四旬節の歩み方と復活祭の迎え方

末吉町教会「街の灯」2019年4月号巻頭言

四旬節の歩み方と復活祭の迎え方

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

3月6日の灰の水曜日から四旬節の歩みが始まりました。今年は250名近い方が19:30の灰の水曜日のミサで祈りを捧げ、灰の式を受けることが出来ました。平日の夜遅くの英語ミサにもかかわらず、フィリピン共同体のみならず、日本共同体、韓国共同体、中国共同体、ベトナム共同体からも、沢山の方が参列し、親子で参列してくれた子どもたちも喜んで侍者をしてくれました。これほど多くの人が灰の式に与って四旬節の歩みを始めて下さったことは、末吉町教会が信仰共同体としてキリストへの深い愛のうちに生きていることの「しるし」ですから、本当に素晴らしいと思います。

また、3月16日(土)14:45から17日(日)11:30ミサまでの予定で行われた教会学校1泊2日四旬節黙想会にも、19人の子どもたちが教会で寝食を共にしながら、講話に耳を傾け、ゆるしの秘跡に与り、土曜日の21:00からは聖体賛美式を捧げ、ラテン語の聖体賛歌も本当に美しい天使の歌声で至聖なる聖体の秘跡にまします主イエズス・キリストに捧げていました。なお、17日(日)9:30からは聖パウロ修道会の鈴木信一神父様による大人向けの四旬節黙想会も行われ、本当に充実した祈りが重ねられています。

3月30日(土)には、8:00に集合して27名のフィリピン共同体と日本共同体のメンバーと、主任司祭と協力司祭のディニョ神父様の29名で共に”Visita Iglesia”(ヴィジタ・イグレシア)の祈りを捧げました。今回はマイクロバスを借りて、以前、フィリピン共同体のチャプレンだったマリノ神父様のいらっしゃる相模原教会をはじめとする沢山の教会をめぐり、夕方までかけて各教会で十字架の道行きの各留の祈りを黙想しました。こうして、末吉町教会の各共同体で四旬節に向けて素晴らしい準備の時が刻まれていることは、神さまの恵みがわたしたちを通して沢山の人に注がれていくことを思うとき、素晴らしい実りを復活祭には結ぶことと思います。

さて、四旬節の始まりに当たって灰を受ける式を行うことについては、Irénée Henri Dalmais神父様(1914-2006、ドミニコ会司祭、Institute Catholique de Paris名誉教授)の “The Liturgy and Time”(Liturgical Press 1986)の69頁以下でまとめられていますが、要約すると次のようになります。

古代の教会では大罪の状態に陥って秘跡に与ることを禁止されていたカトリック信者が、ふさわしい悔い改めの時間(多くの場合は3年ほど)を過ごしたうえで、教会共同体から正式に迎え入れられるきっかけとなる式として行われていました。このような習慣はガリア地方(現在のフランス)からイスラム教徒の支配下の地域になっていた現在のポルトガル周辺まで広範囲で実践されていました。

その後、1091年にはウルバヌス2世教皇様によって、「ベネヴェント会議(Council of Benevento)の教令において、「灰の水曜日には聖職者も信徒も全ての者が灰を受ける」と定めらました。

このように、ローマ典礼カトリック教会においては、灰の水曜日に断食を行い灰の式を受けることは11世紀には誰もが行うことになっていきました。私たちの典礼における祈りが長い伝統を受け継ぐものであることを考えるとき、灰を受けることの重みを感じて背筋が伸びる思いがします。

フランシスコ教皇聖下は今年の四旬節メッセージのテーマを『「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ819)』として次のような招きの言葉を述べています。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

神は母なる教会を通して、「信じる人々が復活の神秘を喜びのうちに待ち望み、年ごとに心を清めて迎えるよう導かれます。こうしてわたしたちは……新しいいのちの秘跡にともにあずかり、神の子の豊かな恵みに満たされます」(「叙唱」四旬節一)。ですからわたしたちは、キリストの過越の神秘によってすでに与えられている救いの完成に向けて、復活祭から復活祭へと歩むことができます。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8・24)。地上の生活においてわたしたちの中ですでに働いているこの救いの神秘は、歴史と全被造物をも含む動的なプロセスです。聖パウロが述べているように、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8・19)。(略)

