年間第3主日(2022年は1月23日)は「神のことばの主日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

2021年12月は、コロナ禍の中で長らく休止してきた聖なる十字架を愛する会修道院でのベトナム語ミサを再開し、12月14日からはフィリピン共同体のクリスマス・ノベナの9日間のミサであるSimbang Gabi を毎晩19:30から捧げ、12月26日には16:00から100名ほどのベトナム共同体のメンバーが集い、1年の間、神さまから頂いた恵みに感謝してベトナム語ミサをマイ・タム神父様とご一緒に捧げました。また、19日(日)には18:00に教会で祈りを捧げてからフィリピン共同体の有志と一緒に路上生活者へのクリスマスプレゼントとして、温かい食事や食料品、日常必需品等を110名分用意して配布に出かけました。また、12月24日の20:00ミサの後、中国共同体の有志が準備して下さった60名分の食料品や生活必需品の路上生活者へのクリスマスプレゼントを、17名の子どもたちと15名の大人と一緒に配布しに行くことが出来ました。また、12月24日19:30から教会学校の子どもたちとリーダーたちと心を込めてペープサート劇による聖誕劇を上演することも出来ました。

コロナ禍の中で、いまだに皆様には大きな犠牲を強いるような活動制限のもとではありますが、こうして信仰共同体として末吉町教会が神さまの恵みを受けて伸び伸びと歩み続けることが出来ていることを心から神様に感謝しています。

2022年も1日は例年通り0:00ミサ、11:30ミサをお捧げすることが出来ました。そして本当に多くの方々と新しい年の始まりを神の母であり平和の元后である聖母マリアの取次のうちに祈り、お祝いすることが出来たことは神様の恵みに満たされた素晴らしい新年の幕開けとなりました。この新しい年の皆様の歩みの上に神様の祝福が豊かに注がれ、実り豊かな日々を重ねていくことができますよう、心を込めて祈っています。

 さて、2019年9月30日に公布されたフランシスコ教皇様の使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』によって「神のことばの主日」の制定が宣言され、一昨年、2020年の年間第3主日から実際に世界中のカトリック教会では「神のことばの主日」をお祝いし始めました。今年は3回目となります。「神のことばの主日」を祝うことは、クリスマスのお祝いをして間もない私たちにとって、とても大きな意味を持っています。それはイエズス・キリストが聖三位の神の第2のペルソナ(位格)、つまり、「みことば」であり、主の降誕とは、ヨハネ福音書1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあるように、「神のことば」である真の神が私たちと同じ人間性を取られ、人間の生命が神の目に美しく尊いものとして映っていることを意味するからです。

 パドバの聖アントニオは言葉と行いの関係性の重要性を説いて次のような説教をしました。ちなみに、聖務日課(教会の祈り)読書課に収載されている説教ですが、この聖人について教会の祈り読書課第2朗読の中に次のような説明があります。

 「十二世紀末にポルトガルのリスボンに生まれる。聖アウグスチノ修道会に入会して司祭に叙階されたが、やがてアフリカで福音宣教をするためにフランシスコ会に移った。しかし、アフリカに長くとどまることができず、フランスとイタリアで説教活動に従事するようになり、大きな成功を収め、多くの異端者を教会に連れ戻した。また、フランシスコ会で同会の修道者に神学を教える最初の教師でもあった。優れた学識と流れるような雄弁を特徴とする多くの説教を残した。三一年にパドバで死去。」

【パドバの聖アントニオ司祭の説教】

「行いが語るとき、言葉は生きたものとなる」

聖霊で満たされた人は、さまざまな言葉で語ります。ここで言うさまざまな言葉とは、キリストについてのさまざまな証し、すなわち謙遜、貧しさ、忍耐、従順などのことです。身につけたこれらのものを他の人々に示すとき、わたしたちはそれによって語っているのです。行いが語るとき、言葉は生きたものとなります。お願いします。言葉をひかえ、行いに語らせてください。わたしたちは言葉数は多いのですが、行いがそれに伴いません。このため、わたしたちは主から呪われます。主ご自身、葉が茂るだけで実がなかったいちじくの木を呪われたからです。グレゴリオも言っています。「説教者に課される鉄則は、その説くことを実践することである。」行いによってその説教を台無しにする人は、いたずらに教えの知識をひけらかしているにすぎません。

