緊急事態宣言にあたって―ヨゼフ様への祈りの大切さ

末吉町教会「街の灯」2021年1月号巻頭言

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

2020年は新型コロナウィルス感染症拡大による緊急事態宣言によって教会閉鎖が実施され、ミサが再開された後も末吉町教会では人数制限によるミサ参列やミサ中の沈黙の徹底等、大きな犠牲を皆様に払っていただいた一年でした。2021年はどのようになるのかと思っていたところ、1月8日から2月7日まで、再度の緊急事態宣言によって、この1か月の間、教会閉鎖を実施することとなりました。皆様には大きな犠牲を再び払っていただくことになり、とても心苦しく思いますが、私たちが生活する社会の中で、一人でも多くの命と健康が守られるように捧げる犠牲として、祈りの心で受け止めていただければと心から願っています。

 本来であれば1月10日、主の洗礼の祝日には成人式の祝福式が行われる予定でした。今年、新成人となった皆さん一人一人の上に神様の祝福と恵みが豊かに注がれるように心を込めて祈っています。なお、成人の祝福式については、緊急事態宣言解除後に日を改めて行おうと考えています。

 私たちが捧げる犠牲について考えるとき、テモテへの手紙Ⅱの次の個所を祈りの手掛かりにすることができます。

【Ⅱテモテ13節~14節】

ゆだねられているものを守る

3わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。 4わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。 5そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。 6そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、 10今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 11この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 12そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

この手紙は、テモテに宛てて書かれたパウロの手紙とされています。テモテとは、伝承によると、65年にパウロによって司教叙階(按手)を受けてエフェソの司教になったそうです。そして、テモテは15年にわたりエフェソの教会の司教として司牧したそうです。なお、他の伝承によると90年または93年まで司牧したそうです。エフェソではローマ帝国の他の地域と同様に、キリスト教徒にも自分たちの神々を礼拝させようとしたそうです。そして、テモテにも自分たちの神を礼拝させようとしましたが、テモテは従わずに彼らに対して福音を説きました。激怒した人々はテモテを街路にひきずりだし、石を投げて殺したという伝承があります。

テモテの堅固な信仰は使徒パウロによって教え導かれていく中で形成されてきたことが分かります。パウロは7節で神さまが私たちに「力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」ことを指摘しています。そして、8節、9節では「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによる」のだと示しています。

この新型コロナウィルス感染症拡大がますます加速していく日々の生活の中で、私たち一人一人は信仰面でも仕事や生活の上でも大きな犠牲を強いられています。しかし、この日々の重圧の中でも、私たちには私たちを支える「神の力」が働いていることをパウロははっきりと教えています。

全世界が大きな困難を共有している中で、フランシスコ教皇様は2020年12月8日に「カトリック教会の保護者」の称号が1870年に福者ピオ9世教皇様から聖ヨゼフに捧げられたことの150周年を記念して、使徒的書簡『パトリス・コルデ(Patris corde)』を発表され、2021年12月8日までを「ヨセフ年」として宣言なさいました。この「ヨセフ年」について、カトリック中央協議会のお知らせでは次のように説明されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/12/08/21746/

教皇フランシスコ、「ヨセフ年」を宣言

2020年12月8日から2021年12月8日まで

教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言しました。

教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆることを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つことがなかった生き方に触れています。聖ヨセフは「執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれる人」だと教皇は記しています。

使徒的書簡は福者ピオ9世教皇が1870年12月8日に聖ヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言してから150年を記念して発表されました。教皇フランシスコは使徒的書簡で、新型コロナウイルスのパンデミックが続く中で、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています。

『パトリス・コルデ』(現在、日本語の公式訳はありませんので私の試訳です。)

序文:(略) 神の母であるマリアに次いで、教皇の教導職において彼女の配偶者であるヨゼフほど頻繁に言及される聖人はいません。私の前任者たちは、救いの歴史における彼の中心的な役割をより完全に理解するために、福音書によって伝えられた限られた情報に含まれているメッセージを省察しました。福者ピオ9世は、彼を「カトリック教会の守護聖人」と宣言しました。尊者ピオ12世は彼を「労働者の守護者」として、聖ヨハネ・パウロ2世は「贖い主の守護者」として提示しました。聖ヨゼフは「幸せな死の守護聖人」として普遍的に思い起こされます。

福者ピオ9世による「カトリック教会の守護者」としての宣言(1870年12月8日)から150年後、私はこの並外れた人物について、私たち自身の人間の経験に非常に近いいくつかの個人的な省察を共有したいと思います。なぜなら、イエズスが言われるように、「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」(マタイ12:34)からです。パンデミックのこの数ヶ月の間に、私たちは危機の中で、「生活が普通の人々によって織り合わされ、支えられていることを経験していますが、人々はしばしば見過ごされてきました。新聞や雑誌の見出しや最新のテレビ番組に登場しない人々が、今も確かに私たちの歴史の決定的な出来事を形作っています。医師、看護師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、介護職員、輸送労働者、基本的なサービスと公共の安全を提供するために働く男性と女性、ボランティア、司祭、修道士、修道女、その他多くの人々です。彼らは誰も一人では救われることがないことを理解しました。…パニックではなく責任を共有するように注意しながら、毎日何人もの人々が忍耐をしながら希望を提供しています。何人もの父親、母親、祖父母や教師が、私たちの子供たちに、日常生活を適合させ、先を見据え、祈りの実践を奨励することによって、危機を受け入れ、対処する方法を日常的に示しています。何人もの人が祈り、犠牲を払い、すべての人のために世話をしています。」私たち一人一人は、毎日、ヨゼフを見出すことができます―見過ごされ、控えめで、隠された存在-執り成し手、支え手、そして困難の時の導き手として。聖ヨセフは、隠れているように見える人や影の中にいる人も、救いの歴史において比類のない役割を果たすことができることを私たちに思い出させます。このような人々を認めること、また感謝の言葉はこれらすべてによるのです。

(中略)

4項:受け入れる父親

ヨゼフはマリアを無条件に受け入れました。彼は天使の言葉を信頼しました。「ヨゼフの心の高潔さは、彼が慈しみにより頼んで律法から学んだことであります。今日、女性に対する心理的、言語的、肉体的暴力が非常に明白である私たちの世界では、ヨゼフは敬意と繊細さを持つ男性の姿として現れます。彼は全体像を理解してはいませんでしたが、マリアの評判と彼女の尊厳、そして彼女の人生を守ることを決心します。最善の行動をとるのをためらっていた彼を、神は判断を啓発することによって助けました。」

多くの場合、人生では、その意味が理解できないことが起こります。私たちの最初の反応は、しばしば失望と反感であります。ヨゼフは、出来事の過程を受け入れ、それらを受け入れ、責任を負い、彼自身の歴史の一部にするために、彼自身の考えを脇に置きました。私たち自身の歴史と和解しない限り、私たちは一歩も前進することはできません。私たちは常に私たちの期待とそれに続く失望の人質であり続けるからです。

ヨゼフが私たちのためにたどるこの霊的な道は、説明ではなく、受容です。この受け入れること、つまり、和解の結果としてのみ、私たちはより広い歴史、より深い意味を垣間見ることができます。ヨブが耐えていた悪に抵抗するように促した妻へのヨブの熱烈な返事が響き渡ります。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2:10)。

ヨゼフは確かに受動的に諦めさせられたのではなく、勇気を持ってしっかりと積極的に諦観させられました。私たち自身の生活の中で、受け入れと歓迎は、聖霊の勇気の賜物(=剛毅の徳)の表現でありえます。主だけが、矛盾、欲求不満、失望を伴うとしても、人生をそのまま受け入れるために必要な力を私たちに与えることができます。

私たちの只中にいるイエズスの姿は、父からの賜物であり、完全に理解できない場合でも、私たち一人一人が個人史の身体性と和解することを可能にします。

神がヨゼフに言われたように、「ダビデの子よ、恐れることはありません!」(マタ1:20、訳注:新共同訳では「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」)あたかも彼は私たちにこう言っているようです:「恐れることはありありません!」。私たちはすべての怒りと失望を脇に置き、私たちが望むように結果が出なかったとしても、物事のあり方を受け入れる必要があります。単なる諦めではなく、希望と勇気を持ってです。このようにして、私たちはより深い意味に心を開くことになります。福音に従って生きる勇気があれば、私たちの生活は奇跡のように再生されます。すべてがうまくいかなかったように見えても、いくつかの問題が修正できなくなっていても関係ありません。神は石の多い地面からでも花を咲かせることができます。たとえ私たちの心が私たちを非難したとしても、「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(1 ヨハネ3:20)。

(後略)

 フランシスコ教皇様は聖ヨゼフの眼差しを現代のコロナ禍の中で苦しみ続けている全人類に示してくださいました。この状況をどのような思いで受けれいるのか、また、このような状況の中で周囲の人々に対してどのような眼差しを向け、どのような関りを結んでいくのかという点です。

 私たち一人一人が聖ヨゼフの眼差しを自らのものとし、聖霊の助けの中で最善の行動を見出し、たとえ人目につくことはないとしても、この社会を構成し、人類史を織り成す大切な一員であることを心に刻んで、神さまの慈しみと愛をもたらすことができるように祈りのうちに歩んでまいりましょう。

 今年の12月8日まで、どうか日々の祈りの中に聖ヨゼフへの祈りを付け加えてください。

【カトリック祈祷書 祈りの友】(カルメロ神父編 サンパウロ社)

213頁:聖ヨセフへの祈り(十月中ロザリオの後に唱える)

 幸せな聖ヨセフよ、あなたは聖マリアと愛の絆で結ばれ、幼な子イエスに尽くされました。イエスの御血によってあがなわれたわたしたちを顧みてください。あなたのご保護を願います。

 聖家族の柱なる聖ヨセフよ、イエスに選ばれたわたしたちを守ってください。すべての迷いと悪徳を遠ざけてください。

 力ある保護者聖ヨセフよ、やみの権威と戦うわたしたちを助けてください。聖なる教会を困難から守ってください。わたしたちが信仰をもって生涯を貫くことができるよう見守ってください。アーメン。

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