9月6日は「被造物を大切にする世界祈願日」

9月6日は「被造物を大切にする世界祈願日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 横浜市内の学校も8月17日から2学期となった学校も多く、私の勤務する中高も8月24日に始業式ミサが捧げられ、ウィズ・コロナの色々な制約はあれども、どうにか生徒たちが毎日元気に学校に通うことができるようになりました。

 末吉町教会でも、いまだに9月末まで「主日のミサ順守義務免除」が延長され、平日のミサは木曜日のみ、また、主日のミサについては、土曜日は信徒参列のミサが再開できず、日曜日のミサも100名に限って人数を絞ってのミサということで、皆様には多大な犠牲を払っていただいていること、本当に心が痛むとともに、皆様の忍耐強いご協力に心から感謝しております。

 末吉町教会としては、8月15日(土)に聖母被昇天の祭日をお祝いして、17:00から会衆の皆様には沈黙を守っていただきつつラテン語でロザリオの祈りを捧げ、17:30からミサをお捧げしました。このミサの中で、本来であれば4月11日(土)の復活徹夜祭で洗礼、堅信、初聖体を迎えるはずだった3名の方の入信の秘跡をお授けすることが出来ました。なお、復活徹夜祭以外での堅信の秘跡の執行は、堅信の秘跡の「通常の執行者」である司教にのみ留保されていますので、事前に横浜教区司教である梅村司教様に教会法上の「請願書」(Petitio)を提出し、法的拘束力を持つ「答書」(Rescriptum)によって堅信の秘跡執行の権能委任をして頂きました。3名の新しい兄弟姉妹を迎えて、末吉町教会が信仰共同体として豊かになっていくことを本当に神様に感謝しています。

 大きな喜びを味わうことができた8月でしたが、それでも、これまでの末吉町教会での信仰生活と比べると大きな違いがあります。このような変化の中で、改めて日々の祈りの重要性と、聖堂でのミサに与って、至聖なる聖体の秘跡にまします至聖贖罪主イエズス・キリストをお迎えできることがどれほど大きな慰めであるかを痛感しています。

 さて、フランシスコ教皇様は2015年5月24日聖霊降臨の祭日に回勅『ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』を公布なさいました。この回勅をもとにして、2015年8月6日の書簡で全世界のカトリック信者に向けて、9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」とすることを発表されました。これは、東方正教会のコンスタンティノープル全地総主教ディミトリオス1世のイニシアティブで1989年から正教会世界で始められた9月1日を「被造物のために祈る日」として祝うこと、また、2007年からは9月1日からアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までキリスト教諸教会・共同体がエキュメニカルに「被造物保護期間」として祝うことにカトリック教会としてもエキュメニズム(教会一致運動)の観点から合流することを意味していました。

 日本の教会としては2016年9月の第1日曜日から「被造物を大切にする世界祈願日」を祝い始めましたが、2019年の同祈願日の教皇メッセージの中でフランシスコ教皇様が9月1日から10月4日を「被造物の時節(Season of Creation)」として祈りと行動を行うことを勧められたことと、同年11月23日から26日の日本訪問を受けて、日本のカトリック教会として2020年5月9日付で、9月1日から10月4日を毎年「すべてのいのちを守るための月間」として祈りと働きを捧げることを司教協議会会長のヨゼフ高見三明大司教様が発表されました。その際には、以下の4本柱を各教会共同体が実践することが呼びかけられています。

1)毎年9月第一日曜日(被造物を大切にする世界祈願日)に、全国で一斉に祈り、各共同体単位で具体的な行動を起こす。

2)期間中、「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」(2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)を唱える。

3)地球環境の実態について学習し、エコロジー教育を推進する。

4)行政、自治体、環境保護団体などと連携して活動する。

 このようなフランシスコ教皇様のイニシアティブを受けての日本の教会としての取り組みは、『ラウダート・シ』の中でのフランシスコ教皇様の教えに基づいています。この回勅の中で、フランシスコ教皇様はアシジの聖フランシスコについて次のように述べています。

【ラウダート・シ】

10項:ローマ司教に選ばれたときに、導きとインスピレーションを願って選んだ名前の持ち主である、あの魅力的で人の心を動かさずにはおかない人物に触れないまま、この回勅を書くつもりはありません。聖フランシスコは、傷つきやすいものへの気遣いの最良の手本であり、喜びと真心をもって生きた、総合的(インテグラル)なエコロジーの最高の規範であると、わたしは信じています。彼はエコロジーの分野で研究や仕事に携わるすべての人の守護聖人であり、キリスト者でない人々からも大いに愛されています。彼は殊のほか、被造物と、貧しい人や見捨てられた人を思いやりました。彼は愛に生き、またその喜び、寛大な献身、開かれた心のゆえに深く愛されました。飾ることなく、また神と、他者と、自然と、自分自身との見事な調和のうちに生きた神秘家であり巡礼者でした。自然への思いやり、貧しい人々のための正義、社会への積極的関与、そして内的な平和、これらの間の結びつきがどれほど分かちがたいものであるかを、彼はわたしたちに示してくれます。

12項:さらに、聖書に忠実な聖フランシスコは、自然を、神がそこでわたしたちに語りかけ、ご自身の無限の美や善を垣間見させてくれる、壮麗な一冊の本とみなすよう誘います。「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造ったかたを認め」(知恵13・5)ます。実に、「世界が造られたときから、神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して知られていた」(ローマ1・20)のです。そのためフランシスコは、野の花々や香草が成長できて、またそれを見る人々がそうした美の創造主である神を心から仰げるようにと、修道院の庭の一部をつねに人の手が加わらない状態にしておくよう求めました。世界は、解決すべき問題であるよりは、むしろ歓喜と賛美をもって観想されるべき喜ばしい神秘なのです。

 フランシスコ教皇様はこのように、私たちが生活する「ともに暮らす家を大切に」するよう呼び掛ける中で、人間だけにとどまらず、すべての命ある被造物、また、地球そのものに愛のまなざしを向けておられます。このまなざしを理解する霊性については次のように説明されています。

229項:わたしたちは互いに必要としていること、他者と世界に対して責任を共有していること、善良で正直であることにはそうするだけの価値があること、こうした確信を、わたしたちは取り戻さなければなりません。もう長らく、倫理、善、信仰、誠実さを茶化すことで、わたしたちは道徳的退廃を経験してきました。軽はずみな浅薄さは、ほとんど何の役にも立たないと認識するときが来たのです。社会生活の基盤が腐ると、対立する利害をめぐる争い、新たな形態の暴力と蛮行、そして環境を気遣う真の文化の成長の阻害が確実に起こります。

 このフランシスコ教皇様の2015年のことばは、聖霊に満たされた預言的な未来へのまなざしだということを、現在のコロナ・ウィルス感染拡大が止まらない世界で生じている一つ一つの現象を見ていると、痛感させられます。今、私たちに必要なのは、毎日の生活の中で「互いに必要としていること」、「他者と世界に対して責任を共有していること」、「善良で正直であることには価値があること」、「倫理、善、信仰、誠実さ」を取り戻すことに気づくことであると言えます。

230項:リジューの聖テレジアは、愛の小さな道を実践すること、また優しいことばをかけ、ほほえみ、平和と友情を示すささやかな行いのあらゆる機会を逃さないようにと、わたしたちを招いています。総合的な(インテグラル)エコロジーはまた、暴力や搾取や利己主義の論理と決別する、日常の飾らない言動によってもできています。つまるところ、消費が肥大する世界は、同時に、あらゆる形態のいのちを虐待する世界なのです。

 ウィズ・コロナの時代でも、私たちは毎日の生活の中で色々な場面で少なからず人々との交わりを持っています。多くの人の心の中に不安や恐れ、心配や不満、やり場のない怒りのエネルギーがあふれている時代に、人々との出会いの中で、幼きイエズスの聖テレーズが生きたのと同じ、「愛の小さな道」、つまり、優しいことばとほほえみを絶やさないことで平和と友情を増し加えていくことが出来れば、私たちはアシジの聖フランシスコのモットーである「平和と善(Pax et Bonum・パックス・エット・ボーヌム)」の実りを豊かに結んでいくことができます。

 それでは、私たちは、この「平和と善(Pax et Bonum)」をどのように結んでいくことができるのでしょうか。フランシスコ教皇様は次のように教えてくださっています。

235項:諸秘跡は、神が自然を、超自然的ないのちを仲介するものへと高める、特別に恵まれた手段です。神への礼拝を通して、わたしたちは異なる次元で世界を受け入れるよう招かれます。水、油、火、色は、それらが象徴する力すべてにおいて高められ、わたしたちの賛美の中に組み込まれます。祝福する手は、神の愛の道具であり、またわたしたちの人生の旅路に寄り添うために来られたイエス・キリストの近しさの映しです。洗礼の際にこどものからだに注がれる水は、新しいいのちのしるしです。神と出会うということは、この世界から逃げ出すことでも、自然に対して背を向けることでもありません。このことは、とくに東方キリスト協の霊性において明らかです。「美―東方において、神聖な調和を表現するのにもっとも親しまれている名の一つで、変容された人間のモデルであるそれは、教会の造形に、音楽に、色に、光に、香りにと、至るところに見られます」。キリスト者にとって、物質世界のすべての被造物が自らの本当の意味を見いだすのは、受肉したみことばにおいてです。なぜなら、神の独り子は、人となって物質界と結ばれ、そこに決定的な変化の種を蒔かれたからです。「キリスト教は、物質を否定しません。むしろ、身体性は、典礼行為において、その価値を全面的に認められており、そこでは、人間の身体は、その内なる本性において聖霊の神殿として示され、また、世の救いのために肉をお取りになった主イエスと結ばれています」。

