6月はイエズスの至聖なる聖心に捧げられた月

末吉町教会「街の灯」2021年6月号巻頭言

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 横浜市では4月20日から特措法に基づくまん延防止等重点措置が公示され、6月20日まで延長されています。このような状況の中で、会衆の参列するミサを継続し、教会の諸活動を実施するために皆様には新型コロナウィルス感染症拡大防止のために沢山の対策にご協力を頂いており、心から感謝しています。

 5月23日(日)の聖霊降臨の主日には、1月10日(日)主の洗礼の主日に予定していた成人式の祝福式を執り行うことが出来ました。1月は緊急事態宣言の発出によって中止となりましたが、こうして8名の新成人が神さまの祝福を受け、そして、一人一人が新成人の抱負を力強く語ってくれたことは、末吉町教会の教会共同体としての歩みにとっても大きな喜びとなりました。新成人の皆様、本当におめでとうございます。

 さて、6月はイエズスの至聖なる聖心に捧げられた月です。典礼暦の上では聖霊降臨から二回目の主日後の金曜日に「イエズスのみ心」の祭日をお祝いします。ちなみに、この日取りはキリストの聖体の祭日後の金曜日にイエズスの聖心の祭日を祝うことを1856年に尊者ピオ9世教皇様が定めたことに依っています。今年は2021年6月11日(金)にお祝いします。

 このイエズスの至聖なる聖心への信心は、12世紀から13世紀にかけて、イエズス・キリストの十字架上での5つの聖なる傷についての信心が深まる中で発展してきました。ちなみに、復活徹夜祭の典礼では復活ロウソクに5つの香粒を十字架の模様に沿って打ち込みますが、この際には「1.その聖なる」「2.栄光ある傷によって、」「3.わたしたちを支え、」「4.守ってくださる」「5.主・キリスト。アーメン。」と祈りますが、イエズス・キリストの聖なる5つの傷への崇敬はここにも受け継がれています。

 12世紀、13世紀に十字架上のイエズス・キリストの聖なる傷に注目した人の中にはクレルヴォーの聖ベルナルドゥス大修道院長やアッシジの聖フランシスコがいます。このような時代に、イエズスの至聖なる聖心への最古の讃歌が作詞されました。「Summi Regis Cor Aveto」(スンミ・レジス・コル・アヴェト)という題名ですが、ドイツのケルンで1150年頃に生まれ、1241年もしくは1252年にツュルピッヒのホーヴェン修道院で帰天したプレモントレ修道会の聖ヘルマン・ヨゼフ・フォン・シュタインフェルド神父様の作品と言われています。

Summi Regis Cor Aveto

Summi Regis Cor aveto / Te Saluto corde laeto / Te complecti me delectate / Et cor meum hoc affectat / Ut ad Te loquar toleres (スンミ・レジス・コル・アヴェト/テ・サルート・コルデ・レト/テ・コンプレクティ・メ・デレクターテ/エット・コル・メウム・ホック・アフェクタット/ウット・アド・テ・ロクアール・トローレス)

(濱田試訳)

めでたし至高なる王のみ心よ、わたしはあなたを喜びをもって讃える、あなたを抱きしめることは私を喜ばせる。そして、あなたがわたしに語り掛けることを許してくださることは、わたしの心の琴線に触れる。

 イエズスの至聖なる聖心への信心は17世紀に入り、フランスのパレ・ル・モニアルにある聖母訪問会の修道女の聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~1690)にイエズス・キリストが1675年6月16日にご出現になり、ご自分の至聖なる聖心への信心を広めるように願われたことで新しい展開を迎えます。これまではイエズス・キリストの十字架上の5つの聖なる傷との関りの中で理解されてきた至聖なる聖心への理解が、「至聖なる聖心に対する人類の忘恩を償う聖体拝領」への呼びかけと合わせて広められるようになっていきました。

 ちなみに、イエズス・キリストは聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズスの聖心の祝日の制定を願いましたが、この願いは前述のように1856年に尊者ピオ9世教皇様によって実現しました。また、同時に「聖心の信心」を大切にする人に12の約束を与えてくださいました。

【イエズスの至聖なる聖心を大切にする者への12の約束】

1.職務を忠実に行うために必要なすべての恵みを与えよう。

2.家庭に平安を与えよう。

3.苦しい時、慰めを与えよう。

4.一生の間、特に臨終の時に確かなよりどころとなろう。

5.すべての事業の上に豊かな祝福を注ごう。

6.罪人は聖心のうちに、憐れみの源と限りない大海を見出すだろう。

7.信仰のにぶい人は熱心になるだろう。

8.熱心な人は高い完徳にすすむだろう。

9.私の姿を公に飾って崇敬するすべての場所を祝福しよう。

10.救霊のために働く人びとに、もっともかたくなな心を感動させる力を与えよう。

11.この信心を広める人びとの名は、聖心に書き記され、けっして消え去ることはないだろう。

12.9か月連続して初金曜日に聖体を拝領する人は、最期の時に痛悔の恵みを与える。苦しむことなく、秘跡なしに死を迎えることなく、聖心が最期の時の避難所となる。

 それでは、聖書の中ではこのイエズスの至聖なる聖心についてどのように説明されているのでしょうか。至聖なる聖心が柔和で謙遜であることをイエズス・キリストはマタイ福音書の中で次のように説明しておられます。

【マタイ福音書1125節~30節】わたしのもとに来なさい

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 また、イエズス・キリストの至聖なる聖心が槍で貫かれてあふれ出た血と水とによって、聖体の秘跡と洗礼の秘跡の恵みが現代にいたるまでカトリック信者一人一人に豊かに注がれていること、また、このときに教会が誕生したことはヨハネ福音書の中で次のように描写されています。

【ヨハネ福音書1931節~37節】イエスのわき腹を槍で突く

31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。 36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 なお、34節の「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」という個所を聖アウグスティヌス司教教会博士は「教会の驚嘆すべき秘跡」のシンボルだと説明しています。そして、復活したイエズス・キリストは恐怖で鍵をかけて部屋に閉じこもっていた使徒たちに現れた際には、ご自分の槍で刺し貫かれた手とわき腹とをお見せになり、ご自分の至聖なる聖心からあふれ出る慈しみが、罪のゆるしをもたらすことを告げ、使徒たちに聖霊をお与えになりました。

【ヨハネ福音書2019節~23節】イエス、弟子たちに現れる

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

復活の主日に、イエズス・キリストと使徒たちが出会ったときに起こったことは、イエズスの至聖なる聖心からあふれ出る慈しみは聖霊によって豊かに注がれることを説き明かし、恐れや怯えから一人一人の魂を開放するものであることを示しています。新型コロナウィルス感染症のパンデミックについて、世界中で終息の兆しが見えない中で、私たちカトリック信者がどのようにこの状況の中で世界を見つめればよいのか、また、自分の心をイエズスの至聖なる聖心に重ね合わせることで、私たちと関りを持つ人々に何をもたらすことが出来るかを考えるヒントがあるのだ、と言えるでしょう。復活の主日から8日後、双子のトマスが、1週間にわたってイエズス・キリストの復活を信じずに他の使徒たちに文句を言っていた時に、イエズス・キリストがどのような言葉を投げかけたかを見れば、この点がさらにはっきりと分かります。

【ヨハネ福音書2024節~29節】イエスとトマス

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

イエズス・キリストは疑いに凝り固まっていたトマスに勧めておっしゃいました。「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」つまり、イエズス・キリストは、トマスに対してご自分の槍で切り開かれたわき腹に手を入れて、至聖なる聖心に直接触れるように勧めたのです。そして、イエズスの至聖なる聖心に直接触れることで、「信じない者ではなく、信じる者に」なる道が開かれることをお示しになりました。

わたしたちは、聖トマスとは違って、復活されたイエズス・キリストの至聖なる聖心に自分の手を置いて、その鼓動を感じることは出来ません。しかし、イエズス・キリストは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と仰せになり、祈りを通して、イエズスの至聖なる聖心に自分の心を重ね合わせることが出来る道が用意されていることをはっきりと約束してくださいました。

このことを、ベネディクト16世名誉教皇様はイエズス会の当時のコルヴェンバッハ総長宛に、至聖なる聖心の信心を勧めたピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』(1956年5月15日)発布50周年を記念する書簡(2006年5月15日付。発表は5月23日)の中で次のように説明されました。

ベネディクト16世教皇【『ハウリエティス・アクアス』発布50周年を記念する書簡】2006515

「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹(ヨハネ19・34参照)を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・・『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」。

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/mikokoro/

 イエズスの至聖なる聖心に捧げられた6月を歩むとき、神さまの全人類への限りのない愛の深さに思いを馳せて、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださったイエズス・キリストの与えてくださる平和の福音を告げ知らせられると素晴らしいですね。イエズスの至聖なる聖心に加えられた侮辱を償う祈りを紹介します。ぜひ、この6月の間、日々の祈りに付け加えてください。

聖心の侮辱を償う決心の祈

 至聖なるイエズスの聖心よ、主が多くの人々より辱(はずか)しめられ給うを償(つぐの)わんために、われらは愛と忠実と、さらに深きけんそんをもって御前(みまえ)にひれ伏し、卑(いや)しきわが身を新たに聖心(みこころ)に献(ささ)げ、今、次の約束をなし奉(たてまつ)る。

 われらの心を聖(せい)ならしめ給う聖心よ、世の人々が、主の聖寵(せいちょう)の妙理(みょうり)を辱しむるとき、▲われらは一層(いっそう)聖心の摂理を深く信じ奉る。

 人類の唯一の希望なる聖心よ、不信の暴風雨が、われらの希望を奪わんとするとき、▲われらは一層主に希望し奉る。

 限りなく愛すべき聖心よ、世の人々が、主の御慈(おんいつく)しみを拒むとき、▲われらは一層深く主を愛し奉る。

 天主(てんしゅ)の聖心よ、世の人々が、主の御神性(ごしんせい)を否(いな)むとき、▲われらは一層主を礼拝し奉る。

 至聖なる聖心よ、主の聖なる掟が忘れられ、背(そむ)かるるとき、▲われらは一層これを守らんと決心し奉る。

 豊かなる恵みを与え給う聖心よ、主の聖なる秘蹟が軽んぜられ忘れらるるとき、▲われらは一層愛と敬いとをもって、これを受けんと励み奉る。

 すべての善徳の模範なる聖心よ、主の崇(あが)むべき御徳(おんとく)が見捨てらるるとき、▲われらは一層主の善徳にならわんと決心し奉る。

 霊魂の救いをあつく望み給う聖心よ、悪魔が人々の霊魂を亡(ほろぼ)ぼさんとするとき、▲われらは一層その救霊(きゅうれい)のために、励まんと決心し奉る。

 辱しめに飽かされたる聖心よ、世の人々が高慢(こうまん)と快楽とのために、おのれの務めを忠実に尽すをいとうとき、▲われらは一層おのれに打ち勝ち、ぎせいの心を養わんと決心し奉る。

 甘美なる聖心よ、世の人々が、主の聖会(せいかい)を軽んずるとき、▲われらは一層聖会の忠実な子たらんと励み奉る。

 やりにて貫(つらぬ)かれたる聖心よ、世の人々が、主の代理者たる教皇を迫害するとき、▲われらは一層かれを信頼し、かれのために祈らんと決心し奉る。

 祈願 至聖なるイエズスの聖心(みこころ)よ、われらをして、この世においては聖心の使徒として励ましめ、天においては主の御栄(みさか)えとならしめんため、▲われらに聖寵(せいちょう)を降(くだ)し、われらの弱さを強め給え。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA