「死者の月」の祈り方

主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

カトリック教会では、11月は「死者の月」と呼ばれ、死者のために祈りを捧げる月となります。その始まりである11月1日には「諸聖人の祭日」を祝います。今年はレジオマリエ横浜コミチウムの黙想会指導を10:30から末吉町教会で行ったので、静岡県や神奈川県内のたくさんの教会に属してレジオマリエ会員として活動する方々や末吉町教会の信徒の方々と午後2時過ぎから荘厳にミサをお捧げすることが出来ました。また、11月2日には全世界のカトリック教会で「死者の日」の祈りが捧げられますが、末吉町教会でも日本人のみならず、フィリピン共同体や中国共同体、ベトナム共同体からの参列者もいて、荘厳に全ての亡くなった魂の永遠の安息を10時からのミサで心を込めてお祈りしました。
「諸聖人の祭日」には、地上を旅立って今や天国に迎え入れられた全ての殉教者と証聖者を讃え、ミサと聖務日課をはじめとする典礼が捧げられます。カトリック教会には聖人の目録があり、典礼暦の中で一年中、数多くの列聖された聖人や列福された福者を讃えミサを捧げていますが、これらの教皇様によって列聖や列福が宣言された聖人、福者の他にも、地上で殉教の極みまで神を愛し抜き、信仰を守り抜いた名前も知られていない殉教者たち、また、完徳の道を歩みぬいて、聖性の極みまで達した名前も知られていない証聖者たちが数多くいます。皆様のご家族の中で帰天した方々の中にも、すでに天国に迎え入れられて「天国の住人」として聖人の集いに迎え入れられている人がたくさんいらっしゃることと思います。私たちは、既に「天国の住人」になっている人々と一緒に声を合わせ、心を合わせて諸聖人の祭日に神様を讃えます。
死者の日には、神さまの救いの約束に心からの信頼を置いて地上での人生を終え、旅立ちの時を迎えたけれども、未だに果たしていない罪の償いのために「煉獄」で清めの時を過ごしている死者の霊魂のために、神さまの慈しみを心から求めて、死者の代わりとして「代願」の祈りを捧げ、ミサや死者のための聖務日課をはじめとする典礼が捧げられます。
煉獄については、『カトリック教会のカテキズム』1030項以下で次のように教えられています。
【最終の清め・煉獄】
「1030項:神の恵みと神との親しい交わりを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます。
1031項:教会は、永遠にのろわれた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の個所に基づいた、清めの火というものを取り上げています。」

煉獄については、ラテン語ではpurgatoriumと言いますが、これは「浄化する場」という意味です。ドイツ語ではFegefeuerといって、「(罪の汚れを)払う火」という意味です。したがって、日本語の「煉獄」やドイツ語の「フェーゲフォイヤ」という訳語には、聖書にある「清めの火」という概念が色濃く反映されていることが分かります。
なお、「カトリック教会のカテキズム」が指摘している聖書箇所はⅠコリント3・15やⅠペトロ1・7などとなっています。
【Ⅰコリント3・10~17】
03・10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 03・11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 03・12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 03・13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 03・14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 03・15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。 03・16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 03・17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

使徒パウロは、イエス・キリストという土台の上に建てられた家が私たちであることを示したうえで、「かの日」つまり、「審判の日」に火によって全ての人の人生が吟味され、ある人のキリストという土台の上に「建てた仕事」は残り、ある人の建物は燃え尽きてしまうけれども、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われ」る、つまり、「煉獄」の「清めの火」をくぐり抜けて救われることを教えています。また、私たち一人一人は神の神殿であるけれども、それを壊す者については、「滅び」の宣告を受けること、つまり、「地獄」へと落ちることをもはっきりと教えています。

【Ⅰペトロ1・3b~7】
神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 01・04 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 01・05 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 01・06 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 01・07 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

Ⅰペトロ書では、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られてい」ることを示したうえで、「公審判」のときに、つまり神の裁きの日に現わされる救いのために今しばらくの間、火で精錬されながらも朽ちるほかない「地上的物質」にすぎない金よりもはるかに尊い実りが、「清めの火」によって魂にもたらされることが教えられています。

私たちが「死者の月」である11月の間、死者の魂のために祈ることは、旧約聖書続編にあるⅡマカバイ記に記されているユダ・マカバイの死者のための祈りと重なり合うとき、神さまの恵み深さに信頼を置いた深い祈りとなって、「煉獄」で清めを待つ人々の魂にとってかけがえのない、この上なく美しい贈り物となっていきます。

【Ⅱマカバイ記12・36~45】
12・36 エスドリスの部隊が連戦の果て、疲労の極みにあったので、ユダは主に向かって、共に戦い、神自ら指揮をとってくださるように祈った。 12・37 そして、父祖たちの言葉で神を賛美しつつ、鬨の声をあげ、ゴルギアスの軍に不意打ちをかけ、これを敗走させた。 12・38 ユダは軍隊を率いてアドラムの町へ行った。第七日が近づいていたので、いつものように身を清め、その地で安息日を守った。 12・39 翌日ユダとその兵士たちは、いつまでも放置しておけないので戦死者たちのなきがらを持ち帰り、墓に葬って先祖の列に加えるために出発した。 12・40 ところが、それぞれ死者の下着の下に、律法によってユダヤ人が触れてはならないとされているヤムニアの偶像の守り札が見つかり、この人々の戦死の理由はこのためであるということがだれの目にも明らかになった。 12・41 一同は、隠れたことを明らかにされる正しい裁き主の御業をたたえながら、 12・42 この罪が跡形もなくぬぐい去られることを、ひたすら祈願した。高潔なユダは、これらの戦死者たちの罪の結果を目撃したのであるから、この上はだれも罪を犯してはならないと一同を鼓舞した。 12・43 次いで、各人から金を集め、その額、銀二千ドラクメを贖罪の献げ物のためにエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行いであった。 12・44 もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。 12・45 だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである。

私たちの捧げる全ての死者のための「代願」の祈りによって一人でも多くの人が「煉獄」での清めの時を終えて天国の諸聖人の集いに迎え入れられますように。

フランシスコ教皇様から日本の教会への親書

主任司祭 ヨゼフ濱田壮久神父

2017年9月17日(日)から26日(火)まで、教皇庁福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿様が日本司教団の招きで来日なさいました。日本では、福岡、長崎、広島、大阪、仙台、東京を訪問され、信徒、修道者、聖職者、神学生との交流を通して沢山の希望に満ちたメッセージをもたらしてくださいました。特に、仙台教区を訪問した際は、3.11の被災地を訪れ、祈りを捧げたことも報道されていました。
9月24日(日)には、17:15から日本の全司教様と教皇大使と司祭、修道者、信徒とともに東京マリアカテドラルでミサが捧げられましたが、そのミサでは本当に多くの参列者がいました。そして、マリアカテドラルにいた全ての人に分かりやすい言葉で、キリストとの出会いの尊さ、そして、キリストから託された希望に満ちた福音を生活の中で多くの人と分かち合っていくことの大切さを教えてくださいました。
さて、フィローニ枢機卿猊下は、福音宣教省長官の重責を担っておられますが、「福音宣教省」とは、カトリック中央協議会のホームページの説明には、「バチカンの省の1つで、全世界の福音宣教、とくに宣教地と呼ばれる地域のカトリック教会(日本の教会も含む)の活動を支援し、援助することを任務にしています。」と書いてあります。フィローニ枢機卿猊下は、この大きな職責を果たしながら、フランシスコ教皇聖下を支え、日本をはじめとする福音宣教の途上にある国々の教会に道しるべをくださる方です。
今回の来日にあたり、フランシスコ教皇聖下は日本の教会に宛てて、フィローニ枢機卿猊下に親書を託されました。この親書の中で、教皇聖下はまず初めに、日本の教会の歴史を彩った殉教者の歴史に言及しておられます。

「日本の教会について考える度に、わたしの思いは信仰のためにそのいのちをささげた多くの殉教者たちに向かいます。日本の殉教者たちはいつもわたしの心の中に特別な位置を占めております。1597年、キリストにあくまでも忠実に従った他の殉教者たちとともにそのいのちをささげた聖パウロ三木、多くの証聖者たち(信仰のあかしびと)、さらに、同じころイエスの名を拒否することより貧しさと国外追放を選びとった福者ユスト高山右近などのことをわたしは思っています。またさらに1600年から1800年代中ころまで、キリストを否定することなくその信仰を密かに守り抜いた、いわゆる「隠れキリシタン」はどうでしょう。ついこの間、わたしたちは信徒発見150周年を記念したばかりです。国籍も社会階級も年齢も異なる多くの殉教者や証聖者たちは、皆同様に神の御子への深い愛をもっていました。社会的な地位も何もかも、ただ「キリストを得るため」(フィリピ3・8)に捨て去ったのです。
兄弟の皆さん、わたしは数多くの霊的遺産に思いをはせながら、それらの遺産を受け継ぎ福音宣教に専心し、とくに弱い人々の世話に励み、さまざまな国々から来ている信者たちが日本へ融和するよう助けている皆さんを大切に思っています。文化の発展や諸宗教対話、また自然環境保全などに対する皆さんの働きにも感謝いたします。 日本の教会がもつ福音宣教の使命についてともに考えてみたいと思います。「教会はその起源から普遍(カトリック)であり、『出掛けて行き』、宣教する存在です」(2014年9月17日、教皇、一般謁見演説)。事実、「キリストの愛」は福音のためにいのちをささげるよう、わたしたちを後押しします(二コリント5・14参照)。このダイナミックな傾向は宣教熱のないところでは死んでしまいます。ですから、「いのちは与えることで強められ、孤立と安逸によって衰えます。事実、いのちをもっとも生かす人は、岸の安全を離れ、他者にいのちを伝えるという使命に情熱を注ぐ人です」(使徒的勧告『福音の喜び』10項)。」

日本の教会の礎となった殉教者たちの信仰は、どんなときにもただ「キリストを得るため」には、全てを投げ捨てさせるほどに燃え上がっていたことを、フランシスコ教皇聖下は私たちに思い起こすように勧めておられます。そして、この霊的遺産を受け継ぐよう勧めてくださり、情熱をもって「他者にいのちを伝える」使命を果たすように励まして下さっているのです。
この教皇聖下からの励ましは、どのように私たちの心に響くでしょうか。そしてどのような具体的な使命を私たちは与えられていることに気付くべきなのでしょうか。この点について、教皇聖下は次のように述べています。

「教会は「地の塩」として、腐敗から守り、さらに味付けをするという使命を課されています。そして「世の光」として闇を取り除き、現実を照らし、存在目的を明らかにしながら暗闇を打ち破るのです。主のこれらのことばは、忠実と正真性への力強い呼びかけでもあります。すなわち、塩は本当に味を付け、光は闇を追い払え、と語っています。神のみ国は、イエスの言われる通り、はじめはほんの少量のパン種のような貧しさをもって現れます。まさしくこのシンボルは日本における教会の現状をよく表しています。イエスはこの小さな日本の教会に、大きな霊的、倫理的使命を託したのです。もちろんわたしは、日本の教会に聖職者や修道者、修道女が少ないこと、また一般信徒の限られた参加に由来する、少なからぬ困難のあることを十分承知しております。しかし、働き手の少なさは福音宣教の使命を弱めるわけではありません。かえってますます宣教熱を高揚し、働き手を絶えず求める好機とさえなるのです。まるで福音に出てくるぶどう園の主人が、一日中、何時になっても新しい労働者を自分のぶどう園のために探しに行くようなものです(マタイ20・1-7参照)。」

日本の教会は、確かに小さなパン種のようであっても、しかし、大きな霊的、倫理的使命が主キリストから託されていることを教皇世下は教えて下さっています。そして、その存在理由は、「忠実」と「正真性」によって、暗闇を追い払い、光を照らし、すべてに滋味豊かな味をつけることにあるのだと教えておられます。
そして、この大きな使命のために司祭、修道者の養成を強化することを勧めておられます。

「確固として全人的な司祭、修道者の養成を強化することは、「一過性の文化」(2013年7月6日「神学生、修練者との面談」)がはびこる今日、とくに緊急を要する懸案です。こうしたメンタリティーは、真に愛することなど不可能であって、愛をも含む何もかもが不確か、その時々の感情や必要による相対的なものである、という考え方に、とくに若者たちを導きます。ですから、司祭職や修道生活の養成で最も重要な第一歩は、これらの召命の道を歩み始めた人たちが、イエスが教えてくれた愛の深い特徴を体験し理解できるよう助けることです。イエスが教える愛は無償の愛であり、自己犠牲を伴い、そしていつくしみ深くゆるすことです。この体験は世の流れに逆行し、決して裏切ることのない主に信頼することを可能にします。これこそ日本社会が渇望しているあかしです。」

末吉町教会からは21世紀に入ってから、既に二人の司祭(田邊神父様、内藤神父様)が横浜教区司祭として梅村昌弘司教様から叙階の恵みを受けました。これは、末吉町教会が信仰共同体として、教皇聖下が指摘なさったように「イエスが教えてくれた愛の深い特徴を体験し理解できるよう助ける」ことができる共同体として成熟していることを意味しています。

私たち一人一人を聖母マリアの取り次ぎに委ねて祈ってくださるフランシスコ教皇聖下の祈りに励まされながら、私たちの末吉町教会共同体がイエスの教える無償の愛、自己犠牲を伴い、いつくしみ深く許すことの出来る共同体として、これからも司祭、修道者が数多く召命の招きに応えて誕生する教会としての霊的な歩みを深めていくことが出来るよう願いながら10月を祈りのうちに過ごせると素晴らしいですね。

「親愛なる、司教職にある兄弟の皆さん、皆さん一人ひとりを聖母の取り次ぎの祈りにゆだねます。そしていつもわたしは皆さんとともにあり、そして皆さんのために確かに祈っています。主が日本の教会に多くの働き手を送り、その慰めで皆さんを支えてくださいますように。教会における皆さんの奉仕に心から感謝いたします。さらに、日本の教会、また高潔な日本の皆さんの上に、わたしの使徒的祝福を送ります。わたしのためにも、忘れずに祈ってください。
フランシスコ
バチカンにて
2017年9月14日、十字架称賛の祝日に」

祈りに満ちた8月を終えて

主任司祭 ヨゼフ濱田壮久神父

暑い日が続いた8月も終わり、実りの秋を迎えました。この夏も末吉町教会では、神様の慈しみ深い導きによって沢山の青少年活動や、祈りの集いが開催されました。7月31日から8月3日にかけて静岡県裾野市にある不二聖心女子学院中学高等学校内の「聖心会山の家」で開催された「横浜教区召命錬成会」(担当司祭:濱田壮久師、牧山善彦師)には5名の小5から中3の男子参加者、1名の高校生サブリーダーが参加し、梅村司教様や横浜教区神学生達、そして、長野県、静岡県、山梨県、神奈川県から集った参加者と共に祈りに満ちた楽しい時間を過ごせました。また、今年からは、食当として末吉町教会の4名の信徒の方が40名を超える参加者のために祈りを込めて食事を作ってくださいました。本当にありがとうございました。
8月4日から5日にかけては、末吉町教会を会場として神奈川第3地区青少年デスク中高生リーダー会主催で毎年恒例の「中高生BBQ合宿」が行われ、7教会から30名を超える中高生、青年スタッフが集い、祈り、分かち合い、思いきり遊び、お腹いっぱいに食べて素敵な時間を過ごせました。
8月20日から22日にかけては、神奈川第3地区合同教会学校サマーキャンプが千葉県佐倉市の「草笛の丘」で開催され、7教会の小中高校生80名、青年スタッフ、ママスタッフ、司祭4名の計104名で「みぃつけた」というテーマで祈りに満ち、また、本当に「友達100人出来るかな?」という日本の小学生ならば誰もが一度は耳にしたことのあるテレビCMの言葉が実現する体験を皆で共有することが出来ました。なお、合宿の中では、全員で糸にビーズを通しながら、自作のロザリオブレスレットを作成し、ロザリオの祈りを捧げることが出来たことも本当に良い思い出です。
8月15日は「聖母被昇天」の祭日でしたが、200名近い参列者が共に集い、荘厳にロザリオと国際ミサで祈りに満ちた時を過ごすことが出来ました。そして、8月27日には、横浜教区教区長であられるラファエル梅村昌弘司教様をお迎えして、横浜教区における「ファティマの聖母のご出現100周年記念ミサ」を国際ミサで荘厳に祝うことが出来ました。5月13日の「ファティマの聖母」の記念日から、駐日教皇大使のチェノットゥ大司教様が日本の教会のために入手してくださったファティマの聖母の御像は日本全国の教区を行脚していますが、横浜教区では1872年に日本再宣教の歴史の中で邦人教会として最初に誕生した若葉町教会を起源とする、「聖母のけがれなきみ心」に捧げられた末吉町教会に安置され、8月31日まで祈りの集いが開かれました。
8月27日のミサについては、当初は400名くらいの参列者を見込んで準備をしていたのですが、当日は、700名近い参列者があり、11:00から幼稚園園庭での聖母行列、その後、聖堂での5か国語でのロザリオ、次いで梅村司教様主司式による荘厳な「ファティマの聖母」のミサが捧げられました。ミサ後は幼稚園園庭でのパーティーが開かれ、多くの方々が喜びに満ちた交わりのひとときを、梅村司教様を囲んで持つことが出来ました。ミサの準備、パーティーの準備にあたって下さった皆様、本当にありがとうございました。
8月28日からのファティマの聖母像を聖堂に安置しての祈りの集いでも沢山の方々が祈りに訪れて、聖母の願いにこたえてロザリオの祈りを捧げたり、また、聖母に取り次ぎを願って深い祈りを捧げてくださいました。まだ、原稿を書いている時点では御像の公開期間が終わっていないので、最終的な人数は確定していませんが、延べで300名を超える人数が平日にもかかわらず、既に祈りに訪れてくださいました。

8月の経験の中で、私たち、末吉町教会では使徒言行録のみ言葉が私たちの信仰共同体において本当に実現したのだと確信をもっていうことが出来ると思います。

【使徒言行録2章1節~11節】
2・01 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 02・02 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 02・03 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 02・04 すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 02・05 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 02・06 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 02・07 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 02・08 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 02・09 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 02・10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 02・11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

聖霊降臨の出来事は、使徒聖パウロがエフェソの教会に宛てた手紙の中で指摘した次の出来事を実現させる天からの恵みだといえるでしょう。

【エフェソの教会への手紙2章13節~22節】
02・13 あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 02・14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 02・15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 02・16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 02・17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 02・18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 02・19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 02・20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 02・21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 02・22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

パウロが指摘する「キリストの血によって近い者となった」という表現は、同じ祭壇でキリストに結ばれ、主の御血と御体とによって「敵意という隔ての壁を取り壊し、(略)双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」て下さることを表しています。この点を深く考えるとき、同じ一つのミサに多国籍の信者が共に与り、「両方の者が一つの霊に結ばれて御父に近づく」ことができた8月の末吉町教会の信仰共同体の歩みは、まさにパウロが指摘するように「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられて」「霊の働きによって神の住まいとな」った「主における聖なる神殿」なのだということを深く実感することが出来た歩みだということが出来るでしょう。

カトリック教会のカテキズム688項では神の霊である聖霊について以下の指摘がなされています。
688 伝えられた使徒たちの信仰の交わりを生きる教会を通して、わたしたちは聖霊を知ることができます。すなわち、
―聖霊の霊感によって書かれた聖書、
―教会の教父たちがつねにあかししている聖伝、
―聖霊に支えられている教会の教導権、
―聖霊がことばとしるしによってわたしたちをキリストに交わらせる、秘跡の典礼、
―聖霊がわたしたちのために執り成してくださる祈り、
―教会を築くカリスマと種々の奉仕、
―使徒的、宣教的生活のさまざまなしるし、
―聖霊がご自分の聖性を現し、救いのわざを続けられる聖人たちのあかし、を通して。

私たち末吉町教会の信仰の歩みにおいても、カテキズムが指摘する「信仰の源泉」を大切にしながら、一人一人の信仰生活の中で聖霊の働きを豊かに受けることが出来るように歩むことが出来れば本当に素晴らしいと思います。

カトリック教会のカテキズム736項では聖霊の結ぶ実を取り上げながら、以下の指摘がなされています。
736この聖霊の力によってこそ、神の子らは実を結ぶことができます。わたしたちを真のぶどうの木に接いでくださった霊は、わたしたちに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の実を結びます(ガラテヤ05・22-23)の実を結ばせてくださいます。霊はわたしたちのいのちです。わたしたちが自分を捨てる度合いに応じて、霊の導きに従って生きることになるのです(ガラテヤ05・25)。

私たちの生活の中で、聖母の取り次ぎのうちに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ05・22-23)の実りが豊かに結ばれる9月となりますように。

聖母被昇天の祭日と天の元后聖マリアの記念日

主任司祭 ヨゼフ濱田壮久神父

暑い日が続く8月となりました。当教会では、8月15日には聖母被昇天の祭日に諸共同体が共に集い、国際ミサを捧げ、8月27日にはファティマの聖母のご出現100周年を記念して、駐日教皇大使のチェノットゥ大司教様が日本の教会のために入手してくださったファティマの聖母の御像をお迎えして、横浜教区長である梅村司教様の司式で国際ミサが捧げられます。また、8月29日(火)には、10:30から横浜教区中のレジオマリエ会員が集い、聖母のご出現100周年を記念して御像の前でロザリオの祈りを捧げ、ミサを捧げます。8月30日(水)には、フィリピン共同体が17:00から20:00まで御像の前で聖時間を過ごし、特に18:30から19:30まではロザリオの祈りを含む、祈りの集いを行います。そして、8月31日(木)には、中国共同体が19:00から20:00まで、ロザリオの祈りを含む祈りの集いを行います。

末吉町教会は聖母の汚れなきみ心(Cor immaculate Mariae)に捧げられていますから、聖母マリアの庇護のもとに私たちは信仰生活を歩んでいます。8月には、聖母マリアに捧げられた祝日が3つあります。まずは、8月5日の任意の記念日である「聖マリア教会の献堂」です。イエズスの母を「神の母」と呼ぶことが正しいと宣言したエフェソ公会議(431年)の後、シクスト3世教皇によって、ローマのエスクィリーノの丘に、神の母聖マリアをたたえる大聖堂が献堂されたことを記念する日です。のちに「サンタ・マリア・マッジョーレ」と呼ばれるようになったこの聖堂は、マリア様に捧げられた西方で最古の教会です。

次に8月15日には「聖母の被昇天」の祭日をお祝いします。そして、8月22日には「天の元后聖マリア」の記念日をお祝いします。この二つの祝日に大きく関わっている現代の教皇として尊者ピオ12世教皇様を挙げることが出来ます。尊者ピオ12世教皇様は1939年3月2日に着座し、1958年10月9日に帰天するまで教皇職にありました。
その教皇職は第2次世界大戦と共に始まり、世界中での冷戦の激化と緊張の高まりという平和が脅かされた時代の中で果たされました。常に平和を求め、困難の中にある人を助けました。例えば、ナチス政権下で行われた障碍者安楽死政策「T4作戦」には「自然道徳律に反し、また、神の掟にも反する」として、たびたび非難を行いました。また、ヨーロッパ大陸内で避難を続けるユダヤ人たちを積極的に保護し、多くのユダヤ人をバチカンにかくまい、命を救ったことで、第2次世界大戦後に建国されたイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞を贈られています。ちなみに、日本人外交官である杉原千畝氏も、「諸国民の中の正義の人」賞を受賞しています。
このような時代背景の中で、第1次世界大戦の最中に教皇として世界中のカトリック信者に「平和の元后(Regina pacis)」である聖母マリアに平和の取り次ぎを祈るように呼び掛けたベネディクト15世教皇様にならって、ピオ12世教皇様もまた、地上における平和の実現への取り次ぎを聖母マリアに嘆願していました。ピオ12世教皇様は、1950年11月1日、20世紀では教皇の不可謬権を行使した唯一の教皇として「教皇座からの荘厳な教義宣言(Ex Cathedra)」をもって、「聖母の被昇天」の教えを公布しました。
デンツィンガー・シェーンメッツァー編『カトリック教会公文書資料集』(以下、DS)収載の教皇令「ムニフィチェンティッシムス・デウス(Munificentissimus Deus)」では、「聖なる教父たちと神学者たちのすべての論証と考察の根本的な基礎は聖書である。聖書は, 子と密接に結合され,常に子の使命に参加している神の母をわれわれに示している。そのため,キリストを宿し,生み,自分の乳で育て,腕に抱きかかえたマリアの霊魂だけでなく,地上の生活を終った後にその体が,主から離れて過ごすということは考えられないことである。マリアの子であり,神の掟を完全に果したわれわれのあがない主が,永遠の父だけではなく,最愛の母をも尊敬したのは当然である。その上,キリストはマリアの体を腐敗から守る力を持っていたのであるから,実際にそうしたと信じなければならない。」(DS3900)と宣言し、聖母マリアが地上での人生を終えたのちに、その御体ごと天に上げられたことを信ずべき教えとして、教義として示しました。
ここで注目すべきは、聖母被昇天の根拠を聖書に置いている点です。ときに、聖母マリアに関わる諸々の出来事をわきに置いて考えてしまいがちですが、実は、聖母マリアに関する教会の教えは、聖書にその根を持っており、私たちがカトリック信者としての信仰生活を送るうえで、聖書と向き合う一つの方法が聖母マリアと向き合うことでもあるのです。ですから、聖母マリアを崇敬することは、決して、「女神信仰」や「偶像礼拝」ではありません。むしろ、聖書を通して天の御父のみむねがどのように歴史の中で実現してきたのかを見つめるための道として、「聖母マリアを通してイエズス・キリストへ(per Mariam ad Jesum)」の道が拓かれているのです。尊者ピオ12世教皇様は同文書を次のように続けます。
「すでに2世紀から教父たちは,マリアを新しいエヴァと呼んでいることを忘れてはならない。彼女は新しいアダム(キリスト)に従属していたが,原始福音の中にあるように(創世記3・15),地獄の敵との激戦において,キリストに密接に結びついていた。そして,異邦人の使徒の書簡において,いつも結びつけられている罪と死(ローマ5・6;1コリント15・21-26;1コリント15・54-57)に完全に打勝ったのである。したがって,キリストの栄光に輝く復活が,決定的勝利の本質的な部分,最終的なしるしであったのと同じように,罪に対するキリストとマリアの共同の戦いもまた,処女マリアの肉体の「栄光」によって終りを飾ったのである。 「この死ぬ者が不滅をまとうであろう時,死は勝利に呑まれた」という聖書のことばが実現すると使徒は言っている(1コリント15・54)。」(DS3901) このように、聖母マリアは私たちに信仰の道しるべを示し、すべての信者が聖母マリアと同じようにイエズス・キリストによって「罪と死」に打ち勝つ生き方をできることを教えて下さっているのです。
「『唯一で同一の予定の計画』によって,永遠の昔からイエズス・キリストと密接に結ばれていた神の母マリアは,原罪なくして母の胎内に宿り,神の母としても完全に処女であり,神であるあがない主の寛大な協力者であった。罪とその罰に完全な勝利をおさめた救い主は,最後にこれらの特典の最高の飾りとして,自分の母親の肉体の腐敗を免除したのであった。こうして,そのひとり子と同じように死に打勝ち,霊魂も肉体もともに天国の栄光にあげられ,そこで「万世の不朽の王」 (1テモテ1・17)であるそのひとり子の右に,輝かしい女王としての位置をしめている。」(DS3902)聖母の被昇天を祝うとき、それは、「天の元后」、「ひとり子の右におられる輝かしい女王」としての聖母マリアを祝うことも意味していることを尊者ピオ12世教皇様は教えてくださいました。

