十字架のしるしと神様の御名とわたしたちの名前

末吉町教会「街の灯」2019年6月号巻頭言

十字架のしるしと神様の御名とわたしたちの名前

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

5月は聖母月ということで、日曜日の11:00から沢山の方が参加して下さり、ロザリオの祈りをお捧げすることが出来ました。沢山の世代の方々が織りなす美しい祈りの調べが末吉町教会の聖堂に響いたことは、何よりも尊く美しい聖母マリアへの捧げものになったことと思います。祈りに参加してくださった皆様、ありがとうございました。

また、5月12日には信徒有志の方々の主催でミニバザーが開催されましたが、日本共同体、フィリピン共同体、中国共同体、ベトナム共同体、韓国共同体から沢山の方々が協力してくださり、本当に素晴らしい時間をご一緒に過ごすことが出来ました。心から感謝いたします。

5月13日から14日にかけては横浜教区司祭評議会主催の「第46回横浜教区司祭の集い」が御殿場にある神山復生病院で開催されましたが、ハンセン氏病回復者で在院者の藤原さんからも、とても貴重なお話を聞くことが出来ました。神山復生病院には、伝統的に東京の神学院に在院している神学生たちが毎年訪問をするので、私にとっても懐かしい再会となりましたが、現在は回復者の皆様は4名が在インしておられるということで、時が流れていることを実感する機会となりました。また、同時に、本当に物資も乏しかった時代に、命がけで在院する一人ひとりと向き合ってきた歴代の司祭やシスター方の隣人愛の深さを感じる時間となりました。

祈りの初めの十字架のしるしの意味

さて、カトリック教会のお祈りの初めには「十字架のしるし」を刻みます。十字を切るとき、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」と唱えながら、「上(父と)→下(子と)→左(聖霊の)→右(み名によって)」に右手でしるしを刻みます。

このしるしは特別な意味を持っています。『カトリック教会のカテキズム』の2157項では次のように説明されています。

「キリスト者は自分の一日、および祈りや行いを始めるにあたって、十字架のしるしをし、『父と子と聖霊のみ名によって。アーメン』と唱えます。受洗者は一日を神の栄光のためにささげ、御父の子供として聖霊の助けを受けながら行動させてくれるキリストの恵みを願います。十字架のしるしは、誘惑や困難に遭うときにわたしたちを強めてくれます。」

一日の始まりにあたって、また、祈りの初めにあたって、十字架のしるしをすることは、私たちが神さまの恵みに守られていることを表していて、その日一日がどの瞬間をとっても聖なるものであることを表しています。そして、わたしたちが一日の中で重荷を担うときにも神さまが一緒に担って下さって軽くして下さることを表しています。イエズス・キリストは次のように優しく教えてくださいました。

【マタイ福音書1125節~30節】

11・25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 11・26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 11・27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 11・28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11・29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11・30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

私たち一人ひとりの名前の不思議

  十字架のしるしを刻んで祈りで一日を始めるとき、イエズス・キリストは私たち一人ひとりにパーソナルに呼びかけて御自分のもとで安らぎを得られるように招いてくださいます。それでは、神さまの目から見て、私たち一人ひとりはどのように映っているのでしょうか。

『カトリック教会のカテキズム』では、次のように説明しています。

2158項:「神は一人ひとりを名指しでお呼びになります。あらゆる人間の名前は聖なるものです。名前は人格の聖画像(イコン・icon)です。その名を持つ人の尊厳のしるしとして尊敬されるべきものです。」

2159項:「授かった名前は永遠性を示す名前です。天の国では、神のみ名を記されたそれぞれの人格の、神秘的で独自の性格がいささかの影もなく輝き出ることでしょう。「勝利を得る者には……白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(黙示録2・17)。「わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊とともに十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」(黙示録14・1)。」

神さまは一人ひとりの名前を御存じで、一人ひとりの聖なる名前を呼んで下さっていることが分かります。それぞれのご家庭で子どもたち名前を愛情を込めて呼ぶとき、ご両親を通して子どもたちの心に神様の呼びかける声が響き渡り、神さまからの恵みと愛とが注がれていきます。

ご家庭でご家族が一人ひとりの名前を愛情を込めて呼ぶとき、その声を通して一人ひとりの心に神様の呼びかける声が響き渡り、必要な助けと導きが長い人生の歩みの中で備えられていきます。

