「死者の月」の祈り方

主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

カトリック教会では、11月は「死者の月」と呼ばれ、死者のために祈りを捧げる月となります。その始まりである11月1日には「諸聖人の祭日」を祝います。今年はレジオマリエ横浜コミチウムの黙想会指導を10:30から末吉町教会で行ったので、静岡県や神奈川県内のたくさんの教会に属してレジオマリエ会員として活動する方々や末吉町教会の信徒の方々と午後2時過ぎから荘厳にミサをお捧げすることが出来ました。また、11月2日には全世界のカトリック教会で「死者の日」の祈りが捧げられますが、末吉町教会でも日本人のみならず、フィリピン共同体や中国共同体、ベトナム共同体からの参列者もいて、荘厳に全ての亡くなった魂の永遠の安息を10時からのミサで心を込めてお祈りしました。
「諸聖人の祭日」には、地上を旅立って今や天国に迎え入れられた全ての殉教者と証聖者を讃え、ミサと聖務日課をはじめとする典礼が捧げられます。カトリック教会には聖人の目録があり、典礼暦の中で一年中、数多くの列聖された聖人や列福された福者を讃えミサを捧げていますが、これらの教皇様によって列聖や列福が宣言された聖人、福者の他にも、地上で殉教の極みまで神を愛し抜き、信仰を守り抜いた名前も知られていない殉教者たち、また、完徳の道を歩みぬいて、聖性の極みまで達した名前も知られていない証聖者たちが数多くいます。皆様のご家族の中で帰天した方々の中にも、すでに天国に迎え入れられて「天国の住人」として聖人の集いに迎え入れられている人がたくさんいらっしゃることと思います。私たちは、既に「天国の住人」になっている人々と一緒に声を合わせ、心を合わせて諸聖人の祭日に神様を讃えます。
死者の日には、神さまの救いの約束に心からの信頼を置いて地上での人生を終え、旅立ちの時を迎えたけれども、未だに果たしていない罪の償いのために「煉獄」で清めの時を過ごしている死者の霊魂のために、神さまの慈しみを心から求めて、死者の代わりとして「代願」の祈りを捧げ、ミサや死者のための聖務日課をはじめとする典礼が捧げられます。
煉獄については、『カトリック教会のカテキズム』1030項以下で次のように教えられています。
【最終の清め・煉獄】
「1030項:神の恵みと神との親しい交わりを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます。
1031項:教会は、永遠にのろわれた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の個所に基づいた、清めの火というものを取り上げています。」

煉獄については、ラテン語ではpurgatoriumと言いますが、これは「浄化する場」という意味です。ドイツ語ではFegefeuerといって、「(罪の汚れを)払う火」という意味です。したがって、日本語の「煉獄」やドイツ語の「フェーゲフォイヤ」という訳語には、聖書にある「清めの火」という概念が色濃く反映されていることが分かります。
なお、「カトリック教会のカテキズム」が指摘している聖書箇所はⅠコリント3・15やⅠペトロ1・7などとなっています。
【Ⅰコリント3・10~17】
03・10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 03・11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 03・12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 03・13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 03・14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 03・15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。 03・16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 03・17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

使徒パウロは、イエス・キリストという土台の上に建てられた家が私たちであることを示したうえで、「かの日」つまり、「審判の日」に火によって全ての人の人生が吟味され、ある人のキリストという土台の上に「建てた仕事」は残り、ある人の建物は燃え尽きてしまうけれども、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われ」る、つまり、「煉獄」の「清めの火」をくぐり抜けて救われることを教えています。また、私たち一人一人は神の神殿であるけれども、それを壊す者については、「滅び」の宣告を受けること、つまり、「地獄」へと落ちることをもはっきりと教えています。

【Ⅰペトロ1・3b~7】
神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 01・04 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 01・05 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 01・06 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 01・07 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

Ⅰペトロ書では、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られてい」ることを示したうえで、「公審判」のときに、つまり神の裁きの日に現わされる救いのために今しばらくの間、火で精錬されながらも朽ちるほかない「地上的物質」にすぎない金よりもはるかに尊い実りが、「清めの火」によって魂にもたらされることが教えられています。

私たちが「死者の月」である11月の間、死者の魂のために祈ることは、旧約聖書続編にあるⅡマカバイ記に記されているユダ・マカバイの死者のための祈りと重なり合うとき、神さまの恵み深さに信頼を置いた深い祈りとなって、「煉獄」で清めを待つ人々の魂にとってかけがえのない、この上なく美しい贈り物となっていきます。

【Ⅱマカバイ記12・36~45】
12・36 エスドリスの部隊が連戦の果て、疲労の極みにあったので、ユダは主に向かって、共に戦い、神自ら指揮をとってくださるように祈った。 12・37 そして、父祖たちの言葉で神を賛美しつつ、鬨の声をあげ、ゴルギアスの軍に不意打ちをかけ、これを敗走させた。 12・38 ユダは軍隊を率いてアドラムの町へ行った。第七日が近づいていたので、いつものように身を清め、その地で安息日を守った。 12・39 翌日ユダとその兵士たちは、いつまでも放置しておけないので戦死者たちのなきがらを持ち帰り、墓に葬って先祖の列に加えるために出発した。 12・40 ところが、それぞれ死者の下着の下に、律法によってユダヤ人が触れてはならないとされているヤムニアの偶像の守り札が見つかり、この人々の戦死の理由はこのためであるということがだれの目にも明らかになった。 12・41 一同は、隠れたことを明らかにされる正しい裁き主の御業をたたえながら、 12・42 この罪が跡形もなくぬぐい去られることを、ひたすら祈願した。高潔なユダは、これらの戦死者たちの罪の結果を目撃したのであるから、この上はだれも罪を犯してはならないと一同を鼓舞した。 12・43 次いで、各人から金を集め、その額、銀二千ドラクメを贖罪の献げ物のためにエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行いであった。 12・44 もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。 12・45 だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである。

私たちの捧げる全ての死者のための「代願」の祈りによって一人でも多くの人が「煉獄」での清めの時を終えて天国の諸聖人の集いに迎え入れられますように。

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