新しい典礼暦年が始まりました

末吉町教会「街の灯」2020年12月号巻頭言

新しい典礼暦年が始まりました

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

今年も11月29日(日)の待降節第1主日から新しい典礼暦年が始まりました。生活の暦では「年末」という意識ではありますが、祈りにおいては新しい歩みを始めるのだ、という決意を新たにして、コロナ禍の中であっても神様の恵みを地球上に生きる全ての人がいただくことが出来るように心を込めて一日、一日を重ねてまいりましょう。

 さて、11月には、11月1日(日)の諸聖人の祭日に、11:30の日本語ミサと14:00の英語ミサで末吉町教会の皆様のご家族やご友人で帰天された方々の芳名禄を奉納し、お一人お一人の永遠の安息を心を合わせてお祈りすることが出来ました。皆様、ありがとうございました。

11月8日(日)には13:30から相沢墓地で、また14:45からは上大岡墓地で墓前の祈りをお捧げしました。今年も200基近いお墓に1基ずつ灌水、献香をしながら祈りをおさげしましたが、今年は横浜教区のルカ上杉優太助祭様とアルバを身に着けた典礼奉仕者も一緒でしたので、コロナ禍での制限がいろいろとありましたが荘厳に祈りをお捧げすることが出来ました。こうして私たちよりも一足早く神さまの元へ帰天された兄弟姉妹とも、霊的な絆で一つに結ばれていることを深く感じられる素晴らしい祈りのひと時を準備し、奉仕してくださった典礼委員会や墓地管理委員会をはじめとする皆様、本当にありがとうございました。

 11月15日(日)には七五三の祝福式が行われ、子供たちが健やかに成長している姿を目の当たりにでき、そして、神さまが一人一人を心から慈しんで祝福してくださったことは素晴らしい恵みの時でした。私は、2007年5月3日に司祭に叙階された際に、叙階記念カードに載せる聖句として「『子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコ福音書10章15b~16節)という個所を選びましたので、子供たちが健やかに成長している姿を末吉町教会全体でお祝いできたことは本当にうれしいことです。

 そして、11月15日の11:30ミサ後から、教会学校リーダーの皆様のご尽力で、ミサに来た子供たちは信徒会館ホールで、ご家庭の事情でミサ参列を遠慮している子どもたちはZoomを用いたオンライン参加で教会学校を再開することが出来ました。こうして、IT技術を用いて、一人でも多くの子どもたちと福音の喜びを分かち合うことができるようになったことを本当に神様に感謝しています。皆様、どうか子どもたちの信仰が健やかに成長していくようお祈りください。

 11月28日(土)には、例年であれば1泊2日で待降節黙想会をするところですが、新型コロナウィルス感染症拡大防止対策の一環として、飲食、宿泊をしないことを前提として、14:00から18:00に短縮した形で教会学校待降節黙想会を実施しました。参加者は22名でしたので、例年よりは少ないですが、それでも、こうして主の降誕の喜びに向けての準備を重ねることが出来たことは本当に素晴らしいことです。

 11月29日(日)には10:00から14:00の予定で、イエズス会の赤松神父様を講師として待降節黙想会を開催することが出来ました。今回は、コロナ禍での開催ということで、赤松神父様にも無理を承知でお願いをして、Youtubeの「末吉町教会公式」チャンネルで講話をライブ配信させていただきました。こうして、ご自宅でステイホームを実践しておられる皆様とも待降節黙想会の霊的実りを共に味わうことが出来ましたこと、本当にうれしく思います。なお、フィリピン共同体の黙想会については、今年は対面では実施せず、オンライン形式で山手教会助任司祭のダリル・ディニョ神父様の指導で行われることになりました。こうして、今年の待降節も素晴らしい霊的な実りをそれぞれの共同体が味わうことができることを神様に心から感謝しています。

 さて、カトリック教会の典礼暦年は大きく分けると、「〇〇節」と呼ばれる「季節」とそれ以外の期間の「年間」に分かれています。その順番は、主の降誕に向けての準備を行う「待降節(Adventus・アドヴェントゥス)」、主の降誕を祝う「降誕節」、その後、「年間」となり、今度は主の受難の道を共に歩む「四旬節」、そして主の復活を祝う「復活節」、その後、再び「年間」となり、年間第34週をもって1年の典礼暦年が結びを迎えます。ちなみに、「待降節」と「四旬節」の典礼色は紫色、「降誕節」と「復活節」の典礼色は「白色」、「年間」の典礼色は緑色となっています。色の違いに注目すると、主日についてはどの季節を歩んでいるかがすぐにわかるようになっています。

