聖母のけがれなきみ心に倣って―12月8日は無原罪の聖母の祭日

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

  11月は死者の月でしたが、末吉町教会では11月7日(日)(毎年、11月第1日曜日英語ミサ)の14:00の英語ミサと、11月14日(日)(毎年、11月第2日曜日日本語ミサ)の11:30のミサでは、この1年の間に帰天された方々の御芳名を祭壇に捧げ、お一人お一人の永遠の安息をお祈りいたしました。また、11月14日(日)には、13:30から相沢墓地で、14:45からは上大岡墓地で今年も墓前の祈りをお捧げし、それぞれのご家族の墓地に納骨されている大切なご家族の魂に神様の恵みが豊かに注がれ、慰めが与えられるよう心を込めて今年もお祈り出来たことを嬉しく思います。

 11月14日(日)には七五三の祝福式をすることが出来ました。子どもたちのこれからの成長の歩みが神さまの祝福に満たされて素晴らしい歩みとなるようお祈りいたしました。また、11月21日(日)王であるキリストの祭日には11:30ミサ中、日本、フィリピン、中国、ベトナムの各共同体から10名の子どもたちの初聖体式が執り行われました。準備に当たり、ご尽力下さった教会学校リーダーの皆様、ご協力くださった保護者の皆様、本当にありがとうございました。一人一人の子どもたちのこれからの日々が御聖体の秘跡にまします主イエズス・キリストと共に歩むものとなるよう心を込めて祈っています。

 11月27日(土)には教会学校待降節黙想会を実施しました。一人一人が神さまと向き合い、ゆるしの秘跡も受け、主の降誕に向けての善い準備を始めることが出来ました。11月28日(日)にはフィリピン共同体のレジオマリエの3名の方の会員としての誓約式を執り行うことが出来ました。聖母マリアの御旗の下に集まって、祈りと使徒職を力強く果たしていってくださるよう、心から願っています。

 さて、12月8日(水)は無原罪の聖マリアの祭日です。「無原罪の御宿り」によって聖母マリアが母アンナの胎に宿ったことを思い起こします。ラテン語では Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae (インマクラータ・コンセプチオ・ベアテ・ヴィルジニス・マリエ)と言います。聖母マリアが神の恵みによって、原罪の汚れを存在のはじめから一切免れている、という教義です。

 大天使ガブリエルが聖母マリアを訪れた際に、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と挨拶した言葉にこの神秘が含まれていると理解されています。日本語では新共同訳では「恵まれた方」と訳され、アヴェマリアの祈りでは「恵みに満ちた方」と訳されている言葉は、ウルガタ訳聖書では”gratia plena”(グラツィア・プレナ)とあり、「神の恩恵」が充満していることを示していることが分かります。

【ルカ福音書1章26節~28節】

26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 この教えは1854年12月8日、教皇ピウス9世の回勅 Ineffabilis Deus(インエッファビリス・デウス) によって荘厳に教義として宣言されました。カトリック教会の典礼の二大枢軸はミサと聖務日課ですが、12月8日の聖務日課の典礼の読書課では聖アンセルモ司教教会博士の説教が全世界で朗読されます。ちなみに、聖アンセルモ司教教会博士について、聖パウロ女子修道会のホームページのLaudate

では次のように説明してあります。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=042101

4月21日 聖アンセルモ司教教会博士(1033年-1109年)

 中世思想の創始者、大神学者であり、カンタベリーの大司教であったアンセルモは、北イタリアのピエモンテの貴族の家に生まれた。16歳のときベネディクト会修道院に入ることを希望したが、一人息子として家を継がなくてはならない身分であることから、入会を拒否された。さらに優しかった母が亡くなったこともあって、自堕落な生活を送るようになった。

