10月18日は「世界宣教の日」

10月18日は「世界宣教の日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 9月20日に敬老の祝福式を執り行いました。例年であれば、10月に開催する銀嶺会の際に祭壇前に皆様にお集まりいただき、聖堂での祝福の後、聖堂前ホールで会食をしつつ、教会学校から歌のプレゼントをしたり、フィリピン共同体の皆さんがいろいろな演目を披露するところですが、今年は新型コロナウィルス感染症拡大防止対策のため、10月11日(日)に予定していた銀嶺会を中止せざるを得ませんでしたので、ミサ中にそれぞれのお席にとどまっていただいてか、モニター越しでの祝福式となりました。ただ、神さまからの恵みは例年と変わらず皆様の上に注がれましたので、この1年も、皆様が健やかに日々を重ねていっていただけることと本当にうれしく思います。

 さて、7月4日(土)に助祭に叙階されたルカ上杉優太助祭様ですが、神学院の夏季休暇中は静岡県で過ごしていましたから、なかなか末吉町教会の皆さんとはお会いできない日が続いていましたが、東京カトリック神学院の後期が始まり、9月26日(土)から土日に末吉町教会と港南教会に司牧研修に毎週来てくれることになりました。神学院にとっても、それぞれの神学生、助祭をさいたま教区や東京大司教区、横浜教区の教会に送ることについては、新型コロナウィルス感染症拡大防止の観点でいろいろと議論はあったこととは思いますが、こうして、私たちとともにミサで祈り、また、色々な制限はあれども、信仰生活を共に歩むことが出来るようになり、本当にうれしく思います。9月27日(日)にはさっそくミサ説教の奉仕もしてくれました。今後も私と交代でミサ説教の奉仕をしてくださいます。末吉町教会が信仰共同体として上杉助祭様から霊的な糧を頂くことが出来ることは本当に素晴らしいことです。

 10月は「ロザリオの月」ですが、10月7日(水)は「ロザリオの聖母」の記念日です。末吉町教会では毎年、10月は11:00からみんなで声を合わせ、心を合わせてロザリオの祈りを捧げてきましたが、今年は残念ながら新型コロナウィルス感染症拡大防止対策にあるように、聖堂内では沈黙を優先することになっていますから、声を合わせてお捧げすることが出来ません。代替策として、上杉助祭様の先唱で11:00からロザリオの祈りを聖堂で捧げますが、皆様は沈黙のうちに先唱の上杉助祭様の声に心を合わせてロザリオの祈りをお捧げいただければと思います。また、YouTubeでも配信予定ですので、モニター越しであっても心を合わせてお祈り下さればと願っています。ロザリオの祈りはとても大切な祈りですから、日曜日以外にも毎日お捧げ下さるように心からお勧めします。

ところで、10月には20世紀に生きた聖人の記念日がありますが、10月22日には聖ヨハネ・パウロ二世教皇様の任意の記念日をお祝いします。そして、今年から新たに新設された任意の記念日として、「いつくしみのチャプレット」の私的啓示を受け、聖ヨハネ・パウロ二世教皇様によって列聖され、復活節第2主日が「神のいつくしみの主日」として制定される際に大きな貢献をした聖ファウスティナ・コヴァルスカ修道女の記念日が10月5日となりました。10月1日はリジューの聖テレジア、10月2日は守護の天使、10月4日はアシジの聖フランシスコの記念日ですから、10月前半には、どうぞそれぞれの聖人や天使の取次を願ってお祈りください。

さて、今年の「世界宣教の日」(毎年10月の最後から2番目の日曜日)は10月18日です。今年のフランシスコ教皇様のメッセージはイザヤ書から題名がとられています。

2020年「世界宣教の日」教皇メッセージ

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年10月、教会全体が「福音宣教のための特別月間」に熱意をもって取り組んだことを神に感謝したいと思います。わたしはこの特別月間が、「洗礼を受け、派遣される──世界で宣教するキリストの教会」をテーマとする歩みを通して、多くの共同体で、宣教のための回心を促すことに貢献したと確信しています。

 COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックがもたらす苦しみやさまざまな課題が著しい今年、教会全体は、預言者イザヤの召命物語にある次のことばに照らされながら、この宣教の歩みを続けています。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。このことばは、「だれを遣わすべきか」(同)という主の問いかけに対する、つねに新たにされるこたえです。神のみ心から、神のいつくしみから出るこの呼びかけは、今日の世界的な危機のただ中で、教会と人類に向けられています。「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです。わたしたちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、だれもが大切で必要な存在なのだと。皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと。この舟の上に……わたしたち皆がいます。不安の中で声をそろえて『おぼれて』(マルコ4・38)しまうと叫ぶあの弟子たちのように、わたしたちも自力で進むことはできず、ともに力を出すことで初めて前進できるのだと知ったのです」(「特別な祈りの式におけるウルビ・エト・オルビのメッセージ」2020年3月27日)。わたしたちは心底おびえ、途方に暮れ、不安にさいなまれています。痛みと死により、人間のもろさを痛感していますが、それと同時に、だれもが生きたい、悪から解放されたいという強い思いを抱いていることに気づかされます。こうした状況においては、宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へとわたしたちを変えるのです。

フランシスコ教皇様は冒頭でこのように述べられ、同じ舟の上に私たち全員が乗っていることに気づく体験として今般の新型コロナウィルス感染症拡大を捉えています。そして、分かち合い、奉仕、執り成しを通して神と隣人への愛を生き、自分を差し出す勇気を持つことの重要性を示しておられます。そして、第4段落、第5段落では次のように述べておられます。

「使命(ミッション)、『教会が出向いて行くこと』とは、ある種の計画でも、意思の力だけでなし遂げる意向でもありません。教会を外に出向かせておられるのはキリストに他なりません。福音を告げ知らせるという使命を果たそうとするのは、聖霊があなたを突き動かし、あなたを導いておられるからです」(教皇フランシスコ『このかたなしには何もできない──現代世界で宣教者であること』16-17〔Senza di Lui non possiamo far nulla: Essere missionari oggi nel mondo, Libreria Editrice Vaticana-San Paolo, 2019〕)。神はいつも、まず先にわたしたちを愛してくださり、その愛をもってわたしたちに会い、わたしたちを呼んでおられるのです。一人ひとりの召命は、教会においてわたしたちが神の息子、娘であり、神の家族であること、イエスが示した神の愛において兄弟姉妹である、という事実から生まれます。ただし、だれもが人間としての尊厳をもっています。その尊厳は、神の子になりなさい、洗礼の秘跡と自由意志による信仰によってみ心につねにかなう者になりなさいという神の呼びかけに根ざしています。

 すでに無償でいのちを受けたということが、一粒の種として自分自身を差し出すという力強い動きに加わるよう招かれていることを示唆しています。洗礼を受けた人のうちでその種は、結婚生活や神の国のために独身で生きることの中で、愛の応答として実ります。人間のいのちは神の愛から生まれ、愛のうちに成長し、愛に向かいます。だれも神の愛から排除されることはありません。そして神は、十字架上の御子イエスの聖なるいけにえのうちに、罪と死に勝利されました(ローマ8・31-39参照)。神にとって悪は──罪でさえも──、愛するため、さらに深く愛するための機会となります(マタイ5・38-48、ルカ23・33-34参照)。ですから、神のいつくしみは、過越の神秘を通して、人類の原初の傷をいやし、宇宙全体へと注がれているのです。この世界のための神の愛の普遍的秘跡である教会は、イエスの使命を歴史の中で引き継ぎ、あらゆるところへわたしたちを派遣します。それは、わたしたちによる信仰のあかしと福音の告知を通して、神がご自分の愛をはっきりとお示しになり、いつどこででも、人々の心に、思いに、からだに、社会に、文化に触れて、それらを変えられるようにするためです。

フランシスコ教皇様は、神さまから遣わされる体験である宣教について、「聖霊があなたを突き動かし、あなたを導いておられる」ことなのだと説明します。これは、教会が「この世界のための神の愛の普遍的秘跡」であることと深くかかわっています。つまり、私たち一人一人が自分と出会う人たちに対して、具体的な関りの中で神の愛を伝えられるとき、相手へのほほえみややさしさ、親切さ、手助けする行動などがそれにあたりますが、これらを実践するとき、私たち一人一人はまさに教会の一員として「神の愛の普遍的秘跡」を携えて相手に出会い、聖霊に突き動かされて神の愛を相手に尊い美しい贈り物として手渡していけるのだ、ということです。フランシスコ教皇様は第6段落、第7段落で次のように述べています。

 宣教は、神の呼びかけへの自由で自覚的な応答です。しかし、その呼びかけは、教会のうちに現存されるイエスとの個人的な愛の結びつきを生きているときにのみ気づけるものです。次のように自らに問いましょう。聖霊を自分の人生に迎え入れる心構えができているだろうか。結婚生活を送るにせよ、独身での奉献生活や叙階による司祭職を生きるにせよ、日常生活の中で、宣教への呼びかけに耳を傾ける備えができているだろうか。いつくしみ深い父なる神への信仰をあかしするために、イエス・キリストの救いの福音を告げ知らせるために、教会を築くことによって聖霊の聖なるいのちを分かち合うために、どこへでも派遣される覚悟ができているだろうか。イエスの母マリアのように、何のためらいもなく、み旨に仕える備えができているだろうか(ルカ1・38参照)。こうした心構えは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と神にこたえるために欠かせないものです。しかも、それは抽象的なことではなく、教会と歴史の今この瞬間にあることなのです。

このパンデミックのときに神が何を語っておられるかを理解することもまた、教会の宣教に課せられた挑戦です。病、苦しみ、恐れ、孤立が、わたしたちに挑んでいます。看取られずに亡くなった人、独りで置き去りにされた人、仕事も収入も失った人、家や食べ物のない人、そうした人々の窮状がわたしたちを問いただします。ソーシャルディスタンスや在宅が要請される中で、わたしたちは社会的なかかわりだけでなく、共同体としての神とのかかわりも必要としていることを再認識するよう招かれています。こうした事態によって促されるのは、不信感や無関心を増幅することなどではなく、他者とのかかわり方にこれまで以上に心を配ることであるべきです。また、祈り──その中で神はわたしたちの心に触れ、働きかけておられます──を通して、わたしたちの心は、兄弟姉妹が求める愛と尊厳と自由へ、すべての被造物の保護へと開かれます。感謝の祭儀を祝うために教会として集うことができなくなったことで、わたしたちは、主日ごとにミサを行えない多くのキリスト教共同体の境遇に触れることができました。こうした状況の中で、神は再びわたしたちに問いかけておられます。「だれを遣わすべきか」。そして、物惜しみしない確信に満ちたこたえを待っておられます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。神は、ご自分の愛と、罪と死からの救いと、悪からの解放をあかしするために、世界と諸国民のもとに遣わす人を探し続けておられます(マタイ9・35-38、ルカ10・1-12参照)。

今年は、特に末吉町教会でも教会閉鎖期間が3月末から長く続いたりしました。また、現在でもミサ参列について100名までの人数制限をし、ミサ中も沈黙を守っていただく制限が続いています。しかし、このような困難はあれども、許しの秘跡や病者の塗油の秘跡、また臨終の祈りや納棺式、葬儀ミサや追悼ミサや納骨式は執り行われています。こうして、信仰共同体として神様との関りをしっかりと保っている末吉町教会共同体であれば、必ずこの困難な状況の中でも「神の愛の普遍的秘跡」として地域における希望の源として福音宣教者の共同体でい続けることが出来ると確信しています。

教皇様は「世界宣教の日」の意義について教皇メッセージの中で次のように説明しておられます。

「世界宣教の日」を記念することは、いかに皆さんの祈り、黙想、物的支援が、教会におけるイエスの使命に積極的にあずかる機会となっているかを、再確認することでもあります。10月の第三主日の典礼祭儀での献金として行われる愛のわざは、教皇庁宣教事業がわたしの名で行う宣教活動を支えています。それは、すべての人を救うために、世界中の人々と教会の霊的・物的なニーズにこたえるための活動に使われます。

福音宣教の星、悲しむ人の慰め、御子イエスの宣教する弟子である至聖なるおとめマリアが、わたしたちのために執り成し、わたしたちを支え続けてくださいますように。

私たち末吉町教会共同体の祈りと物的支援が世界中で最も祈りと支援を必要としている人のもとにフランシスコ教皇様の手を通して届けられ、沢山の人に聖霊の炎が灯り、希望と喜びと感謝が満ち溢れますように。

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