フランシスコ教皇様から日本の教会への親書

主任司祭 ヨゼフ濱田壮久神父

2017年9月17日(日)から26日(火)まで、教皇庁福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿様が日本司教団の招きで来日なさいました。日本では、福岡、長崎、広島、大阪、仙台、東京を訪問され、信徒、修道者、聖職者、神学生との交流を通して沢山の希望に満ちたメッセージをもたらしてくださいました。特に、仙台教区を訪問した際は、3.11の被災地を訪れ、祈りを捧げたことも報道されていました。
9月24日(日)には、17:15から日本の全司教様と教皇大使と司祭、修道者、信徒とともに東京マリアカテドラルでミサが捧げられましたが、そのミサでは本当に多くの参列者がいました。そして、マリアカテドラルにいた全ての人に分かりやすい言葉で、キリストとの出会いの尊さ、そして、キリストから託された希望に満ちた福音を生活の中で多くの人と分かち合っていくことの大切さを教えてくださいました。
さて、フィローニ枢機卿猊下は、福音宣教省長官の重責を担っておられますが、「福音宣教省」とは、カトリック中央協議会のホームページの説明には、「バチカンの省の1つで、全世界の福音宣教、とくに宣教地と呼ばれる地域のカトリック教会(日本の教会も含む)の活動を支援し、援助することを任務にしています。」と書いてあります。フィローニ枢機卿猊下は、この大きな職責を果たしながら、フランシスコ教皇聖下を支え、日本をはじめとする福音宣教の途上にある国々の教会に道しるべをくださる方です。
今回の来日にあたり、フランシスコ教皇聖下は日本の教会に宛てて、フィローニ枢機卿猊下に親書を託されました。この親書の中で、教皇聖下はまず初めに、日本の教会の歴史を彩った殉教者の歴史に言及しておられます。

「日本の教会について考える度に、わたしの思いは信仰のためにそのいのちをささげた多くの殉教者たちに向かいます。日本の殉教者たちはいつもわたしの心の中に特別な位置を占めております。1597年、キリストにあくまでも忠実に従った他の殉教者たちとともにそのいのちをささげた聖パウロ三木、多くの証聖者たち(信仰のあかしびと)、さらに、同じころイエスの名を拒否することより貧しさと国外追放を選びとった福者ユスト高山右近などのことをわたしは思っています。またさらに1600年から1800年代中ころまで、キリストを否定することなくその信仰を密かに守り抜いた、いわゆる「隠れキリシタン」はどうでしょう。ついこの間、わたしたちは信徒発見150周年を記念したばかりです。国籍も社会階級も年齢も異なる多くの殉教者や証聖者たちは、皆同様に神の御子への深い愛をもっていました。社会的な地位も何もかも、ただ「キリストを得るため」(フィリピ3・8)に捨て去ったのです。
兄弟の皆さん、わたしは数多くの霊的遺産に思いをはせながら、それらの遺産を受け継ぎ福音宣教に専心し、とくに弱い人々の世話に励み、さまざまな国々から来ている信者たちが日本へ融和するよう助けている皆さんを大切に思っています。文化の発展や諸宗教対話、また自然環境保全などに対する皆さんの働きにも感謝いたします。 日本の教会がもつ福音宣教の使命についてともに考えてみたいと思います。「教会はその起源から普遍(カトリック)であり、『出掛けて行き』、宣教する存在です」(2014年9月17日、教皇、一般謁見演説)。事実、「キリストの愛」は福音のためにいのちをささげるよう、わたしたちを後押しします(二コリント5・14参照)。このダイナミックな傾向は宣教熱のないところでは死んでしまいます。ですから、「いのちは与えることで強められ、孤立と安逸によって衰えます。事実、いのちをもっとも生かす人は、岸の安全を離れ、他者にいのちを伝えるという使命に情熱を注ぐ人です」(使徒的勧告『福音の喜び』10項)。」

日本の教会の礎となった殉教者たちの信仰は、どんなときにもただ「キリストを得るため」には、全てを投げ捨てさせるほどに燃え上がっていたことを、フランシスコ教皇聖下は私たちに思い起こすように勧めておられます。そして、この霊的遺産を受け継ぐよう勧めてくださり、情熱をもって「他者にいのちを伝える」使命を果たすように励まして下さっているのです。
この教皇聖下からの励ましは、どのように私たちの心に響くでしょうか。そしてどのような具体的な使命を私たちは与えられていることに気付くべきなのでしょうか。この点について、教皇聖下は次のように述べています。