ところが、使徒たちは「聖霊が語らせるままに語りました。」自分の思いのままに語るのではなく、聖霊が語らせるままに語る人は幸せです。実際、自分の心のおもむくままに語る人が少なくありません。そのような人々は他人の語った言葉を盗み、それをあたかも自分の考えであるかのように述べ立てて、わがもの顔にするものです。このような人々、これに似た人々について、主はエレミヤ書で語っておられます。「見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を『託宣』と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう、と主は言われる。彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。わたしは彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる。」

ですから、わたしたちは聖霊が語らせるままに語りましょう。へりくだり、敬虔な心で聖霊に願い求めましょう。聖霊がその恵みを注いでくださり、わたしたちが五感を研ぎ澄まし、十戒を守ることでわたしたちのうちに五旬祭の日を成就し、鋭い痛悔の念に満たされ、信仰告白の火のような舌で燃え立ちますように。そして、燃え上がらせ、照らされた者として、聖人たちの輝きに包まれて三位にして唯一の神を見ることができますように。

 パドバの聖アントニオ司祭教会博士の説教の中で最初に注目したいのは、「キリストについてのさまざまな証し、すなわち謙遜、貧しさ、忍耐、従順など」の「行いが語るとき、言葉は生きたもの」となるという教えです。さらに聖アントニオは「お願いします。言葉をひかえ、行いに語らせてください。」とも懇願しています。この教えを考えるとき、「神のことば」を祝う主日を考えることは、イエズス・キリストが実際にどのように人々に関わってきたのかを考えることとつながっていることが良くわかります。

 聖アントニオは「使徒たちは『聖霊が語らせるままに語りました。』自分の思いのままに語るのではなく、聖霊が語らせるままに語る人は幸せです。」とも指摘していますが、初代教皇となった十二使徒の頭である聖ペトロとイエズス・キリストのやり取りの中で深く考えさせられる個所が聖書にあります。それは、最後の晩さんの際に、イエズス・キリストがペトロに3度の主の否認を予告した際に、ペトロは全力で打ち消しましたが、最終的に3度、主を否認したあとで、復活された主イエズス・キリストとペトロの間で交わされたやり取りです。主の晩さんの場面から聖書を見ていきましょう。

【ヨハネ福音書1336節~38節】

ペトロの離反を予告する

36シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 37ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

【ヨハネ福音書1815節~18節】

ペトロ、イエスを知らないと言う

15シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、 16ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。 17門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。 18僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

【ヨハネ福音書1825節~27節】

ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

25シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。 26大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」 27ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 このように、ペトロはイエズス・キリストに対して主の晩さんの席上で「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と力強く宣言したにも関わらず、主を否認してしまいました。つまり、この時点ではペトロの言葉と行いは一致していなかったことは明らかです。では、ペトロと主イエズス・キリストの関係性はここで断絶してしまったのでしょうか。決してそうではありません。皆様もご存じの通り、主の復活の後、聖ペトロは初代教皇として教会の礎として殉教の極みまで信仰を生き抜き、大きな証しを立てました。復活された主イエズス・キリストと聖ペトロとの個人的なやり取りがヨハネ福音書には記されています。

【ヨハネ福音書2115節~19節】

イエスとペトロ

15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 主イエズス・キリストは、ペトロの3回の否認について3回の問いを投げかけることで聖ペトロ自身が自らの行いを痛悔し、回心してイエズス・キリストに従っていくことを信仰宣言する機会をお与えになり、更には「わたしの羊を飼いなさい」と仰せになって偉大な使命をお与えになりました。この痛悔について、聖アントニオ司祭教会博士は、「聖霊がその恵みを注いでくださり、わたしたちが五感を研ぎ澄まし、十戒を守ることでわたしたちのうちに五旬祭の日を成就し、鋭い痛悔の念に満たされ、信仰告白の火のような舌で燃え立ちますように。そして、燃え上がらせ、照らされた者として、聖人たちの輝きに包まれて三位にして唯一の神を見ることができますように。」と願っています。

 「神のことばの主日」を祝うとき、私たち自身が自らの日々の言動を省み、十戒を守る生活を行うことが出来ていたかどうか、そして、信仰告白の火のような舌で燃え立ち、言葉と行いを一致させていたかどうか、三位にして唯一の神を見ようと願っていたかを振り返る機会とすることが出来れば本当に大きな実りを味わうことが出来ると思います。

【天主の十戒】

わたしはあなたの主なる神である。

1.わたしのほかに神があってはならない。

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4.あなたの父母を敬え。

5.殺してはならない。

6.姦淫してはならない。

7.盗んではならない。

8.隣人に関して偽証してはならない。

9.隣人の妻を欲してはならない。

10.隣人の財産を欲してはならない。

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