1950年の教義宣言から4年後、1954年10月11日に尊者ピオ12世教皇様は回勅「アド・チェリ・レジーナム(Ad caeli Reginam)」を公布し、聖母マリアが「天の元后(Regina caeli)」であることを論考し、8月22日を「天の元后聖マリア」の記念日と定めました。この日には、聖母マリアが神の子イエズス・キリストの母であり、神の救いのわざの協力者となったことを思い起こし、その生涯の終わりに天に上げられた聖母マリアが王であるキリストの栄光にあずかることによってすべてのものの女王として高められていることを記念します。
「天の元后聖マリア」の記念日のミサの集会祈願では、「天地を治められる神よ、あなたは聖母マリアを、天の元后、わたしたちの母としてくださいました。聖母の取り次ぎに支えられて、天の国の栄光にともにあずかることができますように。」と祈ります。
聖母マリアが被昇天の恵みを受けたこと、また、天の元后として戴冠されたことは、毎水曜日と日曜日に捧げられるロザリオの祈りの「栄えの神秘」の第4連と第5連の玄義にもなっています。聖母のご生涯を思い起こしながら、歴代教皇様の呼びかけに応えて、「平和の元后」である聖母マリアに地上における平和の実現を求める祈りを取り次いでいただくように願って過ごす日々を重ねる夏となりますように。

【ロザリオの祈り・栄えの神秘(水曜日・日曜日)】
1.イエズスは死から復活される(キリストの復活)
2.イエズスは父のもとに昇られる(キリストの昇天)
3.イエズスは父のもとから聖霊を送られる(聖霊降臨)
4.マリアは身も心も天にあげられる(聖母の被昇天)
5.マリアはイエズスの栄光にあずかられる(聖母の戴冠、天の元后)

2017年8月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 長中西