 しかし、修道院に入りたいという望みは消えておらず、26歳のとき誓願を立てることができた。アンセルモは人の心の動きを知ることに敏感で、それぞれに適した指導を与え、愛される修道院長として修道院の管理、修道者の指導、哲学の研究にあたった。その後カンタベリーの大司教となり、イギリス教会の基礎作りに貢献した。アンセルモは教師としても優れた人であり、また中世カトリック神学の基礎となったスコラ哲学の基礎を作った。

 この聖アンセルモ司教教会博士は聖母マリアについて次のように教えました。

聖アンセルモ司教の説教

処女(おとめ)よ、あなたの祝福によって自然はすべて祝福される

聖母よ、天、星、土、川、日、夜、人に治められるもの、人のために役立つものはすべて、あなたによっていわば復活させられ、名状しがたい新しい恩恵をもって飾られたことを喜びます。神をたたえる人間に治められ、また益するためにこそ造られた宇宙万物は、この生来の誉れ高い役割を失い、創造の目的に反して偶像に仕える人間の圧迫と濫用にしいたげられ、汚されて、まるで死んだも同然でした。ところが、今や万物は神を賛美する人間に治められ、利用されることで美しい姿を取り戻し、あたかも復活させられたように喜んでいます。

万物は、新しい、限りなく貴い恩恵を浴びて歓喜しました。それは、世を超越した創造主である神が、見えざるものとして自分たちを支配することを万物が感じとったときだけではなく、目で見えるかたちで自分たちのうちにあって、自分たちを使って聖化なさるものとして神を見たときに起こったことなのです。このように偉大な恵みは、祝福されたマリア、祝福された胎、祝福された実によってもたらされたのです。

陰府にいた者たちも、あなたの豊かな恩恵による解放を歓喜し、世を超えている天使たちも、再興された自らの状態に歓喜しています。事実、いのちを与える〔御子の〕死に先立つ時代に亡くなったすべての義人たちは、栄えある処女であるあなたから生まれた栄えある御子により、その捕らわれの状態からの解放を歓喜し、天使たちも半ば崩壊した彼らの国の再興に喜び勇んでいます。

限りない恩恵に満ちた方よ、創造されたものはすべて、あなたの満ちみてる恩恵のあふれに潤わされて再生されました。限りない祝福を受けた処女よ、あなたの祝福によって自然はすべて祝福されます。創造されたものが創造主によって祝福を受けただけでなく、実に創造主も被造物たるあなたにより祝福されました。

神はご自分に等しいものとして生んだ御子のみを、ご自分と同じく心から愛されましたが、その御子をマリアに与えられました。マリアを通じてご自分のために御子を造られましたが、それは別の子ではなく同じ御子であり、生まれながらにして神とマリアにとって同じ共通の子です。すべてあるものは神によって造られましたが、神はマリアから生まれました。神はすべてを創造されましたが、マリアは神を産んだのです。すべてを造られた神は、マリアから自らを造られました。しかも、このことによって、創造したすべてのものを再興されたのです。すべてを無から造ることのできた神は、それらが傷を受けたとき、マリアを通さずして再興させることを望まれませんでした。

このように、神は創造されたものの父であり、マリアは再創造されたものの母です。神は万物の創造の父であり、マリアは万物の再興の母です。神は万物を造った方をお生みになり、マリアは万物を救った方を産みました。神は、その方なくしては何も存在しない方をお生みになったのですが、マリアはその方なくしては、何もよいものになりえない方を産みました。

聖母よ、実に、主はあなたと共におられます。主のはからいによって、すべてあるものは主から恩を受けるとともに、あなたからも限りない恩を受けたのです。

 聖アンセルモ司教教会博士の教えから浮かび上がるのは、聖母マリアが傷ついたものを癒し、再興する方だ、ということです。新型コロナウィルス感染症について、ウィルスの変異株が続々と世界中で発見されるような状況の中で、傷ついた命を再興する方である聖母マリアの取次を願うことはとても時宜にかなった祈りだと言えるでしょう。

 聖母マリアがどれほど素晴らしい方で輝かしい方であるのかについて、聖ベルナルド修道院長は次のように説明をしています。ちなみに、聖ベルナルド修道院長教会博士について、聖パウロ女子修道会のホームページのLaudateでは次のように説明してあります。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=082001

8月20日 聖ベルナルド修道院長教会博士(1091年-1153年)

 ベルナルドは、フランスのブルゴーニュの貴族の家に生まれ、1112年に4人の兄弟と27人の友人を誘って、シトーのベネディクト会に入った。この修道会は労働と禁欲を厳守し、当時の修道院改革の中心をなしていた。2年後に、ベルナルドはクレルヴォーに新しい分院を建てるために派遣され、そこで亡くなるまで院長を務めた。

 クレルヴォー修道院の名声は高まり、ヨーロッパに68の修道院が設立され、また彼の弟子の中から、多くの偉大な人物が出た。彼は、修道院内のことにとどまらず、教会の組織上の諸問題の解決に尽力し、神の栄光と人びとの救いのために生涯をささげた。

聖ベルナルド修道院長の『聖母賛美』

いと高き御者から準備され、先祖によって前もって表されていたマリア

まさしく処女(おとめ)から生まれるということは、神の誕生にふさわしいことであり、また、処女から生まれるのにふさわしい方は、まさしく神なのです。ですから、人間の創造主が人となり、人からお生まれになるためには、まずご自分にふさわしい女性、み心にかなう女性をすべての女性の中から自分の母となるように選ぶこと、もっと正しく言えば、自分の母となるように創造なさったのは当然のことでした。

神はその方が処女であることを望まれました。すべての人の汚れを清めるべき汚れのない方は、全く汚れのない女性から生まれるはずだからです。神はまた、彼女が謙遜であることをも望まれました。後日、救いに必要な模範として諸徳の模範をすべての人に示される方は、心が柔和で謙遜な者として謙遜な女性から生まれるはずだからです。そこで、処女としてとどまりたいという願いをマリアのうちに先に抱かせ、謙遜という美徳を彼女に先に与えてくださった神は、処女のままで子を産む恵みを彼女にお与えになったのです。

マリアの中にあった善のうちに、わずかでも恵みによらないものがあったとしたら、天使は彼女を恵みに満ちた者と言うことができなかったでしょう。

至聖なる方を宿し、産むはずの方は体において聖なるものとなるために処女性という恵みを受け、精神においても聖なるものとなるために謙遜という賜物を受けたのです。

処女マリアはこれら二つの徳の真珠に飾られた女王のように、体も精神も美しく輝くのです。その輝きと美しさは天の国に知れわたり、天使たちは彼女の上に目を注ぐのです。ついにマリアは王〔である神〕の心を奪い、天の使いが彼女のもとに遣わされることになったのです。福音記者は、「天使は、処女のもとに遣わされた」と言っていますが、彼女こそ体においても心においても処女であり、その決意と誓いによっても処女だったのです。つまり使徒パウロが述べているように、心も体も聖なる処女だったのです。彼女はそのとき、たまたま認められた処女ではなく、世々の昔から選ばれた処女、いと高き御者からは予知され、ご自分のために準備された処女、天使たちからは守られ、先祖によって前もって表され、預言者からは約束された処女だったのです。

 私たちが日々の生活の中で、聖母マリアが地上の生活を通して生き抜いた輝きと美しさに目を向けながら歩む時、私たち自身も聖母マリアの「心が柔和で謙遜な者」の模範に倣って生きることが出来るようになります。聖母マリアを満たした神の恩恵が、聖母マリアの中に善を形成し、他者への思いやりに満ちた関りへと聖母マリアの心を開いていったことを改めて思い起こし、私たちの心が聖母のけがれなきみ心に倣うものとなるように祈りながら日々の生活を送る12月にできると素晴らしいですね。

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