復活節第4主日―世界召命祈願の日―

復活節第4主日―世界召命祈願の日―

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

4月18日の聖木曜日に捧げられた洗足式を伴う主の晩餐のミサ、19日の聖金曜日に捧げられた十字架の道行きと主の受難の典礼、20日の復活徹夜祭、21日の復活の主日には沢山の方と、イエズス・キリストの受難の道と十字架上の御死去、陰府降下、そして復活をご一緒に祈りをお捧げしながら過ごすことが出来ました。末吉町教会の皆様の深い信仰が表された聖週間、そして復活祭でした。特に、復活徹夜祭には2名の方の成人洗礼式と堅信式があり、キリストにおける新しい兄弟を迎えることが出来たことも本当に大きな喜びです。新受洗者の皆様、本当におめでとうございます。なお、復活徹夜祭と復活祭はフィリピン共同体、中国共同体、韓国共同体、ベトナム共同体と一緒に各国語が用いられた「国際ミサ」でお捧げすることが出来、末吉町教会の多様性と一致が本当によく表れていた素晴らしい祈りとなりました。復活祭には400名を超える参列者がありましたが、庭で行われたミサ後の復活祭パーティーも、晴天に恵まれ、楽しい交わりのひと時となりました。準備をして下さった皆様、本当にありがとうございました。

さて、4月13日(土)から横浜教区のルカ上杉優太神学生(静岡教会出身、東京カトリック神学院神学科3年生)が土日の司牧研修に末吉町教会と港南教会に来てくれるようになりました。来年には助祭叙階を受ける予定の上杉神学生にとって、末吉町教会での聖週間の典礼と復活祭の典礼は、子どもたちも多く参列して典礼奉仕をし、一緒に祈りをお捧げしたので、とても良い体験になったことと思います。

 

 カトリック教会の典礼暦では復活祭から聖霊降臨の主日まで50日間にわたって「復活節」を過ごします。この7週間に及ぶ復活節の各主日には色々なテーマが設けられています。例えば、復活節第2主日は、かつては「白衣の主日」としてお祝いされてきましたが、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様によって「神のいつくしみの主日」としてお祝いされています。また、復活節第4主日は「善き牧者」であるキリストを讃えて、ヨハネ福音書10章から選ばれた個所が朗読されることから、「善き牧者の主日」と呼ばれています。ちなみに、第2バチカン公会議後の典礼改革に基づく新しい典礼暦になる以前の1970年より前までは、ヨハネ福音書10章は復活節第2、第3主日に朗読されていたそうです。

このヨハネ福音書10章からは、A年には1-10節、B年には11-18節、C年には27-30節が朗読配分として割り当てられています。

【善き牧者A年の福音】

10:1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。10:2門から入る者が羊飼いである。10:3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。10:5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」10:6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。10:8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。10:9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

【善き牧者B年の福音】

10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

【善き牧者C年の福音】

10:27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30わたしと父とは一つである。

復活節第4主日には、イエズス・キリストがご自分の羊の群れのために命をかけて向き合ってくださることを毎年記念することから、カトリック教会では「世界召命祈願の日」として、召命のために特別に祈る日とされています。ちなみに、この「世界召命祈願の日」は、第2バチカン公会議の最中、1963年に聖パウロ6世教皇様によって導入されたので、今年で56回目を迎えます。この日に合わせて、毎年教皇メッセージが発表されますが、フランシスコ教皇様は第56回「世界召命祈願の日」にあたって、「神との約束のために危険を顧みない勇気」という題名のメッセージを発表されました。教皇様はキリスト者として生きることへの招きについて次のように述べています。

【第56回「世界召命祈願の日」教皇メッセージから】

わたしは何よりもまず、キリスト者として生きることへの招きについて考えます。それは、洗礼によって皆が受ける招きであり、わたしたちのいのちは偶然の産物ではなく、教会という大家族の中に集う、主に愛されている子というたまものであることを思い起こさせてくれます。キリスト者はまさしく教会共同体の中に生まれ、とりわけ典礼によってはぐくまれるのです。典礼は、神のことばに耳を傾け、秘跡の恵みにあずかるようわたしたちを導きます。この共同体において、わたしたちは幼いころから祈りと兄弟姉妹間の分かち合いのすべを学びます。わたしたちを新しいいのちに生まれさせ、キリストのもとへと導いてくれるのですから、教会はまさにわたしたちの母です。ですから、たとえその顔に弱さと罪というしわを見たとしても、母なる教会を愛さなければなりません。そして教会がより美しく輝き、この世における神の愛のあかしとなるよう力を尽くさなければならないのです。

またキリスト者の生き方は、社会におけるみ国の発展に貢献しつつ、自分たちの航海を正しい方向に向ける選択として表れます。わたしは、キリストのもとに結婚して家庭を築くという選択について考えると同時に、労働や専門職の領域、慈善活動や連帯の分野における取り組み、社会的、政治的責任などと結びついた、他の召命についても考えます。これらの召命は、わたしたちを善と愛と正義の約束の担い手にします。それは自分のためだけでなく、勇気あるキリスト者と神の国の真のあかし人を必要としている、わたしたちの地域の社会と文化に尽くすものでもあるのです。

フランシスコ教皇様は、キリスト者とは洗礼によって教会共同体の中に生まれ、典礼によって育まれることを指摘しています。そして、母なる教会を愛することが大切であり、社会の中で善と愛と正義を実現する使命を帯びていることを指摘しています。また、奉献生活や司祭職への召命についてはメッセージの中で次のように述べています。

【第56回「世界召命祈願の日」教皇メッセージから】

主との出会いの中で、奉献生活や司祭職への招きに心惹かれる人もいるでしょう。完全に自分自身をささげ、福音と兄弟姉妹に忠実に奉仕するよう努めることを通して、教会という舟の中で「人間をとる漁師」になるようにとの招きを感じることは、感激と同時に不安を覚えさせることです。この選択には、主のわざの協力者となるために、思い切ってすべてを捨てて主に従い、自分自身を完全に主にささげることが求められます。心の中にさまざまな抵抗が生じ、その選択を妨げるでしょう。また、きわめて世俗的で、神と福音の入る余地がないように思われる状況では、落胆し、「希望の疲弊」に陥るでしょう(「司祭、奉献生活者、信徒活動団体とのミサでの説教」パナマ、2019年1月26日)。

それでも、主のために危険を顧みないで生きることほど、大きな喜びはありません。とくに若者の皆さんにお願いします。主の呼びかけに対して耳をふさがないでください。主がそのように呼びかけたら、おじけづかずに、神を信頼してください。主から示された高い頂きの前で、身動きできないほどの恐怖心に支配されないでください。主は網や舟を捨ててご自分に従う人に、心を満たし、人生を活気づける、新しいいのちの喜びを約束してくださいます。どうかこのことを忘れないでください。

大切な友である皆さん、自分の召命を識別し、人生を正しく方向づけることは、必ずしも容易ではありません。だからこそ教会全体の各部分――司祭、修道者、司牧養成者、教育者――には、とりわけ若者に傾聴と識別の機会を提供するための、新たな取り組みが求められるのです。とくに祈り、みことばの黙想、聖体礼拝、霊的同伴を通して神の計画を知る助けとなる、青年司牧と召命推進の活動は不可欠です。

ワールドユースデー・パナマ大会で何度もしてきたように、マリアを見つめましょう。この少女の生涯においても、召命には約束と危険が伴いました。その使命は容易なものではありませんでしたが、マリアは恐れに屈しませんでした。マリアの「はい」は、「危険を顧みずに自らかかわる人、自分が約束の担い手であるという確信以外には何も保障がなくてもすべてをかけようとする人の『はい』です。皆さん一人ひとりにお聞きします。自分が約束の担い手だと感じていますか。どんな約束を心に抱き、それにこたえようとしていますか。マリアが困難な使命を担っていたことは疑いようもありませんが、その難しさのゆえに『いいえ』と答えることはありませんでした。もちろん戸惑ったでしょうが、それは、前もってすべてが明らかにされ、保証されていないと身動きがとれなくなる臆病さから生じる戸惑いと同じものではなかったでしょう」(「若者との前晩の祈り」パナマ、2019年1月26日)。

 

フランシスコ教皇様は奉献生活や司祭職への召命について、「心の中にさまざまな抵抗が生じ、その選択を妨げるでしょう。」と述べています。それにもかかわらず、世界中では2016年末現在で116,160人の大神学生と101,616人の小神学生が司祭職への準備を進めています。末吉町教会に迎えた上杉神学生を含めた全世界の神学生達が善き牧者キリストに倣って善き牧者、司祭として歩み始められるよう、心を合わせて祈りましょう。

そして、私たち自身も洗礼によって受けた召命を、聖性を高めていくことで社会の中で豊かに生きることが出来ますように。

復活節を歩む際に心に留めたいマザー・テレサのことば

聖性は、限られた人たちの特権ではありません。それは、あなたや、わたしにとっての単純な務めなのです。わたしは、わたしの生き方をもって、聖人にならなくてはならないし、あなたも同様です。偉大な聖人は、人を思いやることから始まります。もしあなたが、この、人を思いやる術(すべ)を身につけたら、あなたは、もっともっとイエスさまに似ていくことでしょう。イエスさまの心は柔和で、いつも他の人のことを思いやっていたのですから。

(マザー・テレサ日々のことば、2009年11月 女子パウロ会 「6月27日」)

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