 この「待降節」は、主の降誕に向けての準備期間ですが、クリスマスはあらゆる人間の誕生の意味を説き明かすときでもあることを聖ヨハネ・パウロ2世教皇聖下は回勅『いのちの福音』の中で教えておられます。1995年3月25日、「神のお告げ(Anunciatio)」の祭日に公布された回勅『いのちの福音』は「人間のいのちの価値と不可侵性について司教、司祭と助祭、修道者、信徒、そしてすべての善意の皆さんへ」宛てて公布されました。つまり、クリスマスを祝う全ての人に向けられているメッセージでもあります。この待降節の間、また、降誕節にあたって私たち一人一人がどのような思いを周りの人たちと共有していけばよいのかを考えるヒントが沢山散りばめられています。

回勅『いのちの福音』

序文

1項 いのちの福音は、イエスのメッセージの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への「よい知らせ」として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません。救いの出来事の初めに喜ばしい知らせとしてのべ伝えられるのは、イエスの誕生です。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・10)。この「大きな喜び」の源は救い主の誕生ですが、クリスマスはまた、あらゆる人間の誕生の意味も余すところなく説き明かしています。メシア誕生の喜びは、あらゆる人間がこの世に生まれ出るときの喜びの礎であり、完成なのです(ヨハネ16・21参照)。  イエスはあがないの使命の神髄を、こう説きます。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。実にイエスは、父との交わりの中に存在するあの「新しい」「永遠の」いのちのことを言っているのです。すべての人は、聖霊の清める力のもとに、御子において、自由にそのいのちにあずかることができます。人間のいのちのあらゆる局面と発達段階が十分にそれぞれの重要さに達するのは、まさにこの「いのち」においてなのです。

 この指摘から分かるのは、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は「救い」の出来事の初めにイエズス・キリストが赤ちゃんとして私たちと同じ人間性を帯びてお生まれになったことが喜びの知らせだと理解しているということです。このことが、「いのち」の祝祭としてのクリスマスの深い意義を示しているのです。続いて、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は「人格の無比無類な価値」について2項で次のように説明しています。

人格の無比無類な価値

2項 人間はこの世に存在する者ですが、その次元をはるかに超えるいのちの豊かさへと招かれています。いのちは、神のいのちそのものにあずかるところにあるからです。この崇高な超自然的招きは、人間のいのちがこの世の様相を帯びるものであっても、偉大さとはかりしれない価値を持つことを明らかにします。事実、時間のうちにあるいのちは、人間存在を一つにまとめ上げたプロセス全体の根本的な状態であり、その最初の段階であり、なくてはならない要素です。時間のうちにあるいのちは、思いもよらない形で、分不相応にも神の約束によって導かれ、神のいのちのたまものによって刷新されるプロセスであり、永遠性において完成に至るプロセスなのです(1ヨハネ3・1参照)。同時に、一人ひとりのこの世の生が持つ相対的な性格に光を当てるのは、この超自然的な招きにほかなりません。結局のところ、この世の生は「究極の」現実ではなく、「究極に至る手前の」現実です。

 聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は、私たちいのちが神さまの豊かないのちにあずかることによって、偉大な性格を与えられ、はかりしれない価値を持つことを教えています。このことは、コロナ禍で自由に人と交流したり、出かけたりすることが困難な状況の中で、2020年のクリスマスに向けての待降節の祈りのポイントになると思います。私たちは、たとえ何もしていないように感じさせられる時間を過ごしているとしても、時間の中で生きている、というこの事実によって日々、新たにされ、神のいのちのたまものを豊かに受け取っているということが分かるからです。教皇様はつぎのように続けています。

2項(続き) とはいえ、わたしたちにゆだねられたこの世の生は、責任を自覚して保持すべき聖なる現実、愛において、また神と兄弟姉妹への献身的な行いをとおして完成へと至るべき聖なる現実なのです。教会は、主から受けたこのいのちの福音が、信仰者だけでなくすべての人の心の奥底に響き、揺り動かしていることを知っています。それは、いのちの福音は、人の心に潜むあらゆる期待をはるかに超えると同時に、そのような期待を驚くべきありようでことごとく満たすからです。すべての人は、さまざまな困難や不確かさの中にあっても、真実と善に対して誠実に立ち向かえば、理性の光と人知れず働く恵みによって心に書き記された自然法の中に(ローマ2・14参照)、始まりから死に至るまでの人間のいのちには神聖な価値があることを理解することができ、さらに、すべての人間の権利には、このうえなく尊重すべき基本的善があると断言できるのです。人間の手になるあらゆる共同体は、政治的なものも含めて、この人権理解に基づいて築かれます。とりわけ、キリストを信じる者は、第2バチカン公会議が説く素晴らしい真理を念頭に置いて、この人権を守り育てなければなりません。「神の子が受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」この救いの出来事は、「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ2・16)神の限りない愛だけではなく、さらには、すべての人格には比類のない価値があることを人類に啓示します。

