聖母マリアへの崇敬と聖性の道―コロナ禍の中での希望のよりどころ―

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 神奈川県では特措法に基づく緊急事態宣言が9月12日まで延長されることになりました。8月2日からの緊急事態宣言下での平日ミサ及び主日ミサを会衆参加で継続する際には東京大司教区の対応を参考にしましたが、8月14日付で東京大司教区では8月16日から信徒参列のミサを中止する旨、発表がありました。これを受けて、末吉町教会信徒の複数の医療従事者の皆さんからのご意見を頂きながら、教会委員会四役との電話及びオンライン審議を経て2021年8月14日付で「末吉町教会の今後の対応について」を発表しました。この中で、末吉町教会ではロスナイ換気システム7台が稼働し、常時換気が行われ、また、教会内での感染防止対策が徹底して実施されていること、また、人流を調べたところ、日曜日の11:30主日ミサではコロナ禍以前の2割弱まで参列者が減っていること、第1・第3日曜日の14:00英語ミサでは2割ほどまで減っていること、第2・第4日曜日の14:00韓国語ミサでは三分の一まで減っていることを受けて、これまで以上に感染防止対策を強化しながら信徒参列のミサを継続することといたしました。信徒の皆様におかれましては、ご自分と大切なご家族の健康維持をこれまで以上に優先なさっていただければ、と願っています。

 このような状況ではありますが、8月7日(土)には、宿泊と飲食は伴わない形ではありますが、2年ぶりに教会学校サマープログラムを実施することが出来ました。医療従事者に常駐していただき、感染防止対策を徹底しながら、子供たちが共に心を合わせて祈り、学び、また楽しく遊ぶことが出来ました。こうして、日本、フィリピン、中国、ベトナム共同体の子供たちが心を一つに合わせて共に集うことが出来ることは本当に素晴らしいことだと思います。また、今年の聖母被昇天の祭日(8月15日)は日曜日に当たっていたので、11:00からラテン語でロザリオの祈りを捧げ、11:30からのミサでは日本語、韓国語、中国語、ベトナム語を織り交ぜて祈りを捧げ、14:00からのミサでは英語で祈りを捧げることが出来ました。8月29日(日)には11:30ミサ中にフィリピン共同体の赤ちゃんの幼児洗礼式も執り行われ、新しい神様の家族を教会共同体として迎えることが出来たことを神様に感謝しています。

 さて、カトリック教会の典礼暦(聖人のお祝い日のカレンダーを含む)では夏から秋にかけて聖母マリアのお祝い日が沢山あります。7月16日は「カルメル山の聖母」の任意の記念日、8月5日は431年にマリア様を「神の母」と呼ぶことにしたエフェソ公会議が開かれ、その後、シクスト3世教皇様によって聖母マリアに捧げられた聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)がローマで献堂されたことを祝う「聖マリア教会の献堂」の任意の記念日、8月15日は「聖母の被昇天」の祭日、翌週の8月22日は「天の元后聖マリア」の記念日、9月8日は「聖マリアの誕生」の祝日、9月15日は「悲しみの聖母」の記念日、10月7日は「ロザリオの聖母」の記念日です。この他にも1年を通して沢山のマリア様のお祝い日があります。このことから明らかとなるのは、私たちの救い主イエズス・キリストの母であるマリア様について、カトリック教会の信仰生活の中でとても大きな崇敬を捧げていることです。

 中世には聖母マリアについて、観想修道会であるシトー会のリーヴオー大修道院の聖エルレッド修道院長(1109-1167)が次のような説教を遺しています。

【説教:マリアはわたしたちの母】

主の花嫁のもとに近づきましょう。主の母のもとに、主の最も忠実なはしためのもとに近づきましょう。この表現のすべてが、聖母マリアにあてはまります。

わたしたちは、マリアに何をしたらよいのでしょうか。どのような贈り物をささげたらよいのでしょうか。少なくともお返しすべきものだけでもり返すことができたら、と思います。わたしたちはマリアを敬い、マリアに仕え、マリアを愛し、賛美しなければならないからです。わたしたちがマリアを敬わなければならないのは、わたしたちの主の母だからです。母を敬わない者がその子を敬わないことは、言うまでもないことです。聖書は、「あなたの父母を敬え」と教えています。

マリアはわたしたちの母ではないのでしょうか。確かにわたしたちの母です。わたしたちはマリアから生まれたからです。わたしたちはこの世に生きるためではなく、神に生きるために生まれたからです。あなたがたが信じ、知っているように、わたしたちは皆、死と古さのうちに、闇と惨めさのうちに生きてきました。死のうちにと言われるのは、主を失っていたからです。古さのうちにと言われるのは、腐敗の状態に落ちていたからです。闇のうちにと言われるのは、知恵の光を失っていたからです。このように、わたしたちは完全に滅んでしまっていたのです。

しかし、キリストがマリアから生まれてくださったので、わたしたちもエバの子としての状態よりもはるかに優れた者として、マリアから生まれたのです。わたしたちは古さの代わりに新しさを回復し、腐敗の代わりに不滅を、闇の代わりに光を回復することができたのです。

マリアはわたしたちの母、いのちの母、不滅の母、光の母なのです。使徒パウロは主について次のように言っています。「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」したがって、キリストの母であるマリアは、わたしたちの知恵、わたしたちの義と聖と贖いの母です。それゆえ、マリアはわたしたちの体を産んだ母よりも、わたしたちにとって真実の母なのです。わたしたちのこのようなより優れた誕生は、マリアによってもたらされたものです。わたしたちの聖性、知恵、義、聖化、贖いなどはマリアに由来しているからです。

「聖なる人の中で主を賛美せよ」と聖書は言っています。主が聖なる人を通して力を現し、奇跡を行われたことを思うとき、その人々において主が賛美されるべきであるのは当然です。それなら、すべてにまさって感嘆すべき主は、自ら人となられるために母として選ばれたマリアにおいて、どれほど賛美されなければならないことでしょうか。

 聖エルレッド修道院長の言葉でまず注目したいのは、「わたしたちがマリアを敬わなければならないのは、わたしたちの主の母だからです。母を敬わない者がその子を敬わないことは、言うまでもないことです。聖書は、『あなたの父母を敬え』と教えています」という部分です。カトリック教会が伝統的に聖母マリアへの崇敬を捧げることについて、カトリックではない方から誤解を受けることもありますが、私たちは主エイズス・キリストを神様として信じる、つまり主へは信仰を捧げますが、聖母マリアに向かっては「主の母」であること、つまり、イエズス・キリストの最愛の母であるからこそ尊敬の念をもって崇敬を捧げるのだ、ということです。マリア様は私たちとは原罪を除いては全く同じ人間です。しかし、「神の母」である特別な立場を持っておられることで、神への信仰において、聖エルレッド修道院長が指摘するように、「わたしたちはマリアから生まれた」のであり、それは「わたしたちはこの世に生きるためではなく、神に生きるために生まれた」ことを表わしています。このことは、コロナ禍の中で自分の大切な家族を守ること、また、この社会で共に生活するすべての人の命を守ることを目指して私たちが自分の行動を選択し、周囲の人との関わりを築いていくときに大きな道しるべとなります。

 聖エルレッド修道院長は「キリストの母であるマリアは、わたしたちの知恵、わたしたちの義と聖と贖いの母です。それゆえ、マリアはわたしたちの体を産んだ母よりも、わたしたちにとって真実の母なのです。わたしたちのこのようなより優れた誕生は、マリアによってもたらされたものです。わたしたちの聖性、知恵、義、聖化、贖いなどはマリアに由来しているからです」と指摘しています。私たちがこのコロナ禍の中で何を目指して日々の生活を送れば良いのかを考えるとき、キーワードとなるのは、「聖性」、「知恵」、「義」、「聖化」、「贖い」です。社会全体が不安や先行きの見通せない閉塞感に覆われているとき、私たちには神様から素晴らしい恵みが与えられていることを祈りのうちに改めて見つめる必要があります。

 フランシスコ教皇様は2018年3月19日、聖ヨゼフの祭日に使徒的勧告『喜びに喜べ―現代世界における聖性』(Gaudete et Exsultate)を公布なさいました。日本語訳は2018年10月5日に発行されました。この『喜びに喜べ』の中で、聖エルレッド修道院長が示す5つのキーワードを具体的に理解する上で大きな助けとなるような教えを分かりやすく示してくださっています。

【使徒的勧告『喜びに喜べ―現代世界における聖性』(Gaudete et Exsultate)】

第1章 聖性への招き

・励まし、寄り添ってくださる諸聖人

4項: すでに神のみもとにいる聖人たちは、わたしたちとの愛と交わりのきずなを絶やさずにいてくださいます。黙示録は、執り成しておられる殉教者のことばに言及し、そのことをはっきりと示しています。「神のことばと自分たちがたてたあかしのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(6・9-10)。こういってよいでしょう。「わたしたちは、神の友によって囲まれ、伴われ、導かれています。……決して独りで担うことのできないことを、独りで担う必要はありません。神のすべての聖人たちが、かしこでわたしを守り、わたしを支え、わたしを担ってくださいます」(注1:教皇ベネディクト16世「教皇就任ミサ説教(2005年4月24日)(AAS 97 [2005], 708)。

・キリストのうちにあるあなたの使命

19項: キリスト者は、地上での自分の使命を聖性の道と受け止めることなく、それについて考えることはできません。「神のみ心は、あなたがたが聖なる者となること」(Ⅰテサロニケ4・3)だからです。どの聖人も、それぞれ一つの使命です。歴史の特定な時に、福音のある側面を映し出し、受肉させるために、御父が計画されたものです。

24項: あなたの人生を用いて神が世に伝えたいと望まれることば――それはイエスというメッセージです。どうかそれに気づいてください。それができるように、そしてあなたの尊い使命がくじかれることのないように、自分を変えていただきなさい。聖霊によってもう一度新たなものにしていただきなさい。愛の道を離れることなく、浄めと照らしを与える主の超自然的なわざに開かれたままでいられるなら、過ちやうまくいかない時にあっても、主がそれを完成させてくださるでしょう。

第4章 今日の世界における聖性のしるし

・大胆さ、熱意

129項: 他方、聖性はパレーシア(parrhesia)でもあります。それは、大胆さ、この世に影響を与えようとする福音宣教者の機動力です。それをもてるようにと、イエスご自身がわたしたちのもとに来られ、優しく、けれどもきっぱりと繰り返しいわれます。「恐れることはない」(マルコ6・50)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。こうしたことばがわたしたちを、聖霊が使徒たちの中にかき立てイエス・キリストを告げさせた、勇気に満ちたあの姿勢をもって歩み、働けるようにしてくれます。大胆さ、熱意、躊躇のない語り、使徒的情熱、これらはすべてパレーシアということばに含まれているものです。さらに聖書はこのことばを使って、神や他者のために開かれた、なにものにもとらわれないあり方を説明しています(使徒言行録4・29、9・28、28・31、Ⅱコリント3・12、エフェソ3・12、ヘブライ3・6、10・19参照)。

130項: 福者パウロ6世は、福音宣教を妨げるものの中で、とりわけパレーシアの欠如について語っています。「それは熱意の欠如ということです。内部からくるものだけに、いっそう重大な妨げです」。わたしたちは、危険のない陸近くから離れずにいたいと考えてばかりいます。しかし主は、沖に出て深いところに網を下ろすよう招いておられます(ルカ5・4参照)。主はわたしたちを、ご自分への奉仕に人生をささげるよう召し出しておられます。主に根ざすことで、他者への奉仕に自分のカリスマのすべてをささげるよう励まされるのです。主の愛に駆り立てられていることを自覚し(Ⅱコリント5・14参照)、聖パウロと声を合わせて「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(Ⅰコリント9・16)といえるようになりますように。

共同体の中で

140項: 人とのかかわりを断った中で、己の欲望や、悪魔や利己的な世の罠や誘惑と闘うのはとても難しいことです。誘惑は新しい砲撃であり、あまりに人との交わりが欠けてしまうと、すぐに現実感覚や精神の明晰さを失って、わたしたちは負けてしまいます。

141項:聖化とは、他の人と隣り合って歩む共同の道です。数々の列聖された集団が、それを表しています。教会は、福音を勇猛に生き、仲間全員がいのちを神にささげた共同体を、幾度も集団全体で列聖してきました。例を挙げてみましょう。聖母マリアのしもべ会創立7聖人、マリア訪問会マドリード第1修道院の7聖人、日本の聖パウロ三木と同志殉教者、韓国の聖アンデレ・キム・デゴンと同志殉教者、南米の聖ロケ・ゴンザレスと聖アルフォンソ・ロドリゲスおよび同士殉教者です。また、ティビリヌ(アルジェリア)のトラピスト会士たちによる、ごく最近のあかしのことも思い出してみましょう。彼らはともに殉教を覚悟したのです。これと同じく、相手の聖化のために、夫と妻それぞれがキリストの道具となる、聖である夫婦もたくさんいます。だれかとともに生き、だれかとともに働くことは、まぎれもなく霊的成長の道です。十字架の聖ヨハネは弟子に、「練り鍛え」られるために他者と暮らすのだといいました。

 フランシスコ教皇様の教えを通して明らかとなるのは、私たち信仰者の歩みは、決してひとりぼっちで孤立して歩むものではなく、同時代のカトリック信者同士の支えはもちろんのこと、天国にいる諸聖人たちとの交わりにおいても沢山の助けや導きを頂きながら、明るさと喜びをもって聖性の道を進んでいくものなのだ、ということです。たとえ、不安や心配は閉塞感に覆われているこの社会の中にあっても、私たちカトリック信者が聖霊によって励まされ、強められ、心を暖められ、出会う人と共に希望を胸に抱いて「聖なる者」となりながら毎日を生きていくことが出来るようになれば素晴らしいと思います。皆様お一人お一人が聖母マリアの取り次ぎのうちに「聖なる者」となる歩みを日々重ねていくことができますよう、心を込めて祈っています。

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