この一人ひとりのかけがえのない特別な名前は、「永遠性を示す名前」として大切にされ、この地上での人生の間だけではなくて、この地上を旅立って神様のもとへと召されてから、つまり、天国に迎え入れられてからも、その人の魂に固有の特別な名前として永遠に輝き続けます。

聖母マリアにお祈りを捧げる「アヴェ・マリアの祈り」は

 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、/主はあなたとともにおられます。(大天使ガブリエルの受胎告知のことば)/あなたは女のうちで祝福され、/ご胎内の御子イエスも祝福されています。(叔母のエリザベトのことば)/神の母聖マリア、/わたしたち罪びとのために、/今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

という祈りですが、この中でも、後半部分では、「今も死を迎えるときも」マリア様に向かって、聖母マリアの最愛の御子イエズス・キリストを通して天の父である神に私のために必要な恵みと助け、慰めと励ましを下さるように祈り、地上での生活の間ずっと、そして、地上を旅立って天国に迎え入れられる時まで神さまから守ってもらえるように願う祈りとなっています。

イエズス・キリストは、全ての人の名前を神として呼び、そして永遠に続く慰めと喜びに満ちた神の国に至るまで、私たち一人ひとりと一緒にいることを約束して次のように教えておられます。

【ヨハネ福音書102節~4節、11節~16節】

 10・2 門から入る者が羊飼いである。 10・3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 10・4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

10・11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10・12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・狼は羊を奪い、また追い散らす。・・ 10・13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10・14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10・15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10・16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

私たち一人ひとりの名前を呼んで、幸せな生活を送ることが出来るように恵みを注いでくださる神さまがいることを、私たち一人ひとりが心を込めて捧げる毎日の祈りを通して、そして、ご家庭でご家族と一緒に過ごす時間の中で知ることが出来るとき、私たち一人ひとりの未来は、本当に希望に満ちた日々になっていくのだと言えるでしょう。

神さまの聖なる御名(みな)を唱えるときに起きること

神様の聖なる御名について、4世紀から5世紀にかけて活躍した聖アウグスティヌス司教教会博士は『主の山上のことば』(S. Augustinus, De sermone Domini in monte, 2, 5, 19: CCL 35, 109 [PL 34, 1278])という本の中で次のように述べています。

「神のみ名は、その偉大さと威厳とにふさわしい尊敬をもって口にされるとき、偉大なものとなります。またそのみ名は、崇敬とみ名を傷つけることをおそれる心とをもって口にされるとき、聖なるものとなります。」

私たちがお祈りを始めるときに十字を切りながら「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。」と唱えながら「聖三位一体(せい・さんみいったい)」の神さまのお名前を呼ぶときに、神さまへの心からの尊敬を込めるならば、私たちと神さまの間に深い絆が結ばれていきます。こうして、私たちの生活の中で、神さまの恵みは豊かな実りを結ぶようになっていきます。

イエズス・キリストは、私たちが神さまの聖なる御名を讃えることでキリストにつながるようになり、豊かな実りを結べることを「ぶどうの木」のたとえ話で教えてくださいました。

【ヨハネ福音書151節~5a7節~17節】

 15・1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15・2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 15・3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 15・4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15・5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

15・7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 15・8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 15・9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 15・10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 15・11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15・12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15・13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15・14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15・15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15・16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15・17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

キリストによって天からの恵みに強められて豊かな実りを日々の生活の中で結ぶことを目指すとき、次のマザー・テレサの言葉はどのご家庭にとっても確かな道しるべになると思います。

マザー・テレサの言葉から(『マザー・テレサ日々の言葉』1231日 女子パウロ会)

 

死や悲しみの代わりに、この世界に平和と喜びをもたらしましょう。

こうするためには、神に、神の平和というたまものを請いねがい、さらに神の子どもである兄弟姉妹として、互いに受け入れ合うことを学ばなくてはなりません。

子どもたちにとって、愛し方や祈り方を学ぶ最善の場所が、家庭であること、そして自分たちの母親と父親の愛や祈りを見て学ぶのだということを、わたしたちは知っています。

家族がしっかりと結ばれているとき、子どもたちは、神の特別な愛を、父親と母親の愛のうちに見出すことができます。そして、子どもたちは自分たちの国を、愛と祈りに満ちた場所にしていくことができるのです。

私たちの6月の歩みがこの世界に平和と喜びをもたらすものとなりますように。

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