 教皇様の教えの中でとりわけ注目したいのは、この世の生について「責任を自覚して保持すべき聖なる現実、愛において、また神と兄弟姉妹への献身的な行いをとおして完成へと至るべき聖なる現実」なのだ、という部分です。コロナ禍で多くの人たちの心には不安や心配、時には恐怖が深く澱のように沈殿しています。このような状況の中で、カトリック信仰を生きる私たちがどのように「いのちの福音」を生き、今年のクリスマスに向けて、生活の中で出会う人たちにこの喜びを伝えていけばよいのでしょうか。聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は「さまざまな困難や不確かさの中にあっても、真実と善に対して誠実に立ち向かえば、理性の光と人知れず働く恵みによって心に書き記された自然法の中に(ローマ2・14参照)、始まりから死に至るまでの人間のいのちには神聖な価値があることを理解することができ」ることを私たちにお示しになっています。そして、救いの出来事は「『そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された』(ヨハネ2・16)神の限りない愛」を示しているのだと教えています。

 もし、私たちが救い主イエズス・キリストの降誕を祝うことを、天の御父が私たち人類一人一人をこの上なく愛してくださっているしるしとして、そのひとり子をこの世の全ての人にお与えになった天からのしるしとして心から祝えるならば、わしたちが出会う人に向けるまなざしは愛に満ちたもの、優しさに満ちたもの、感謝に満ちたもの、敬意を払うものになっていくことでしょう。

 教皇様は2項の結びで次のように教えています。

2項(続き) あがないの秘義を心を込めて黙想するたびに、教会は感嘆の思いを新たにしてこの価値を承認します。教会は、どの時代にあっても確固とした希望の源でありまことの喜びであったこの「福音」を、あらゆる時代の人々にのべ伝えるようにとの招きを感じています。人類に神の愛を告げる福音、人格の尊厳を説く福音、そしていのちの福音は、同じ唯一の福音であり、別々に考えることはできません。  このような理由で、人間―生きている人間―は、教会へと続く第一の道、根源的な道を示すといえるのです。

 教皇様の教えを素直に受け止めるとき、私たちがイエズス・キリストの降誕を希望の源、まことの喜びとして心から祝えるならば、私たち自身が神さまから全人類にもたらされた「福音」を体現してくことが出来るようになることが分かります。それは、人類に神の愛を告げる福音となること、人格の尊厳を解く福音になることです。コロナ禍での毎日の生活の中で、知らず知らずのうちに私たちの心の奥底に沈殿していく不安や恐れ、心配は、イエズス・キリストの降誕を祝うために祈りを捧げながら待降節の日々を歩むとき、きっと「福音」の美しいまばゆい光に照らされて、氷解していくことと思います。

 私たちが毎日の生活の中で新型コロナウィルス感染症対策は万全に取ることは、他の人の命を守るために、自分の大切な家族や友人の命を守るために、そして、なによりも自分の命を守るためには当然のことですが、心はいつもいのちの福音をもたらされた主イエズス・キリストによって満たされて、出会う人にも喜びや慰め、希望や励ましをもたらすことを目指すことが出来れば、新しい典礼暦年も希望に満ちた日々を歩み続けることが出来ると思います。

 マザー・テレサ(コルカタの聖テレサ)は次のような言葉を残しています。

 小さなことに忠実でありなさい。/思いやりの心をこめましょう。/その中にわたしたちの力があるのですから。/多くを与えることはできないかもしれません。/けれど、いつも神と共にいる愛のうちにわき上がる喜びを与えることができるのです。(『マザー・テレサ日々のことば』ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなますみかこ訳 女子パウロ会2009年 「12月18日 our strength lies」より。

マタイ福音書では、「共にいて下さる神」として、イエズス・キリストの誕生が告げられています。

マタイ福音書120節~23 イエス・キリストの誕生

20主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

私たちの待降節の歩みが、「共にいて下さる神」であるイエズス・キリストからの愛に心の扉を開き、わき上がる喜びを出会う人々に贈る日々となりますように。

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