四旬節が、心を清めて新しいいのちのあり方に目を向ける季節、つまり、イエズス・キリストが十字架上でなし遂げて下さった「贖(あがな)いの神秘」によって永遠のいのちへの道が拓かれ、天国の扉が開かれたことを思い起こす季節であることを考えるとき、四旬節メッセージの中のフランシスコ教皇聖下の次の指摘は、私たち一人ひとりが真剣に考えなければならないものであることが分かります。

1. 被造物のあがない

典礼暦の頂点であるキリストの受難と死と復活を記念する聖なる過越の三日間は、御子の姿に似た者となること(ローマ8・29参照)は神のあわれみのはかり知れないたまものであることを自覚して、備えの道を旅するようつねに招いています。

人は、神の子として生きるならば、聖霊の導きのもとに(ローマ8・14参照)あがなわれた者として生きるならば、さらには自分自身の心と自然界に刻まれたおきてを始めとする神のおきてを理解し、実践できるならば、被造物のあがないに協力することを通して、「被造物のためにも役立つことができます」。だからこそ、聖パウロが述べているように、被造物は神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいるのです。別のことばで言えば、イエスの過越の神秘の恵みにあずかる人は、人間のからだのあがないの成就という実りを、十分に味わいます。聖人たちは、キリストの愛によっていのち――霊、魂、からだ――を変えられ、神を賛美します。そして、アシジの聖フランシスコの賛歌「太陽の歌」に素晴らしいかたちで表れているように、彼らは祈り、観想、芸術を通して、被造物をも巻き込みながら神を賛美します(回勅『ラウダ―ト・シ』87参照)。しかし、あがないによって生まれたこの世界の調和は、罪と死という負の力によって絶えず脅かされ続けています。

2. 破壊をもたらす罪の力

実際、神の子として生きていなければ、わたしたちはたびたび隣人や他の被造物に対して――自分自身にさえ――破壊的な態度をとり、すべてを自分の意のままに利用できるという考えを、多かれ少なかれ抱いてしまいます。それにより、節度のない行いが横行し、人間の条件と自然を尊ぶことからくる制約を逸脱した生活様式が現れ、歯止めの利かない欲望に従うようになります。「知恵の書」によれば、その欲望は神を信じない者、つまり自分の行いについても、未来への希望についても神をよりどころとしない者たちのものです(2・1-11参照)。もしわたしたちが絶えず復活祭へと、主の復活の地平へと向かわなければ、「すべてを今、欲しい」「つねにもっと欲しい」といった考え方がますますはびこることは明らかです。(略)

神のおきて、愛のおきてを捨て去るなら、弱肉強食の法則を肯定するようになります。人間の心に潜む罪(マルコ7・20-23参照)――それはどん欲であること、過剰な幸せを求めること、他者の幸せに対して、そしてしばしば自分の幸せにさえ無関心であることとして表れます――は、被造物、人間、環境からの搾取をもたらします。その搾取は、あらゆる欲望を権利としてとらえ、最終的には手中にしているものすら破壊してしまう、飽くなき欲望によるものです。

フランシスコ教皇聖下のこの指摘は、私たち一人ひとりの日常生活の中でよって立つ価値観はどのようなものであるかを考えることを求めていると言えるでしょう。フランシスコ教皇聖下は、2018年3月19日聖ヨゼフの祭日に使徒的勧告『喜びに喜べ―現代世界における聖性―』(“Gaudete et Exsultate”)を公布しましたが、その中で「山上の説教(垂訓)」の中から特に「真福八端」を解説しておられます。

 

「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」

71項: 至るところに争いがあり、どこもかしこも憎悪だらけで、考え方、風習、さらには話し方や服装でもって他者をランクづけすることをやめない、始まりからずっと反目の場であるこの世界にあって、これは衝撃的なことばです。結局世界は、他者よりも上になることは権利だとだれもが信じている高慢と虚栄の国です。けれども、不可能に思われたとしても、それでもイエスは、別の生き方を示します。柔和です。それはご自分の弟子たちに対して実践されたことであり、エルサレム入城によって見えてくるものです。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和なかたで、ろばに乗って」(マタイ21.5。ゼカリヤ9.9参照)。

72項: そのかたはいわれます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、……わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11.29)。他者に対してピリピリして、イライラと尊大でいれば、しまいにはへとへとに疲れ切ってしまうでしょう。けれども他者の限界や欠点を、自分のほうがまともだという思いを抱くことなく、優しく柔和な心で受け止めるなら、彼らに手を差し伸べることができ、無益な不平不満にエネルギーを使わなくなるでしょう。リジューの聖テレジアにとっては、「真の愛徳は、他人の欠点を忍耐し、彼らの弱さを驚かず」にいるということです。

74項: 柔和さは、神だけに信を置く者が内面において貧であることのもう一つの表現です。事実聖書ではしばしば、anawimという同一の語が、貧しい人と柔和な人を指すのに用いられています。こう反論する人もいるかもしれません。「あまりに物腰柔らかでいたら、人から頭が弱いとか、お人好しの馬鹿とか、気が弱いとか思われてしまう」。そういうこともあるでしょうが、それならそれで、その人にはそう思わせておきましょう。優しく接することはつねによいことで、それによってわたしたちの大きな望みはかなうはずです。柔和な人は「地を継ぐ」、すなわち、彼らは生涯の中で神の約束が果たされるのを目にするのです。柔和な人は、いかなる状況にあろうとも、神に希望し、主に希望を置く者は地を継ぎ、揺るぎない平和を得るからです(詩編37.9、11参照)。主もまた、そうした者に信頼を寄せます。「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしのことばにおののく人」(イザヤ66.2)。

――謙虚に柔和に応じること、それが聖であるということです。

フランシスコ教皇聖下は、今年との四旬節メッセージの中で、謙虚に柔和に生きることのしるしとして、改めて四旬節の行いである「断食と祈り、施し」について次のように教えておられます。

3. 悔い改めとゆるしがもつ、いやす力

(略) 「断食」とは、他者と被造物に対する姿勢を変えるすべを身につけることです。それは、自分の強欲を満たすために何もかも「むさぼりたい」という欲望から離れて、心の空白を満たしてくれる愛のために苦しむことのできる状態へと変わることです。「祈り」は、偶像崇拝や、自力で何でもできるという考えを捨てるために、また、自分には主と、主のいつくしみが必要であることを宣言するためにささげます。「施し」は、未来は自分たちのものではないにもかかわらず、その未来を手に入れられると錯覚し、自分自身のためにすべてを蓄えて生きようという愚かな考えを捨てるために行います。こうしてわたしたちは、兄弟姉妹と全世界を愛し、その愛のうちに真の幸せを見いだすという、被造物とわたしたちの心に神が用意してくださった計画がもたらす喜びを実感するのです。

私たち自身が「断食と祈り、施し」を通して、「むさぼりたい」という欲望から自由になり、神の恵みと導きに心を開くことの大切さに気付き、共に生きる全ての人々を兄弟姉妹として大切にし、いのちある全ての被造物への優しさを身に着けていくことで、いのちの祝祭である復活祭を大いなる喜びのうちに迎えることができるよう、準備の日々を歩んでまいりましょう。

四旬節を歩む際に心に留めたいマザー・テレサのことば

 子どもたちは、彼らを受け入れ、彼らを愛して、彼らをほめ、彼らを誇りとしてくれる、だれかを熱望しているのです。

子どもたちを、わたしたちの注意や関心の中心にもう一度戻そうではありませんか。こうすることが、唯一、この世界が生き延びる道なのです。

子どもたちは、未来への唯一の希望だからです。お年寄りが神に呼ばれるとき、その子どもたちだけが、彼らの場所を引き継ぐことができるのです。

(『マザー・テレサ日々のことば』、2009年11月 女子パウロ会 「9月27日」)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA