってください。

四旬節の間、祈りのうちに考えてみたいこと

1)イエズス・キリストの遺言-Seven Last Words from the Crossの中で、イエス・キリストは「時(とき)」を見極めて、その時にできる最善のわざを行い、世界中の人々の罪や過ちを一身に負って、十字架の道を歩みぬきました。これは他者のために示した無私の愛を示しています。皆さんは、このイエズス・キリストがお示しになった無私の愛に共感できますか。できるとしたら、なぜですか。できないとしたら、なぜですか。

2)十字架上のイエズス・キリストは周りの人からひどい言葉を投げかけられ、傷つけられました。しかし、この傷によって、私たちの傷をご自分の傷と重ね合わせて受け取って下さり、私たちの心を癒してくださいます。もし、自分の周りに心に傷を受けた人がいることに気づいたときに、イエズス・キリストの模範を想い起しながら、自分から相手の心を癒すためにむきあう勇気は持っていますか。

3)キリスト教の伝統に“Memento Mori”(メメント・モリ)というラテン語の言い伝えがあります。日本語にすると「死を想い起せ」という意味です。灰の水曜日の灰の式では「悔い改めて福音を信じなさい」と言われ灰を受けることになっていますが、これは、いつ、自分の死が訪れても、後悔することなく満足できるような人生を送ってきたかを確認する言葉です。自分の日々の生活の中で、「今という瞬間を大切にして生きる」ことによって、日々、満足しながら生活を送ることは出来ていますか。

『聖ヨゼフの年』に聖ヨゼフ様に捧げる祈りの変更について

 2020年12月8日から2021年12月8日まで全世界のカトリック教会では聖ヨゼフ年を祝っています。この聖ヨゼフ年にあたって捧げる祈りについて、日本の司教団では、2月16日の定例司教総会で、レオ13世教皇様の聖ヨゼフへの祈りの公式日本語訳を確定しました。今後、皆様にはこのレオ13世教皇様の聖ヨゼフへの祈りを毎日の祈りの中で捧げることによって聖ヨゼフ年の祈りとしていただければ、と思います。

この祈りは、聖ヨセフに対する信心に関する教皇レオ十三世の回勅「クアムクアム・プルリエス」(1889年8月15日)とともに発表されました。

聖ヨセフへの祈り

聖ヨセフよ、わたしたちは苦難の中からあなたにより頼み、あなたの妻、聖マリアの助けとともに、あなたの保護を心から願い求めます。

あなたと汚れないおとめマリアを結んだ愛、幼子イエスを抱いた父の愛に信頼して、心から祈ります。

イエス・キリストがご自分の血によってあがなわれた世界をいつくしみ深く顧み、困難のうちにあるわたしたちに力強い助けをお与えください。

聖家族の賢明な守護者よ、イエス・キリストの選ばれた子らを見守ってください。

愛に満ちた父ヨセフよ、わたしたちから過ちと腐敗をもたらすあらゆる悪を遠ざけてください。

力強い保護者よ、闇の力と戦うわたしたちを顧み、天から助けを与えてください。

かつて幼子イエスをいのちの危険から救ったように、今も神の聖なる教会を、あらゆる敵意と悪意から守ってください。

わたしたち一人ひとりを、いつも守ってください。

あなたの模範と助けに支えられて聖なる生活を送り、信仰のうちに死を迎え、天における永遠の幸せにあずかることができますように。

アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可)

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