「教会は「地の塩」として、腐敗から守り、さらに味付けをするという使命を課されています。そして「世の光」として闇を取り除き、現実を照らし、存在目的を明らかにしながら暗闇を打ち破るのです。主のこれらのことばは、忠実と正真性への力強い呼びかけでもあります。すなわち、塩は本当に味を付け、光は闇を追い払え、と語っています。神のみ国は、イエスの言われる通り、はじめはほんの少量のパン種のような貧しさをもって現れます。まさしくこのシンボルは日本における教会の現状をよく表しています。イエスはこの小さな日本の教会に、大きな霊的、倫理的使命を託したのです。もちろんわたしは、日本の教会に聖職者や修道者、修道女が少ないこと、また一般信徒の限られた参加に由来する、少なからぬ困難のあることを十分承知しております。しかし、働き手の少なさは福音宣教の使命を弱めるわけではありません。かえってますます宣教熱を高揚し、働き手を絶えず求める好機とさえなるのです。まるで福音に出てくるぶどう園の主人が、一日中、何時になっても新しい労働者を自分のぶどう園のために探しに行くようなものです(マタイ20・1-7参照)。」

日本の教会は、確かに小さなパン種のようであっても、しかし、大きな霊的、倫理的使命が主キリストから託されていることを教皇世下は教えて下さっています。そして、その存在理由は、「忠実」と「正真性」によって、暗闇を追い払い、光を照らし、すべてに滋味豊かな味をつけることにあるのだと教えておられます。
そして、この大きな使命のために司祭、修道者の養成を強化することを勧めておられます。

「確固として全人的な司祭、修道者の養成を強化することは、「一過性の文化」(2013年7月6日「神学生、修練者との面談」)がはびこる今日、とくに緊急を要する懸案です。こうしたメンタリティーは、真に愛することなど不可能であって、愛をも含む何もかもが不確か、その時々の感情や必要による相対的なものである、という考え方に、とくに若者たちを導きます。ですから、司祭職や修道生活の養成で最も重要な第一歩は、これらの召命の道を歩み始めた人たちが、イエスが教えてくれた愛の深い特徴を体験し理解できるよう助けることです。イエスが教える愛は無償の愛であり、自己犠牲を伴い、そしていつくしみ深くゆるすことです。この体験は世の流れに逆行し、決して裏切ることのない主に信頼することを可能にします。これこそ日本社会が渇望しているあかしです。」

末吉町教会からは21世紀に入ってから、既に二人の司祭(田邊神父様、内藤神父様)が横浜教区司祭として梅村昌弘司教様から叙階の恵みを受けました。これは、末吉町教会が信仰共同体として、教皇聖下が指摘なさったように「イエスが教えてくれた愛の深い特徴を体験し理解できるよう助ける」ことができる共同体として成熟していることを意味しています。

私たち一人一人を聖母マリアの取り次ぎに委ねて祈ってくださるフランシスコ教皇聖下の祈りに励まされながら、私たちの末吉町教会共同体がイエスの教える無償の愛、自己犠牲を伴い、いつくしみ深く許すことの出来る共同体として、これからも司祭、修道者が数多く召命の招きに応えて誕生する教会としての霊的な歩みを深めていくことが出来るよう願いながら10月を祈りのうちに過ごせると素晴らしいですね。

「親愛なる、司教職にある兄弟の皆さん、皆さん一人ひとりを聖母の取り次ぎの祈りにゆだねます。そしていつもわたしは皆さんとともにあり、そして皆さんのために確かに祈っています。主が日本の教会に多くの働き手を送り、その慰めで皆さんを支えてくださいますように。教会における皆さんの奉仕に心から感謝いたします。さらに、日本の教会、また高潔な日本の皆さんの上に、わたしの使徒的祝福を送ります。わたしのためにも、忘れずに祈ってください。
フランシスコ
バチカンにて
2017年9月14日、十字架称賛の祝日に」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA