十字架称賛の祝日について

末吉町教会「街の灯」2018年9月号巻頭言

十字架称賛の祝日について

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 今年の夏は例年にない暑い日が続きましたが、末吉町教会では8月12日に梅村司教様によって55名の方々が堅信の秘跡を授けて頂くことが出来ました。準備にあたって下さった堅信準備委員会、総務委員会、典礼委員会をはじめとする教会の皆様、本当にありがとうございました。今回は、日本共同体、フィリピン共同体、中国共同体、韓国共同体、ベトナム共同体から受堅者がいたので本当に国際色豊かで、使徒言行録に記載されているような、聖霊降臨の際の教会のように多くの異なる背景を持つ人々が聖霊の働きによって一つに結ばれるという体験をすることが出来ました。今回、堅信の秘跡を受けた皆様は、既に堅信を受けている末吉町教会の皆と力を合わせて、聖霊の息吹に満たされてイエズス・キリストから託された王職(神の愛を証しする力)、預言職(信仰を伝える力)、祭司職(祈る力)をそれぞれの生活の場で大いに発揮して下さることと期待しています。本当におめでとうございます。

8月15日には19:00からロザリオの祈りの各連を日本語、英語、中国語、ベトナム語、韓国語でお捧げすることもできましたし、19:30からの聖母被昇天の祭日のミサも各共同体から典礼奉仕者が出る素晴らしい国際ミサとしてお捧げすることが出来ました。ご協力くださった皆様、本当にありがとうございました。

8月19日(日)から21日(火)にかけては、「つながり隊」というテーマで神奈川第3地区教会学校合同サマーキャンプが千葉県にある佐倉草笛の丘で開催されました。当日は、末吉町教会と二俣川教会に分かれて集合し、それぞれバスに乗って千葉県に向かいました。合宿参加者は52名で、末吉町教会からは12名が参加しました。また、スタッフは二俣川教会の姜神父様と私の2名を含めて25名が参加しましたが、末吉町教会からはドゥ・ドゥク・ロン君、何凡君が準備の段階から加わり、素晴らしい合宿を作ることが出来ました。

合宿の初日は、主日のミサの後で末吉町教会のお母さんたちの手によるお昼ご飯を頂いてからバスに乗り、一路千葉県へと向かいました。会場についてからはそれぞれの教会から集まったスタッフの紹介があり、お風呂の後で夕食を食べてから各班で仲良くなるためのアイスブレーキングのプログラムがあり、その後、祈りを捧げてから小学生は就寝、中高生は分かち合いプログラムを行いました。

二日目は鳥のさえずる林の中での野外ミサで始まりました。そして、朝食の後で班ごとに夏の教会カルタを作成して、みんなで楽しく大カルタ取りを行いました。それぞれがとても個性的な句を作り、また、創造性に富んだ絵を描いていたことが印象に残っています。お昼ごはんの後で、大自然の中、ウォークラリーを行いましたが、どのグループも小さい子から中高生のお兄さんお姉さんまで、本当に仲良く交わって一つ一つのチェックポイントをクリアしていきました。その後、お風呂に入って夕食を食べた後、キャンプファイヤーを行いましたが、皆で楽しくフォークダンスを踊ったりゲームをしたりして、最後にはキャンプファイヤーの残り火を十字架の形にして、主の十字架を囲んで夕の祈りを捧げました。それから小学生は就寝、中高生は分かち合いプログラムを行いました。

三日目はラジオ体操と朝の祈りの後で朝食を頂き、部屋の清掃をしてから西千葉教会へ向かい、合宿の結びのミサを捧げ、お弁当を食べてからバスで二俣川教会へ向かいました。二俣川教会で解散式を行いましたが、皆が本当にキリストとつながり、お互い同士でも信仰においてつながることの出来た素晴らしい合宿となりました。準備にあたって下さったリーダーの皆様、本当にありがとうございました。

さて、9月14日は十字架称賛の祝日ですが、この祝日には人々の救いと勝利の希望であるキリストの十字架、死と罪とに打ち勝つ勝利のしるしである十字架を讃えて祈ります。使徒聖パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です。」(Iコリ1.18)と力強く証言しています。ちなみに、この「十字架称賛」の祝日は十字架の崇敬と結びついていますが、十字架の崇敬が盛んにおこなわれるようになったのは、335年にエルサレムでキリストの墓の上に復活聖堂が献堂されたことが大きなきっかけとなったそうです。そして、5世紀頃にはエルサレムでは復活聖堂の献堂を記念する9月13日の翌日にキリストの十字架を称賛して礼拝する典礼捧げられるようになり、ローマ典礼全体には7世紀には取り入れられて荘厳に祝われるようになりました。ちなみに、この「復活聖堂」という名前は正教会の伝統的名称で、カトリック教会では「聖墳墓教会」(Ecclesia Sancti Sepulchri)と呼びならわされてきました。この教会は、イエズス・キリストが十字架にかけられたカルワリオの丘の岩(ゴルゴタの丘)と、イエズス・キリストが葬られ復活したお墓との上に立てられています。

ちなみに、主の贖(あがな)いの神秘が成し遂げられた聖なる場所ですので、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会、エチオピア正教会の共同管理となっています。なお、カトリック教会での聖地の管理については、1217年以降、アッシジの聖フランシスコが創立した「小さい兄弟会」(O.F.M.)に委託されており、Custodia Terrae Sanctae(聖地管理団)として2017年のフランシスコ教皇様のエルサレム訪問の際には800周年記念を祝いました。

なお、2018年8月12日(日)、末吉町教会の小聖堂に聖地エルサレムを管理するCustodia Terrae Sanctaeから贈られた「カルワリオの丘の岩」の聖遺物の安置式が堅信式に引き続いて横浜教区長である梅村司教様によって荘厳に執り行われました。末吉町教会の小聖堂の聖遺物顕示台の説明書きには以下のように記されています。

聖遺物―カルワリオの丘の岩―

2018年7月、来日したフランス人美術史家ジャック・シャルル=ガフィオ氏によって、末吉町教会に「カルワリオの丘の岩」の聖遺物が寄贈された。この聖遺物入れに納められているのは、イエズス・キリストの十字架が立てられた聖地エルサレムのカルワリオの丘の岩から削り取られた石である。聖遺物を納めた聖遺物櫃は、1550年頃、すなわち、聖フランシスコ・ザビエル神父が日本に上陸してキリスト教を宣教した時代にヨーロッパで制作されたものである。

2018年8月12日、梅村昌弘司教によって聖遺物顕示台が祝別され、聖遺物が安置された。

なお、ガフィオ氏は聖地エルサレムを1217年以来、800年以上にわたって管理するフランシスコ会修道院の依頼で、「聖地博物館(Terra Sancta Museum)」のための仕事を長年にわたって手掛けており、今回、長上であるフランチェスコ・パットン師から譲り受けた聖遺物「カルワリオの丘の岩」の安置教会として末吉町教会を選んだ。

クレタの聖アンデレ司教(正教会、カトリック教会の聖人(司教/大主教)。660年~740年。ダマスクスに生まれ、678年に修道士となり、692年にクレタ島のゴルテュナ(Gortyna)の大司教に就任)は十字架称賛について次のような説教を残しています。

「十字架はキリストの栄光であり高揚である」

十字架の祝日をわたしたちは祝います。これによって暗闇は追い払われ、光が取り戻されたのです。十字架の祝日を祝います。わたしたちも罪に満ちた地を足もとに見捨て、上のものを得るために、十字架にかけられた方とともに高められます。十字架を持っている人は偉大なものを持っており、十字架を所有している者は宝を所有するのです。名前ばかりではなく事実として、すべてのものの中で最も美しく、すばらしいものを、わたしは宝と呼びます。わたしたちの救いのすべてはこの十字架のうちにあり、十字架を通して、十字架に結びつけて与えられました。それによって、わたしたちはもとの状態に戻ることができたのです。

もし十字架がなかったなら、キリストは十字架につけられなかったでしょう。もし十字架がなかったなら、いのちそのものであるキリストは木に釘づけにされなかったでしょう。もしキリストが釘づけにされなかったなら、永遠のいのちの泉、すなわちこの世を贖った血と水は、そのわき腹から流れ出なかったでしょう。わたしたちは自由を得なかったでしょう。いのちの木を享受することはできなかったでしょう。楽園は開かれなかったでしょう。もし十字架がなかったなら、死は打ち負かされず、死者の国に捕らわれた者たちは解放されなかったでしょう。

それゆえ、十字架はまことに偉大で尊いものです。十字架がまことに偉大であるのは、これによって多くの善がなされたからです。キリストの奇跡と受難が完全な勝利を収めたので、これらの善も全く卓越したものです。また、十字架が神ご自身の受難の場であり、勝利の冠だからです。受難の場であるのは、キリストが十字架の上で苦しみの死を自発的に受けられたからです。勝利の冠であるのは、キリストが十字架の上で悪魔に傷を負わせ、死を打ち負かしたからです。こうして死者の国の扉は開かれ、十字架はこの世の共通の救いとなりました。

この十字架はキリストの栄光とも呼ばれ、キリストの高揚とも呼ばれます。これこそ、キリストが望まれた杯でもあり、キリストがわたしたちのために耐え忍ばれた苦しみの結末でもあります(略)。

クレタの聖アンデレ司教の教えの中で特徴となるのは、「十字架を持っている人は偉大なものを持っており、十字架を所有している者は宝を所有するのです。名前ばかりではなく事実として、すべてのものの中で最も美しく、すばらしいものを、わたしは宝と呼びます。」という、十字架を宝として理解する考え方です。キリスト教の信仰において十字架は「まことに偉大で尊いもので」ありますが、これは、十字架によって多くの善が、それも卓越した善が成し遂げられた、受難と勝利の冠だからです。

私たちの信仰生活を考えるとき、どのようにしてキリストとつながり、そして、キリストとつながった人々がお互いにつながることが出来るのかを考えるとき、常に中心にはイエズス・キリストの十字架があります。私たちの生活がどんなときにもキリストの十字架を通してキリストの栄光と結びつくように歩むことが出来る9月になると素晴らしいですね。

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