 今、全世界では新型コロナ・ウイルス感染拡大防止のために、実際に聖堂でミサに与ることが禁止されているカトリック信者が数えきれないほどいます。また、末吉町教会でもゆるしの秘跡の告解室は使用中止になっていますし、病者の塗油については、各病院や老人ホームで厳しい入室制限があり、なかなか以前のようには秘跡に与る機会を確保できていません。このような状況の中で、改めて「祝福する手」は「神の愛の道具」であり、司祭の手を通して三位一体の神が私たち一人一人に今日も天からの恵みをもたらして下さることは、「わたしたちの人生の旅路に寄り添うために来られたイエス・キリストの近しさの映し」であることを改めて思い起こしたいと思います。このキリストの近しさは、聖体の秘跡において頂点に達します。このことをフランシスコ教皇様は次のように教えてくださっています。

236項:創造されたすべてのものがもっとも高められるのは、聖体においてです。感覚で捉えられるしかたで自らを顕(あら)わにしようとする恵みは、神ご自身が人となられ、被造物のためにご自分を食べ物としてお与えになったとき、このうえなきかたちで表現されました。主は、受肉の神秘の頂点において、ひとかけらの物質を通して、わたしたちの内奥にまで達することを望まれました。この世界でわたしたちが主を見いだせるよう、主は、上からではなく内から訪れてくださいます。聖体において、充満はすでに実現されています。それは万物のいのちの源であり、愛とくみ尽くすことのできないいのちとがあふれ出る泉です。全宇宙は、聖体の中に現存なさる受肉した御子に結ばれて、神に感謝をささげます。実に、聖体は、宇宙的な愛の行為そのものです。「そうです、それは確かに宇宙的です。なぜなら、たとえ田舎のささやかな祭壇で行われていたとしても、感謝の祭儀はつねにある意味で『世界という祭壇の上で』行われているからです」。聖体は、天と地を結び、被造界全体を抱き、そして貫きます。神のみ手から生まれ出た世界は、全被造物が喜びにあふれ一つになって礼拝することを通して、神に帰るのです。すなわち、聖体であるパンにおいて、「被造界は、神化へと、聖なる婚宴へと、創造主ご自身との一致へと向かうようにと造られています」。それゆえ聖体は、被造界全体の信託管理人であるようわたしたちを導く、環境への関心を照らし生かす光と力の源でもあります。

 聖堂でのミサに与り、至聖なる聖体の秘跡にまします至聖贖罪主イエズス・キリストを自らのうちにお迎えすることで、イエズス・キリストは私たち一人一人を内側から神様の愛と慈しみで満たしてくださいます。これは、全宇宙の王、「王であるキリスト(パントクラトール)」が聖体拝領を通して、私たちの心と体と魂の一番中心にある玉座に着座してくださることによって生じます。

 9月中、聖堂でのミサに与ることができた方は、ぜひ、ご自分が受けた聖体の秘跡から頂く恵みを、ご自分の守護の天使を通して、まずは末吉町教会の、次いで、全世界の、ミサに与ることができない信徒たちの守護の天使へとおすそ分けしようという祈りの意向を持って受けるようにして下さい。また、9月1日からは「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を毎日お捧げください。

【すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り】

 宇宙万物の造り主である神よ、あなたはお造りになったすべてのものをご自分の優しさで包んでくださいます。

 わたしたちが傷つけてしまった地球と、この世界で見捨てられ、忘れ去られた人々の叫びに気づくことができるよう、一人ひとりの心を照らしてください。

 無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、わたしたちの役割を示して下さい。

 すべてのいのちを守るため、よりよい未来をひらくために、聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、あなたの愛の道具として遣わしてください。

 すべての被造物とともにあなたを賛美することができますように。

 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

(二〇二〇年五月八日 日本カトリック司教協議会認可)

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石渡洋行神父様の司祭叙階式が無事に執り行われました。

末吉町教会「街の灯」2020年8月号巻頭言 

石渡洋行神父様の司祭叙階式が無事に執り行われました。

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 7月17日(金)午後2時から横浜教区司教であるラファエル梅村昌弘司教様の手で、雪の下教会でライモンド石渡洋行神父様の司祭叙階式が無事に執り行われました。本来であれば、4月29日に大勢の方の参列を受けて大きなお祝いの中で司祭に叙階されるはずでしたが、今回は、新型コロナウィルスの感染拡大を受けての特別な状況の中で参列者は司祭と神学生、ご家族、石渡神父様の出身教会の三浦海岸教会の少人数の信徒と神奈川第4地区の教会代表だけに限定されての少人数の叙階式でした。石渡神父様と谷脇神父様と私は昭和53年度の生まれなので、こうして教区司祭団の中に同い年の司祭が加わってくださり、本当に心強く思います。新司祭の誕生に当たり、神さまの恵みが横浜教区に豊かに注がれていることを深く実感することが出来ました。

 末吉町教会では6月7日(日)から信徒参列のミサを再開しましたが、8月に入っても参加人数の制限や、ミサ中に会衆の皆様には沈黙を守って頂くことになり、本当にご負担を強いることになっていますが、新型コロナウィルスの感染拡大防止のためになお一層のご理解とご協力を頂ければ幸いです。これに合わせて、9月末までの「主日ミサ順守義務免除の公告」延長をいたします。体調に不安のある方、また、ご家族にご病気を抱えている方がいらっしゃる方は、これでまでと同様にYoutube配信のミサを通してご一緒に祈り、「霊的聖体拝領を求める祈り」をお捧げ下されば幸いです。

 末吉町教会では現在、木曜日9:30のロザリオの祈り、10:00ミサ、日曜日11:30ミサ、第1・3日曜日14:00英語ミサ、第2・4日曜日韓国語ミサを捧げることが出来ています。これもひとえに皆様が日々の生活の中で新型コロナウィルス感染防止対策を入念にしてくださる中でミサに参加していることに依ります。また、教会委員会の皆様や地区世話役会の皆様、フィリピン共同体、中国共同体、ベトナム共同体、韓国共同体の皆様が聖堂への入堂前の検温や連絡先の記帳、また、ミサ後の除菌・消毒作業を手分けしてして下さっています。このような多くの方々のご尽力でミサをお捧げすることが出来ていること、改めて心より御礼申し上げます。なお、土曜日の17:00ミサについては、検温や連絡先の記帳、ミサ後の除菌・消毒を担って下さる方を見いだすことが出来ておらず、当面の間は信徒参列のミサとしてお捧げできないことを申し訳なく思います。事情をご理解いただければ幸いです。

 さて、今月は聖務日課の「寝る前の祈り」(終課)で主日・祭日に割り当てられている詩編91をもとにご一緒に黙想をしたいと思います。

【詩編91】(新共同訳)

91・01 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 

91・02 主に申し上げよ /「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」 と。 

91・03 神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。 

91・04 神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。/神のまことは大盾、小盾。 

91・05 夜、脅かすものをも/昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。 

91・06 暗黒の中を行く疫病も/真昼に襲う病魔も 

91・07 あなたの傍らに一千の人/あなたの右に一万の人が倒れるときすら/あなたを襲うことはない。 

91・08 あなたの目が、それを眺めるのみ。/神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。 

91・09 あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。 

91・10 あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。 

91・11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 

91・12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。 

91・13 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。 

91・14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。/わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。/91・15 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。91・16 生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」

 この詩編はフランシスコ会訳聖書では「主の翼のもとに」という題名が付されています。信仰において神に依り頼む人にはどのような災いも及ばないことが告げられています。特に4節の「神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。/神のまことは大盾、小盾。」という言葉に注目したいと思います。神様が一人ひとりをかばい、そして羽で覆って下さっていることを思うとき、たとえ、新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない全世界において、それぞれの国の社会全体に不安が広まっていたとしても、私たちの存在そのものが神の庇護下にあることが分かります。そして、6節、7節では「暗黒の中を行く疫病も/真昼に襲う病魔も/あなたの傍らに一千の人/あなたの右に一万の人が倒れるときすら/あなたを襲うことはない。」という励ましの言葉が語られます。

 確かに、新型コロナウィルスは目に見えない存在ですから、どのような感染防止対策を講じたとしても、決して万全ということはなく、誰もが感染するリスクはあることは事実です。しかし、自分の生活の中で賢明さをもって必要な対策を講じているならば、いたずらに不安を心の中で大きくするのではなく、むしろ、神さまによって自分の存在が守られていることを意識しながら、9節、10節にあるように「あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。/あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。」という約束に信頼を置いて過ごしてはいかがでしょうか。また、9節にある「主をさけどころ」とするということは、主のうちに避難するということを意味していますから、ステイホームをするときにも、外出を自粛させられている、犠牲を払っているという意識ではなく、主と共に、祈りに満ちた家庭での時間を過ごすことによって神様に守られている実感を得ることが出来るようになるのではないでしょうか。

 詩編91では続けて11節と12節で天使の存在にも言及があります。「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。/91・12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」不要不急の外出を控えたとしても最低限度の外出は避けることができません。そのようなときに、もし心に不安がよぎるようなときには、特にこの個所を心に思いめぐらしてみると良いのではないでしょうか。

 この夏は、昨年までの夏とは違って教会学校のサマーキャンプ等の行事も実施することができません。しかし、一人ひとりの我慢と犠牲が1日も早い感染終息につながり、一人でも多くの命を守ることにつながっていきます。詩編91の15節、16節「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」という神さまの確かな約束を心に留めて、暑い夏を乗り切ることが出来ればと願っています。

 ここに、2020年4月3日に日本カトリック司教協議会によって発表された「新型コロナウィルス感染症に苦しむ世界のための祈り」を再度載せます。皆様も日々の生活の中でどうぞお祈り下さい。

【新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り】

いつくしみ深い神よ、

新型コロナウイルスの感染拡大によって、

今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。

病に苦しむ人に必要な医療が施され、

感染の終息に向けて取り組むすべての人、

医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。

亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、

尽きることのない安らぎに満たされますように。

不安と混乱に直面しているすべての人に、

支援の手が差し伸べられますように。

希望の源である神よ、

わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、

世界のすべての人と助け合って、

この危機を乗り越えることができるようお導きください。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

希望と慰めのよりどころである聖マリア、

苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。

(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)

上杉神学生の助祭叙階式が無事に執り行われました。

末吉町教会「街ノ灯」2020年7月号巻頭言

上杉神学生の助祭叙階式が無事に執り行われました。

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 7月4日(土)午後2時から横浜教区司教であるラファエル梅村昌弘司教様の手で、末吉町教会と港南教会に昨年から司牧研修に週末ごとに来ているルカ上杉優太神学生の助祭叙階式が無事に執り行われました。本来であれば、復活節第4主日(今年は5月3日)「世界召命祈願日」(別名:「善き牧者の主日」)に大勢の方の参列を受けて大きなお祝いの中で助祭に叙階されるはずでしたが、今回は、新型コロナウィルスの感染拡大を受けての特別な状況の中で参列者は司祭と神学生、ご家族だけに限定されての少人数の叙階式でした。今回は上杉助祭様と同時に、同級生の西村助祭様も叙階の秘跡を受けました。7月17日に司祭叙階予定の石渡助祭様もいたので、横浜教区の助祭叙階式では珍しいことに、「助祭団」の3人の中で、同じ聖職位階の役務を受けた仲間、兄弟としての平和のあいさつが交わされていました。私は教区副事務局長の谷脇神父様の助祭叙階式の時は、司祭叙階前だったので助祭団による平和のあいさつを2人で交わしましたが、3人いるというのは本当に横浜教区では珍しい光景で、神さまの恵みが横浜教区に豊かに注がれていることを実感することが出来ました。

 さて、末吉町教会では2022年、つまり2年後に150周年を迎えます。末吉町教会の歩みの始まりは横浜雙葉学園を含む全国の雙葉学園を創立した幼きイエス会(サン・モール会)との二人三脚によるものでした。この点について横浜雙葉学園レジナ会の会報のために歴史をまとめました。これから2年後に控えている150周年記念の準備として、第三千年紀、21世紀の末吉町教会の私たちが、教会の歴史の始まりに思いを馳せるためにレジナ会の会報から歴史をまとめた部分のみを以下に引用します。

横浜でのサン・モール会と教会の絆について

 さて、カトリック末吉町教会では2017年7月15日(土)にマザー・マチルド他4名のサン・モール会(幼きイエス会)会員の横浜上陸145周年及び横浜修道院閉鎖の感謝のミサが横浜教区長であるラファエル梅村昌弘司教様の司式で捧げられました。『街ノ灯―カトリック若葉町・末吉町教会120周年記念誌』(1996年12月24日刊)によると、「1866年プチジャン師が新たに日本代牧区教皇代理に任命され、香港において司教叙階された。司教は横浜にその教区長館を置き、その職務を果たしていた」そうです。このプチジャン司教様が1872年、「キリシタン禁制の解かれる希望が見えてきた。今すぐ宣教に来てほしい」という手紙をメール・マチルドに送り、幼きイエス会の横浜上陸につながりました。ちなみに、キリシタン禁制の高札は1873年(明治6年)に撤去されました。

 『街ノ灯』によると、パリ外国宣教会のペティエ神父様とミドン神父様は1872年には「外国人居留地のみの司牧ではく、すでにサン・モール会修道女たちが活動し始めている日本人地区若葉町近郊の宣教を試み、巡回を開始したのである。それは当時の聖心教会(後の山手教会)が居留地内にあり、居留地外国人信徒を中心とするためであったが、あらためて日本人のための教会建設を目的としていた」そうです。これは、『街ノ灯』の「歴史年表」によると、「1872年:居留地外日本人のために『巡回教会』、聖心教会天主堂よりバリ外国宣教会司祭が巡回し日本人への布教に努力、若葉町に巡回教会(末吉町教会の礎)」とあります。

また、横浜市が開港50周年を記念して発行した『開港50年史』によると、「聖ミカエル教会は、中区若葉町1丁目2番地に在る。(略)宣教師ムガブール(X. Mugabure)師の時代に、地を若葉町に卜して、2階建の洋館を建築し、階上を礼拝堂に充て、階下を小学校専用とし、明道小学校なる名称を附した。此小学校は、教員2名と、明治5年6月、仏國サンモール会の修道院から来た修道者サン・マチルダ(Sainte Mathilda)女史及び邦人修道者山上カク(山上女史は、昭和3年11月17日、社会事業に貢献した功績を以て、帝国政府より表彰された。)等によって、信徒其外有志子弟の薫陶に従事し、通学生は約百名を算するに至つた(略)」そうです。この明道小学校設立および「聖ミカエル教会」(若葉町教会)献堂にあたっては「歴史年表」によると、「ムガブル師は布教所に定住、日本人のための布教に専念、後に東京大司教となる。教会設立の際、サン・モール修道会の尽力によるところ大であった。」と記されています。

 その後、末吉町教会は1945年5月29日に横浜大空襲で聖堂、司祭館、幼稚園が全焼し、戦後、若葉町一帯が米軍に接収され米軍のモータープール及び飛行場にされたことで、9月下旬に現在の末吉町教会の地所を代替地として入手して現在に至ります。このように、若葉町教会から末吉町教会へと至る横浜の居留地外の邦人信仰共同体の歩みはサン・モール会とともに歩んできたものでした。なお、横浜市内の教会のうち、保土谷教会は1939年6月14日(三位一体の祝日)に若葉町教会から分離独立して小教区として設立され、戸部教会は1955年に末吉町教会から分離独立して設立され、磯子教会は1957年に設立され、港南教会は1987年に分離独立して設立されました。

 現在、末吉町教会の洗礼台帳には、キリスト教禁制の高札が撤去された1873年の翌年、1874年の分から記録が残っています。これほどの歴史を重ねてきた末吉町教会は何を大切にしてきたのかといえば、マタイ福音書の結びの箇所で示される「大宣教命令」です。

【マタイによる福音書28章16節~20節「弟子たちを派遣する」】

28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエズス・キリストはご自身が父である神から「天と地の一切の権能を授かっている」ことを宣言なさった上で、洗礼を授け、使徒たちに対して彼らに託した教えをすべて守るようにおしえることで「すべての民」をキリストの弟子にすることを「命令」として遺されました。しかし、これは決して「遺言」ではありません。イエズス・キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と確約なさり、私たち一人ひとりの地上での人生の時間、また、地上での生活を終えた後の天国での時間に渡って永遠に「いつも」「共にいる」ことを明らかにされました。

 つまり、末吉町教会の148年に及ぶ歴史の中で、末吉町教会で洗礼を受けた全ての人、また、末吉町教会に所属して信仰生活を送ってきた全ての人、また、末吉町教会出身の修道者、聖職者の全て、末吉町教会の全ての協力司祭、助任司祭、主任司祭と、地上で生きている間も、地上での人生を終えて煉獄での清めを待っているときも、天国に迎え入れられてからも、生きておられる主イエズス・キリストご自身が一人ひとりと寄り添って下さっているのです。

 横浜教区助祭として新しく誕生した2名の助祭も、神さまの恵みによって来年には司祭に叙階されることと思います。こうして、神さまの恵みは世代から世代へと受け継がれていきます。聖職位階に属する人たちの間で世代が継承されるということは、末吉町教会としても世代が継承されていくこととも重なり合って、末吉町教会として信徒も主任司祭も決して途絶えることなく、これからも歴史の歩みの中で世代の継承を重ねていくことができることが分かります。

 150周年を記念するための準備期間として2年間は短いのかもしれません。しかし、これからの2年の末吉町教会の歩みの中で、これまでの末吉町教会の世代から世代へと継承されてきた素晴らしい信仰の実りをこれからの50年を目指してどのように次の世代に継承することができるかをじっくりと皆様と一緒に考えていくことが出来ればと心から願っています。

 今回の新型コロナウィルスの感染拡大のなかで、感染抑止のために末吉町教会としても大きな犠牲を払ってきました。3月末から5月末まで信徒参列によるミサを捧げることができませんでした。また、6月に入ってからも聖堂については木曜日と日曜日のミサの前後の時間のみ扉を開き、信徒会館は未だに封鎖されたままで、祈りの集いや講座、教会学校を中止としたままです。たとえ、このような困難な状況を経験したとしても、末吉町教会のこれまでの世代の皆さんが「天国の応援団」として、地上を生きる今の世代の私たち一人ひとりが信仰において主イエズス・キリストという土台に堅固に根差して、これからの世代に末吉町教会を通して神さまの恵みの豊かさを伝えていくことが出来るように取り次いでくださっていることに心を留めて歩んでいければと心から願っています。

 前回の記念誌は1996年発行でしたからそれ以来の24年間の歩みについて、皆様一人ひとりが関わってきた諸活動の歩みをまとめて下さると、これからの世代に末吉町教会に注がれた神さまの恵みの豊かさを生き生きと伝えていくことが出来ると思います。ぜひ、ご自宅でお過ごしになる時間が取れる今、皆様一人ひとりにお願いしたいのは、文章にまとめていただくことです。その文章を集めることで2年後の150周年には末吉町教会の150年の歩みを立体的に生き生きと記録に残すことが出来ると思います。

 主イエズス・キリストが「いつも」「共に」いてくださることを記憶に残し語り継ぐプロジェクトを末吉町教会の私たち一人ひとりが心を合わせて一緒に始めることが出来れば本当に素晴らしいですね。

いよいよ公開ミサを再開します

末吉町教会「街の灯」2020年6月号巻頭言

いよいよ公開ミサを再開します

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 末吉町教会では新型コロナウイルスの感染拡大を受けて3月28日(土)から聖堂閉鎖が始まり、政府による緊急事態宣言が延長されたこともあり、主日としては5月31日(日)聖霊降臨の祭日まで信徒の参列の無いミサを捧げてきました。この間、信徒の皆様には本当に大きな犠牲を払っていただきながら、社会の中で共に生きている人々の生命を守るために家に留まることで、大きな大きな「隣人愛」を実践していただくことが出来たことを本当に嬉しく思います。幸い、教会委員会の中で教会閉鎖が長期化する兆しが見えたときから、Youtubeでミサをライブストリーミング配信することについて準備を進めて頂くことが出来たことで、4月9日(木)聖木曜日の主の晩さんのミサから、画面を通してとはいえ、末吉町教会の皆様や港南教会の皆様、色々な方々と今日まで心を合わせて祈りを捧げながら「ステイホーム期間」を歩むことが出来ました。準備に当たって下さり、また、毎週のミサで配信作業をして下さった教会委員の皆様に心から御礼申し上げます。

 教会閉鎖が決まった日から、毎日、聖堂で末吉町教会、港南教会の皆さまのために、そして新型コロナウイルスによる肺炎や合併症からの恢復を心待ちにする全世界の患者さん、治療・看護にあたる医療従事者の方々、無念の死を遂げた方々、社会の中で大きな犠牲を払いながら感染拡大防止に協力した全ての人々のためにミサを捧げ、日々の時間を聖化する聖務日課の典礼の5つの時課を歌唱で捧げ、ロザリオの祈り、神のいつくしみのチャプレット、その他、連願の祈りやイエズス・キリストの至聖なる聖心への祈りや聖母マリアの汚れなきみ心への祈り等、信心業の祈りを捧げてきました。社会全体が先行きへの不透明感に覆われ、不安や不満が大きな渦になっていく様を見ている中で、イザヤ書の次の箇所を黙想しました。

【イザヤの預言32章15節~18節「神の霊の働き」】

32・15 ついに、我々の上に /霊が高い天から注がれる。 /荒れ野は園となり /園は森と見なされる。 /32・16 そのとき、荒れ野に公平が宿り /園に正義が住まう。/32・17 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。 /32・18 わが民は平和の住みか、安らかな宿 /憂いなき休息の場所に住まう。

 主イエズス・キリストが復活され昇天なさり、天の父である神の右の座、すなわち、宇宙の王としての玉座に着座なさったことで約束の霊、聖霊が私たち一人ひとりにも与えられました。この「高い天から」の霊は私たちの住む場所を、「荒れ野」から豊かな実りをもたらす「園」(ウルガタ訳聖書:Et erit desertum in hortum)へと変えてくださいます。新型コロナウィルスの感染拡大中の私たちの生活の場は、いわば「荒れ野」とも言える状況でした。この「荒れ野」という言葉、ラテン語のdeserta(デセルタ) は「de =~ない」と「serene(セレーネ)=つなぐ」という言葉が組み合わされて、「見捨てられた場所」=「他の何かとつながっていない場所」という意味から来ています。確かに、私たちはこれまでの日常では当たり前のように出かけたいところに出かけ、会いたい人に会うことが出来ていましたが、「ステイホーム」期間は出かけることを遠慮し、人と会うことも自粛していたことと思います。人間的な次元、社会的な次元だけを見るならば、私たちの生活全体が「荒れ野」になっていたと思います。私自身も、ミサではYoutube配信をして下さる教会委員の方と香部屋準備をして下さる方、侍者、先唱、朗読、詩編先唱をしてくれる青年など、ほんの少しの方としか会わない主日が続きましたし、聖母幼稚園も休園、栄光学園中高も休校、病者訪問は中止、船員司牧も中止、キリスト教講座、入門講座等も中止となっていて本当に人との出会いの少ない期間を過ごしていました。

 しかし、もし、私たちが祈りのうちに聖霊を迎え、自分の心の中心にある玉座に宇宙万物の王、パントクラトールであるイエズス・キリストに着座していただくことができるならば、私たちの生活の全ての瞬間が豊かな実りをもたらす「園」(=hortus、ホルトゥス)になるのだ、と預言者イザヤは教えています。そして、この「園」には正義が住まい、平和が造りだされ、安らかな信頼がとこしえに生み出されます。聖霊を迎えることで私たちに与えられる平和と安らかな信頼は、私たち一人ひとりがどんな場所にいても、たとえ一人でいる時間であっても常に私たちと共にあります。自分の生活の場で、深い神様への祈りに満たされる時間を過ごすとき、神様が与えて下さるのは平和のすみか、安らかな宿、憂いなき休息の場所です。

 まだまだ新型コロナウィルスの感染拡大は世界規模では終息に至っていません。この点で、色々な報道に接する時に不安や心配が生じることもあると思います。そのような時にこそ、聖霊によって私たちが深い安らぎを頂けることに心を向けて祈って頂ければと思います。預言者イザヤは次のような言葉も残しています。

【イザヤの預言33章2節~6節「救いを求める祈り」】

33・02 主よ、我らを憐れんでください。 /我々はあなたを待ち望みます。/朝ごとに、我らの腕となり/苦難のとき、我らの救いとなってください。 /33・03 どよめきの声によって、もろもろの民は逃げ /あなたが立ち上がられると、国々は散る。 /33・04 いなごが奪い去るように、戦利品を奪い去り /ばったが跳ねるように/人々はそれに飛びつく。/33・05 主は、はるかに高い天に住まわれ/シオンに正義と恵みの業を満たされる。 /33・06 主はあなたの時を堅く支えられる。 /知恵と知識は救いを豊かに与える。 /主を畏れることは宝である。

 「主はあなたの時を堅く支えられる」とイザヤは言います。私たちの生活の一瞬一瞬は神様によって堅く支えられていることを思い起こし、「主を畏れることは宝である」という信仰を心に抱きながら、「我々はあなたを待ち望みます」と朝毎に祈りながら一日を始めることが出来ると素晴らしいと思います。6月はイエズス・キリストの至聖なる聖心の月です。次のような伝統的な「呼禱(ことう)」を朝の祈りに付け加えることをお勧めします。

【呼禱】(『カトリック祈禱書』長崎大司教区 平成12年 24頁より)

至聖なるイエズスの聖心(みこころ)、▲我等をあわれみ給え。

心の柔和、謙そんなるイエズス、▲我等の心を聖心(みこころ)に肖(あやか)らしめ給え。

聖マリアの汚れなき聖心(みこころ)、▲我等の為に祈り給え。/大天使聖ミカエル、▲我等の為に祈り給え。/聖ヨゼフ、▲我等の為に祈り給え。/聖フランシスコ・ザベリオ、▲我等の為に祈り給え。/幼きイエズスの聖テレジア、▲我等の為に祈り給え。/日本の尊き殉教者、▲我等の為に祈り給え。

街ノ灯 編集 広報委員会より      (カトリック中央協議会 記事より抜粋)

6月はイエスのみ心の月 

イエスのみ心は全人類に対する神の愛の象徴としてイエスの心臓を表し、その信心はイエスのみ心に表される神の愛を思い起こし、その無限の愛のしるしであるみ心をたたえるものとして中世に始りました。特に聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-90)がみ心の信心についての啓示を受けて17世紀にフランスで広まりました。1675年6月16日、この聖女はご聖体を前にして、イエスの愛にこたえたいという思いに駆られました。そのときイエスは、愛情に燃えているみ心を示して、人々の間に存在する冷淡な心を嘆かれ、イエス自身の愛に倣ってその心を尊ぶことを勧められました。

またこのようなイエスの出現が数回にも及び、ご聖体の祝日(キリストの聖体)後の金曜日をみ心を礼拝する特別な祝日として定めるようにとのお告げにより、み心の信心の内容と形式が明確にされるようになりました。

そして1856年に教皇ピオ9世によってイエスのみ心の祭日がご聖体の祝日後の金曜日に全世界で祝うことが定められました。ご聖体み心の主日がおおよそ6月に祝われるというこのような歴史からして、次第に6月が「イエスのみ心の月」と自然に浸透し、制定されてきたことは十分に考えられます。

6 月・7 月中の主日のミサ順守義務の免除付与について

+主の平和 神奈川県では政府による緊急事態宣言が解除され、徐々に日常を取り戻す動きが出てきました。ただ、完全に新型コロナウィルスの感染拡大前の態勢にはすぐに戻すことができません。 そこで、末吉町教会の信徒の皆様には、7 月末日まで主日のミサ順守義務の免除を付与しま す。特に持病のある方、ご高齢の皆様については、ご自分の判断にお委ねしますが、例えば Youtube 配信での主日ミサに与りながら「霊的聖体拝領を求める祈り」を 7 月末までご自宅 で捧げていただければと願っています。

なお、本公布は、『新カトリック教会法典』の規定による主任司祭の権能行使となります。教 会法はラテン語が正本ですので、翻訳と正本とを以下に載せます。

教会法 1245 条: 第 87 条所定の教区司教の権利を妨げることなく,主任司祭は,正当な理 由の存するときは教区司教の規定に従って,個々の場合に守るべき祝日若しくは償いの日の順 守義務を免除し,又は他の信心行為をもってこれに替えることができる。聖座法による聖職者 会においては,修道会又は使徒的生活の会の上長も,自己の従属者及び昼夜その家に居住 する他の者に対して同様のことができる。

なお、守るべき祝日は『日本における教会法施行細則』に次のように定められています。 22)第 1246 条 2 項 日本における守るべき祝日 a)日本における守るべき祝日は、すべての主日、主の降誕の祭日、そして神の母聖マリアの祭 日である。

 【カトリック末吉町教会信徒への 6・7 月中の主日のミサ順守義務の免除付与】

私は、カトリック横浜司教区教区長から与えられたカトリック末吉町教会の主任司祭と しての教会法上の権能によって、カトリック末吉町教会に属する信徒の守るべき祝日のう ち、2020 年 6・7 月中の主日について順守義務を免除し、

1日曜日には、Youtube 配信でのミサに与り、「霊的聖体拝領を求める祈り」を捧げる 2「聖書と典礼」に記されている聖書のみことばを読み、味わい、主の祈りと以下の「霊 的聖体拝領を求める祈り」を捧げる 3ロザリオの祈りを1環捧げ、「霊的聖体拝領を求める祈り」を捧げる

上記の 3 つの選択肢のうちから一つを選ぶことをもって替えることが出来ることを宣言 します。当面の間、主日ミサについて、Youtube の「末吉町 教会公式」チャンネルで公式にライブ配信いたします。

【霊的聖体拝領の祈】(『カトリック祈祷書』カトリック長崎大司教区 平成 12 年)

イエズス・キリスト、われは主が至聖なる聖体の秘蹟のうちにましますことを固く信じ、万事に 超えて主を愛し、主を受け奉(たてまつ)らんことを望む。されど、今聖体を拝領すること能(あ た)わざれば、霊的にわが心に降(くだ)り給(たま)え。主よ、われ主を受け奉(たてまつ)りし 如(ごと)く、主によりすがりて、わが身を全く主に一致せしめ奉(たてまつ)る。願わくは主を離 るるを許さず、悪魔のわなより救い給(たま)え。わが心に主の愛の火を点じ、永遠に主の御た めに燃ゆるを得しめ給(たま)え。アーメン。

以上

末吉町教会の皆様へ

 新型コロナウィルスの感染拡大が収まらず、聖堂で皆が集まってミサをお捧げすることが出来ない日が続いていますが、皆さまと心を合わせて週日も毎日ミサをお捧げし、主日はYoutube 配信でミサをお捧げしています。この大変な時期にこそイエズス・キリストの至聖なる聖心からあふれ出る「神のいつくしみ」に信頼を置いて、多くの犠牲を払っている日本中の方々に神さまの慰めと励ましが届くように私たちの祈りをお捧げいたしましょう。5月はロザリオの月ですので、ご家庭でも毎日お捧げ下さい。教会でお会いできる日を心待ちにしています。                                                      

                                                                                    

以上

教皇フランシスコは、五月の「聖母月」を前に、すべての信者に宛て、ロザリオの祈りを奨励する書簡をおくられた。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

五月はもうすぐそこです。五月には、神の民は特別な熱心さをもって、おとめマリアへの愛と崇敬を表します。家において、家族で唱えるロザリオの祈りは、この月の伝統となっています。パンデミックによる強いられた状況により、はからずも見出されたこの家庭の価値は、霊的な観点からも認められるものです。

こうしたことから、わたしはすべての皆さんに、この五月、ロザリオの祈りの素晴らしさを家で再発見するよう、おすすめしたいと思いました。ロザリオを一緒に唱えても、あるいは一人で唱えてもいいでしょう。どちらの可能性も大切にしながら、その時々の状況に応じて選んでください。いずれにしても、ロザリオの祈りをするには秘訣があります。それは、単純さです。もう一つは、祈りを行うための良いパターンを見つけることです。それはインターネットでも見つけられるでしょう。

さらに、わたしは皆さんに聖母に対する二つの祈りを用意しました。これらをロザリオの終わりに唱えることができるでしょう。わたし自身も、皆さんと霊的に一致して、五月にこれを唱えたいと思います。皆が唱えられるよう、この二つの祈りをこの書簡に添えたいと思います。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、キリストの御顔を、マリアの心をもって共に観想しましょう。わたしたちの母であるマリアは、わたしたちを霊的家族としてより一致させ、わたしたちがこの試練を乗り越えられるように助けてくださるでしょう。わたしは、最も苦しむ人をはじめ、皆さんのためにお祈りしたいと思います。皆さんもどうかわたしのためにお祈りください。心からの感謝と共に、皆さんに祝福をおくります。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ、2020年4月25日

聖マルコ福音記者の祝日に

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聖母への祈り1

マリアよ、

あなたは救いと希望のしるしとして

わたしたちの歩みを照らしてくださいます。

あなたに病者たちの健康を託します。

あなたはイエスと苦しみを共にされ

揺るがぬ信仰をもって

十字架の下に留まられました。

ローマ人の救いである、マリアよ、

あなたはわたしたちの必要を知り

それに配慮してくださることを

わたしたちは確信しています。

ガリラヤのカナでの出来事のように

この試練の時を経て

喜びと祝祭が戻りますように。

神の愛の御母よ、助けてください。

わたしたちが御父の御旨にかなう者となり

イエスがお命じになることを行えますように。

イエスはわたしたちの苦しみを引き受け

わたしたちの苦悩を自らに背負われました。

十字架をとおして

わたしたちを復活の喜びに導くために。

 アーメン。

聖なる神の御母よ、

あなたの御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

試練の中にあるわたしたちの祈りをさげすまないでください。

栄光ある、祝福されたおとめよ、

わたしたちをあらゆる危険から守ってください。

聖母への祈り2

「聖なる神の御母よ、御保護に寄りすがり、御助けを求めます。」

全世界を揺さぶる、この苦しみと不安に満ちた劇的状況の中で、神の御母、わたしたちの母よ、あなたの御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

おとめマリアよ、このコロナウイルスの拡大の中で、わたしたちにいつくしみ深い御まなざしを注いでください。愛する者を亡くし、ぼう然とし、悲しむ人々を慰めてください。これらの亡くなった方々は、時には痛ましい方法で埋葬されました。

感染防止のために病者のそばにいられず、苦悩する人々を支えてください。不確かな未来と、経済と仕事への影響のために、不安の中にいる人に信頼を与えてください。

神の御母、わたしたちの母よ、わたしたちのために、いつくしみ深い御父にお祈りください。このつらい試練が終わり、希望と平和を再び未来に見出せますように。カナであなたがそうなさったように、神なる御子にお願いしてください。患者や犠牲者の家族を励まし、彼らの心を信頼へと開いてくださるようにと。

医師や、看護師、医療関係者、ボランティアたちをお守りください。彼らはこの危機の中第一線に立ち、他の人々のいのちを救うため、自分のいのちを犠牲にしています。彼らの英雄的な努力を支え、彼らに力と愛と健康をお与えください。

朝晩、患者を見守る人たちや、司祭たちに寄り添ってください。彼らは、司牧的配慮と福音的努力のために、皆を助け、支えようとしています。

聖なるおとめよ、科学者たちの精神を照らし、このウイルスに勝つための正しい方法を見出させてください。

国々の責任者たちを支えてください。彼らが賢明と配慮と寛大さをもって、生活の必要に事欠く人々を助け、先見の明と連帯精神のもとに、社会・経済的解決策を計画できますように。

至聖なるマリアよ、軍備拡張と増強のための莫大な費用が、未来の同様の災害を防止するための正しい研究促進に向けられるよう、彼らの良心に触れてください。

愛する御母よ、すべての人を結ぶきずなの自覚のうちに、わたしたちがただ一つの大きな家族に属しているという意識を、世界に育ててください。わたしたちが兄弟愛と連帯の精神をもって、多くの貧困と悲惨な状況を助けることができますように。信仰に固くとどまり、忍耐強く奉仕し、絶えず祈ることができますように。

苦しむ人の慰め手なるマリアよ、試練にあるあなたのすべての子らを抱擁し、神がその全能なる御手をもってわたしたちをこの恐ろしい感染症から解放してくださり、そして、わたしたちが安心のうちにいつもの生活を取り戻せるよう、どうか神にお祈りください。

わたしたちは、あなたにより頼みます。あなたはわたしたちの歩みを救いと希望のしるしとして照らしてくださいます。いつくしみ深き、慈悲あふれる、優しきおとめマリアよ。

アーメン。

【霊的聖体拝領の祈】

(『カトリック祈祷書』カトリック長崎大司教区 平成12年)

 イエズス・キリスト、われは主が至聖なる聖体の秘蹟のうちにましますことを固く信じ、万事に超えて主を愛し、主を受け奉(たてまつ)らんことを望む。されど、今聖体を拝領すること能(あた)わざれば、霊的にわが心に降(くだ)り給(たま)え。主よ、われ主を受け奉(たてまつ)りし如(ごと)く、主によりすがりて、わが身を全く主に一致せしめ奉(たてまつ)る。願わくは主を離るるを許さず、悪魔のわなより救い給(たま)え。わが心に主の愛の火を点じ、永遠に主の御ために燃ゆるを得しめ給(たま)え。アーメン。

ロザリオの祈りの唱え方

 “ロザリオ”を使って祈ります。

15玄義は、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義の3環で、1環は5連からなっています。

1連ごとに、まず玄義をとなえ、次に「主の祈り」を1回、「アヴェ・マリアの祈り」を10回、栄唱を1回唱えます。

『主の祈り』(聖公会/ローマ・カトリック共通 )

     天におられるわたしたちの父よ、

     み名が聖とされますように。

     み国が来ますように。

     みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

     わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日も お与えください。

     わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

     わたしたちを誘惑におちいらせず、

     悪からお救いください。

     アーメン

アヴェ・マリアの祈り

    アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、

    主はあなたとともにおられます。

    あなたは女のうちで祝福され、

    ご胎内の御子イエスも祝福されています。

    神の母聖マリア、

    わたしたち罪びとのために、

    今も、死を迎える時も、お祈りください。

    アーメン。

天使祝詞

    めでたし、聖寵みち満てるマリア、

    主、御身とともにまします。

    御身は女の内にて祝せられ、ご胎内の御子イエスも祝せられたもう。

    天主の御母聖マリア、

    罪びとなるわれらのために、今も臨終のときも祈りたまえ。アーメン。

伝統的な栄唱

    願わくは、父と子と聖霊とに栄えあらんことを。

    初めにありしごとく、今も、いつも、世々に至るまで、アーメン。

ロザリオの祈り-(2)

 ロザリオは、マリアの心をとおして、救い主キリストの心につながることを願うお祈りです。まず、マリアの心に満ちていた深い信仰と強い愛を込めて、キリストの救い主の神秘をたどっていきます。そして、マリアのご保護のもとにキリストの救いにあずかることを目指して進みます。そのために、キリストの母であり、また、私たちの母であるマリアによって、キリストの父なる神のいつくしみを祈り求めます。救い主の母によって救い主にいたること、ここにロザリオの祈りの最も深い意味があるのです。

喜びの玄義

第1の神秘

 「恵まれた者よ、喜びなさい。主は、あなたと共におられる。」  大天使ガブリエルは、おとめマリアに、神の御子が人となってこの世に来られること、そして、マリアが神の御母に選ばれたことを告げます。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、へりくだってそれをお受けになりました(ルカ1.26~38参照)。

 神と人との美しい出会いは、マリアによって全うされました。わたしたちが置かれている毎日の生活の場で、いろいろな出来事をとおして、神は語りかけてくださいます。わたしたちも、マリアとともに「はい」と応え、この日本の地において、神が計画しておられる救いの業に協力し、人々に喜びの知らせをもたらすものとなれますように。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第2の神秘

 おとめマリアは、エリザベトを助けるために、急いで彼女のもとに行かれます(ルカ1.39~40参照)。

 マリアは、ご胎内の御子とともにエリザベトのもとに急ぎ、救い主がこの世に来られる“喜び”を、お知らせになりました。

 本当の喜び、それはマリアのように、キリストの福音を人々に伝えることです。マリアのように、愛の行いをもって、キリストの喜びを証しするものとなれますように。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第3の神秘

 イエスは、ベトレヘムの岩屋で、貧しさのうちにお生まれになります(ルカ2.6~7参照)。

 見えない神のはかり知れない愛は、か弱い幼児となって、この世に来られました。虐げられ、声をあげても聞かれない無抵抗の人々の中に、キリストは希望の星として、今日もお生まれになります。

 わたしたちが、互いに一人ひとりを大切にしあって生きていくようにと、馬ぶねの幼児は、語りかけておられるのです。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第4の神秘

 マリアは、イエスを神殿にささげ、清めの掟に定められたことを、すべて果たされます(ルカ2.22~39参照)。

 世界中のどこの国の人でも、季節の最初の実り、初穂を神にささげ、恵みへの感謝のしるしとしました。

 マリアとヨゼフは、御父がわたしたちにくださった、最高の贈り物である幼子イエス・キリストを、神なる父におささげしたのです。マリアに倣い、わたしたちも、今日のまごころと精一杯の働き、愛の行いを、主にささげましょう。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第5の神秘

 少年イエスは、3日間、神殿で学者たちの間にとどまり、彼らに耳を傾け、御父のことについてお尋ねになります(ルカ2.41~51参照)。

 マリアとヨセフは、少年イエスを神殿の中で見つけました。わたしたちも、キリストが見えなくなったとき、マリアのように、キリストを探さなければなりません。そして、キリストとともに留まり、神殿の中の少年イエスに倣って、神を探し求める人々との話に耳を傾け、それによって、人々との出会いを深めていくことができますように。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

苦しみの玄義

 今ある日本の教会の「礎」は、キリストの信仰を身をもって証しした、日本の数多くの殉教者たちによって、築かれたものです。宣教師不在の220有余年にわたるキリシタン弾圧下にあって、隠れキリシタンたちは、ひそかにコンタツ(ロザリオ)を繰りながら、サンタマリアに御助けを願いました。お互いに支え合い、励ましあって、信仰を守り続けてきたのです。

第1の神秘

 ゲッセマニの園で苦しみもだえ、御父に祈られるイエスの汗は、血のしずくとなって、地にしたたり落ちました(ルカ22.39~46参照)。

 十字架の刑を前にして、イエス・キリストの苦しみは、血の汗となって流れます。それは、わたしたち人間が犯し続ける罪の大きさ、善の向こうに、鈍い“人間の業”の強さをあらわしています。殉教者の聖母に、あわれみのとりなしを願いましょう。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第2の神秘

 ピラトは、群衆のきげんをとろうと思って盗賊を釈放し、イエスをムチ打たせました(マルコ15.15参照)。

 無実、潔白のキリストは、わたしたちの罪を償うために、ムチ打たれます。「主よ、あなたにムチ振るう、わたしたちの罪深さを赦してください。」  キリストに従った、日本の殉教者たちの強い信仰にならい、わたしたちも、苦しむ人の苦しみを、悩む人の悩みを背負ってムチ打たれ、人々に苦しみの 真の意味と慰めをもたらすものとなれますように。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第3の神秘

 イエスは茨の冠をかぶせられ、葦の棒でたたかれ、つばきされてあざけりを受けられます(マルコ15.17参照)。

 自分を神に等しいものとして、神をないがしろにする人間の傲慢を、キリストは「茨の冠」で償われます。この世の名誉と権力、黄金の冠ではなく、キリストの人々への愛ゆえに戴く、苦しみと侮辱の茨の冠、真の意味を、わたしたちに悟らせてください。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第4の神秘

 イエスは、死の宣告を受けた後、重い十字架を担って、カリワルオへと登られます(ルカ23.26~33参照)。

 キリストとともに、十字架を担うものとなった日本の殉教者たちの信仰と愛は、神の栄光の勝利となり、現代の日本の教会に恵みをもたらすものとなりました。今、わたしたちが担う十字架も、明日の教会に恵みをもたらすものとなりますように。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第5の神秘

 イエスは、永遠の滅びからわたしたちを救うため、十字架につけられ、3時間の御苦しみの後、亡くなられます(マルコ15.23~41参照)。

 人間の罪をあがなうキリストの十字架の死は、わたしたち人類に永遠のいのちの恵みと喜びをもたらしました。

 自分の「我(エゴ)」に死に、他者への奉仕に生きることによってのみ、見出すことのできる「人生の真の意味」を、わたしたちに悟らせてください。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

栄えの玄義

 復活のイエスは、すべての人に希望を与える存在であり、すべての人を包み、すべての人の人生を背負って歩んでくださる方です。一人ひとりを愛し、一人ひとりの人生の苦しみを理解し、一人ひとりの人生を大事にするために来られて、そのために十字架につけられたのです。イエスと一緒の人生は、わたしたちにとって希望であると同時に、さらに大きな希望、イエスとともに復活するという世界が保証されているということです。

第1の神秘

 イエス・キリストは、栄光のうちに墓から復活されます。この復活は、わたしたちの霊的復活をかたどるものです(マタイ28.1~15参照)。

 キリストが御父の栄光によって、死者のうちから復活されたように、洗礼の恵みを受け、わたしたちも、また、新しいいのちを生きるようにと招かれています。わたしたちの日々の歩みの上に、聖母の御助けを願いましょう。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第2の神秘

 救い主イエスは、栄光と勝利のうちに昇天されます(マルコ16.19参照)。

 神は、わたしたちに、イエス・キリストに一致して生きる永遠のいのちをお恵みくださいました。わたしたちが、地上の名誉、富、快楽に心を奪われて、大切ないのちの尊さを見失うことのないように、心を高くあげて生きていくことができるよう、恵みを願いましょう。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第3の神秘

 聖霊は使徒たちの上に降り、彼らを照らし、強め、聖化なさいます(使徒2.1~4参照)。

 「わたしたちを強くしてくださるキリストによって、わたしはどんなことでもできる」(フィリピ4)と言った聖パウロの信仰に倣い、わたしたちも聖霊のたまものをいただいて照らされ、強められ、新しい生き方で主に仕えることができるように祈りましょう。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第4の神秘

 聖母マリアは、地上の生活を終え、栄光に包まれて天にあげられます(ルカ1.52、教会憲章59参照)。

 神の救いの計画の協力者として、その生涯をキリストとともにまっとうされたマリアに倣い、わたしたちも、神の愛のうちに死ぬことができる恵みを願いましょう。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

第5の神秘

 マリアは、天と地の女王、すべての恵みの取り次ぎ手、わたしたちの最も愛する御母として栄冠をお受けになります(黙示録12.1参照)。

 マリアは、使徒たちの母として、彼らを教え導き、温かい助けの手を差しのべられました。わたしたちも、現代社会の人々のさまざまな苦しみに、マリアとともに、母の心をもって関わり、その苦しみを自分の祈りとして、人々とともに生きていくことができますように。

主の祈り(1回)   アヴェ・マリアの祈り(10回)   栄唱(1回)

*ロザリオの祈り  の記事は 女子パウロ会のhp記事を抜粋しました。

四旬節が始まりました

末吉町教会「街の灯」2020年3月号巻頭言

四旬節が始まりました

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 2月26日(水)の灰の水曜日から今年も四旬節が始まりました。末吉町教会では19:30から英語ミサの式文で中国語と日本語を用いた国際ミサに250名を超える方々が与り、昨年の枝の主日の際に祝福された枝を燃やし、灰の水曜日のミサの中で祝福された灰を「回心して福音を受けなさい」という言葉と共に額に受け、四旬節の歩みを始められました。なお、今年は、私自身は栄光学園での授業の後で中高生と灰の水曜日のミサを捧げましたしには港南教会で50名ほどの方々と祈りを捧げました。ちなみに、司祭は週日には1日2回まで教会法上ミサ執行が許されていますので、3回のミサを司式するために横浜教区長司教である梅村司教様から個別許可を頂きました。

 さて、新型コロナウィルスの感染拡大を巡って全国各地で色々な対策が行われています。カトリック教会においても例外ではありません。2020年2月28日付で公表されたカトリック横浜教区 教区長 梅村昌弘司教様の「新型コロナウィルス対応について」と題する声明では、以下の5項目が示されました。

1. 教区として、全教会のミサ、特に主日のミサを一律に中止するというような指示はいたしません。横浜教区は4県にわたっており、小教区の置かれている状況もさまざまです。それぞれの現場での判断におゆだねします。言うまでもなく、衛生対策は十分行なってください。

2. 体調がすぐれない方はミサへの参加をお控えください。またご高齢の方、持病をお持ちの方も無理なさらないでください。

3. 同じく、体調不良、またはご高齢や持病をお持ちの神父様方も、無理せずミサの挙行をお控えください。

4. 主日のミサの義務を免除する権限は各司祭に与えられておりますが、改めて教区長として義務からの免除をいたします。

5. そのほか個人としてまた共同体として、賢明かつ冷静に対応してください。

教区長声明の4項における主任司祭の権限は次の『新カトリック教会法典』の規定によります。

教会法1245条: 第87条所定の教区司教の権利を妨げることなく,主任司祭は,正当な理由の存するときは教区司教の規定に従って,個々の場合に守るべき祝日若しくは償いの日の順守義務を免除し,又は他の信心行為をもってこれに替えることができる。聖座法による聖職者会においては,修道会又は使徒的生活の会の上長も,自己の従属者及び昼夜その家に居住する他の者に対して同様のことができる。

 なお、守るべき祝日は『日本における教会法施行細則』に次のように定められています。

22)第1246条2項 日本における守るべき祝日

a)日本における守るべき祝日は、すべての主日主の降誕の祭日、そして神の母聖マリアの祭日である。

 私は、カトリック横浜司教区教区長から与えられたカトリック末吉町教会の主任司祭としての教会法上の権能によって、カトリック末吉町教会に属する信徒の守るべき祝日のうち、3月中の主日について順守義務を免除し、日曜日に、「聖書と典礼」に記されている聖書のみことばを読み、味わい、主の祈りと以下の「霊的聖体拝領を求める祈り」を捧げることを持って替える、もしくはロザリオの祈りを1環捧げることをもって替えることが出来ることを宣言します。

体調に少しでも不安のある方は、たとえ、教会でミサが捧げられる主日であっても、3月中についてはミサ参列の義務は免除されていますので、ご自宅に留まり、健康維持を最優先にして下さい。

【霊的聖体拝領の祈】(『カトリック祈祷書』カトリック長崎大司教区 平成12年)

 イエズス・キリスト、われは主が至聖なる聖体の秘蹟のうちにましますことを固く信じ、万事に超えて主を愛し、主を受け奉(たてまつ)らんことを望む。されど、今聖体を拝領すること能(あた)わざれば、霊的にわが心に降(くだ)り給(たま)え。主よ、われ主を受け奉(たてまつ)りし如(ごと)く、主によりすがりて、わが身を全く主に一致せしめ奉(たてまつ)る。願わくは主を離るるを許さず、悪魔のわなより救い給(たま)え。わが心に主の愛の火を点じ、永遠に主の御ために燃ゆるを得しめ給(たま)え。アーメン。

さて、フランシスコ教皇聖下は、2019年10月7日ロザリオの聖母の記念日にあたり、2020年『四旬節教皇メッセージ』を「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(二コリント5・20)というテーマで公布なさいました。このメッセージの中で教皇様は次のように四旬節を説明しています。

【2020年四旬節教皇メッセージ】

イエスの死と復活という偉大な神秘を新たな心で記念するために備えるのにふさわしい季節を、主は今年もまた、わたしたちに与えておられます。この神秘こそが、個人、共同体としてのキリスト者の生活の礎です。わたしたちは心と思いを尽くして、絶えずその神秘に立ち返らなければなりません。わたしたちがその霊的な力にすすんで関わり、広い心で自由に応えて受け入れるほど、その神秘はわたしたちのうちで広がり続けます。

私たちにとって、四旬節はミサの際に心を合わせて祈る「司祭:信仰の神秘」「会衆:主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」という応唱で祈っている神の救いのわざを自分の生活の基礎に改めて据える祈りの歩みであることが分かります。教皇様は、この歩みは喜びのうちに行われることだとして、次のように説明しています。

【2020年四旬節教皇メッセージ】

1. 過越の神秘、それは回心の基盤

キリスト者の喜びは、イエスの死と復活の良い知らせ、すなわちケリュグマを聞いて受け入れることから生じます。ケリュグマは、「本物で、真実で、具体的なので、正直で豊かな対話に満ちた関係をもたらしてくださる」(使徒的勧告『キリストは生きている』117)愛の神秘を要約しています。この知らせを信じる人は、自分のいのちの源は自分自身にあるという偽りを退けます。いのちはまさに御父の愛から、いのちを豊かに与えたいという御父のみ旨からこそ生じます(ヨハネ10・10参照)。けれども、「偽り者の父」(同8・44参照)がそそのかす声に耳を傾けるなら、不条理の深淵に陥り、この地上ですでに地獄を見る恐れがあります。人間が個人として、集団として経験したあまりにも多くの悲劇的な出来事が、痛ましくも物語っているとおりです。

ですからこの2020年の四旬節にあたり、わたしは使徒的勧告『キリストは生きている』の中で若者に向けて記したことを、あらゆるキリスト者と分かち合いたいと思います。「十字架につけられたキリストの広げた腕を見つめなさい。幾度も幾度も繰り返し救っていただきなさい。そして自分の過ちを告白しようとするときは、罪の憂いから解き放ってくださるキリストのあわれみを、固く信じてください。深い思いがこもった流れるその血をじっと見つめ、その血で清めていただきなさい。そうすればあなたは、つねに新たにされるでしょう」(123)。イエスの過越は過去の出来事ではありません。聖霊の力によって、つねに今ここにある出来事です。そして、わたしたちが苦しんでいる多くの人々のうちに、信仰によってキリストのからだを見て触れられるようにしてくれるのです。

 フランシスコ教皇様の眼差しは、人間の命の源として、天の父である神の人間への豊かな愛の神秘へと向けられています。私たちもまた、教皇様と思いを一つにして十字架につけられたイエズス・キリストを見つめるように招かれています。イエズス・キリストのこの十字架上の痛みと苦しみは、フィリピの教会への手紙の中で次のように描かれています。

【使徒パウロのフィリピの教会への手紙2章1節~11節】

あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

イエズス・キリストの十字架上の犠牲は「自己無化」(ギリシア語でケノーシス)と呼ばれます。それは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」、「他人のことにも注意を払」う生き方です。そして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にすることによって、自分と共に生きている人々に対して、神からの慈しみと憐れみをもたらす生き方です。

このような生き方を目指す際に重要な点として、教皇様は次のことを説明なさっています。

【2020年四旬節教皇メッセージ】

2.回心の緊急性

過越の神秘をより深く観想することは、皆さんのためになることです。神のいつくしみは、その神秘を通して与えられるのです。「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)かた、十字架につけられ復活した主と「顔と顔を合わせ」てはじめて、神のいつくしみを味わうことができます。それは心と心との対話、友と友との対話です。ですから祈りが、四旬節においてとりわけ重要なのです。祈りは、義務というよりはむしろ、つねにわたしたちに先立ち、わたしたちを支えてくださる神の愛にこたえる必要の表れです。キリスト者は現に、身に余るほどに愛されていることを自覚しつつ、祈りをささげています。祈りにはさまざまなかたちがありますが、神の目から見て真に大切なことは、祈りがわたしたちの心の奥を深く掘り下げ、心のかたくなさを和らげているかどうかです。それによりわたしたちは、よりいっそう神とそのみ旨へと向かう回心ができるのです。

素晴らしい回心の歩みとなる四旬節を過ごすことが出来ると素晴らしいですね。

 

フランシスコ教皇様による「神のことばの主日」の制定

末吉町教会「街の灯」2020年2月号巻頭言

フランシスコ教皇様による「神のことばの主日」の制定

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 2020年が始まって、早くも1か月が過ぎました。アジア圏では旧正月を迎えて、新年のお祝いの熱気に満たされました。末吉町教会には中国共同体があり、「春節(春)」を1月25日(土)にお祝いし、韓国共同体では「ソルナル(설날)」のお祝いを1月26日(日)に行い、ベトナム共同体も1月26日(日)に行いましたまた、主任司祭を兼任している港南教会のベトナム共同体でも、ベトナムの「旧正月」である「Tết」(テト:漢字では「節」)のお祝いを2月1日(土)の夕方に行いました。

 このように、新しい年をアジア圏ではお祝いするときにあたり、フランシスコ教皇様は新しい主日のお祝いを制定なさいました。昨年の聖ヒエロニムスの記念日である2019年9月30日に、自発教令形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を公布なさり、その中ではカトリック中央協議会の解説によると以下の点が強調されているそうです。

年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。また、「神のことばの主日」は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる」よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります。

( https://www.cbcj.catholic.jp/2020/01/24/20015/ )

 2020年の年間第3主日は1月26日ですが、この日から毎年、年間第3主日には「神のことばの主日」のお祝いが始まります。では、フランシスコ教皇様は何故、聖ヒエロニムスの記念日にこのお祝いを制定する使徒的書簡を公布なさったのでしょうか。

 聖ヒエロニムスは、エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus)という名前で、347年頃に現在のクロアチアのアドリア海沿岸のダルマティアで生まれました。イタリアの対岸というとイメージしやすいでしょうか。最初は修辞学と哲学を修め、ギリシャ語を学び、古典研究を行っていましたが、シリアの砂漠で隠遁生活(=修道生活の一形態)を行いながら、ヘブライ語を学びました。378年に司祭に叙階され、コンスタンティノポリスの町で、ナジアンゾスの聖グレゴリオス司教(378年コンスタンティノポリス大主教就任)と出会い、382年にはローマに赴いてダマスス1世教皇様と知り合い、徴用されるようになりました。そして、ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を出版すべく翻訳に取り掛かり始めます。聖ヒエロニムスは旧約聖書はヘブライ語版およびアラム語版からラテン語に翻訳しています。

 384年のダマスス1世教皇様の帰天を受けて聖ヒエロニムスは聖地エルサレムに向かい、その後、ベツレヘム、エジプトを経てベツレヘムに落ち着くと、405年頃にはVulgata(ウルガタ)訳聖書を完成させます。この聖書こそが1600年以上に渡ってカトリック教会の”Sacra Scriptura”(サクラ・スクリプトゥーラ=聖書)の規範版とされています。ちなみに、”Vulgata”とは、「公布されたもの」という意味のラテン語です。この聖書がカトリック教会によって公式版聖書として公布されたものであることを示す名前でもあります。

 カトリック教会の公式聖書を完成させた聖ヒエロニムスの記念日に使徒的書簡をもって「神のことばの主日」の制定をフランシスコ教皇様が公布なさったことは大変意義深いことです。なお、ヒエロニムスは英語ではSt. Jeromeと標記します。

 さて、フランシスコ教皇様の使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』の中では次のような言葉をもって「神のことばの主日」の制定が宣言されています。

【アペルイット・イリス】

3項: したがって、わたしはこの文書によって年間第三主日を、神のことばを祝い、学び、広めることにささげることを宣言します。この「神のことばの主日」は、わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです。

それぞれの共同体は、ある程度の荘厳さをもってこの主日を特徴づけるための、自分たちにふさわしい方法を見つけていくことでしょう。しかし大切なことは、神のことばの規範としての価値に会衆の注意を向けさせるために、聖書のことばがミサにおいて賛美されることです。この日曜日には、主のことばを告げ知らせることを際立たせ、説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調するのが、とくにふさわしいといえるでしょう。司教たちは、典礼における神のことばの告知の重要性を明らかにするために、朗読奉仕者の選任式、あるいは朗読者を任命するための類似した式を執り行うことができるでしょう。この点について、みことばの真正な朗読者となるために必要な養成を信者に提供するために、新たな試みがなされるべきです。このことは、すでに祭壇奉仕者あるいは聖体拝領のための臨時の奉仕者の場合には行われています。司牧者たちは、聖書をどのように読み、味わい、そして日常的にどのように聖書とともに祈るかを学ぶ重要性を示す手段として、聖書あるいは聖書の中の一つの書物を全会衆に与える方法を見つけることもできます。とくに、「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)」の実践を通して、そうすることができます。

このフランシスコ教皇様の指摘から明らかとなるのは、みことば、つまり聖書を通して示される神様の「みことば」が私たちの生活の「規範」として重要な価値を持つことが示され、ミサの中で賛美されることの大切さです。そして、臨時の朗読者である信徒たちについても、臨時の聖体奉仕者の任命式と同じような任命式を司教が行うこともできることが提示されました。この点については、今後、横浜教区典礼委員会で取り組みが始まることが期待されます。この点から明らかとなるのは、ミサの中で「みことば」を告げ知らせること、つまり、第1朗読や第2朗読の聖書を朗読することや答唱詩編の詩編を歌唱することは大変大きな栄誉であるとともに、重大な責務であることです。朗読奉仕をして下さる皆様、また、詩編唱者をして下さる皆様がこれまで以上に心を込め、祈りを込め、ミサに与る全員に、神さまの慈しみと愛に満ちた「みことば」を告げてくだされば素晴らしいと思います。

フランシスコ教皇様は、同文書の5項の中では説教について次のように指摘しておられます。

【アペルイット・イリス】

5項: 聴くことによって生まれるこの一致の中で、まず司牧者たちが聖書を解説しすべての人がそれを理解するように助ける責任を担っています。聖書は神の民の本ですから、ことばの奉仕に呼ばれている人々は、それが自分たちの共同体にとって身近なものとなるようにする緊急の必要性を感じなくてはなりません。

とくに、説教には独特な役割があります。なぜなら、それは「秘跡的ともいえる性格」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』142)をもっているからです。簡潔でふさわしいことばを通して人々が神のことばにより深く入っていけるよう助けることは、司祭たち自身が「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見することを可能にします。これは無駄にしてはならない司牧的な機会です!

実際、多くの信者にとってはこれが、神のことばの美しさを理解し、それが日常生活にどのようにあてはめられるか分かる唯一の機会なのです。ですから、説教の準備のために十分な時間をささげなければなりません。聖書朗読の解説は即興的であってはならないのです。わたしたちの中で、説教者の役割を担っている者は、長くて知識をひけらかすような説教をしてはいけませんし、関係のない話題へと話がそれていくことがあってはなりません。聖書のことばについて祈り、黙想する時間を取るなら、わたしたちは、何が大切で 実を結ぶことができるものであるかを伝えるために心から語ることができますし、それによってわたしたちに耳を傾ける人々の心に届けることができるのです。聖書が「人の言葉としてではなく、神の言葉として」(Ⅰテサロニケ 2・13)受け入れられることができるようになるために、わたしたちが倦むことなく聖書のために時間と祈りをささげることができますように。

カテキスタもまた、信仰において成長するために人々を助けるという自分たちの務めにおいて、聖書に親しみそれを研究することを通して、個人を刷新していく緊急の必要性を感じなければなりません。このことは、彼らに耳を傾ける人々のうちに神のことばとの真の対話を育てていく手助けになります。

フランシスコ教皇様は、「みことば」を説き明かす務めを有する司牧者についてまずは語っています。これは、私自身のことも当てはまりますし、また、今春、助祭叙階を受けてからのミサでは”Homilia”(ホミリア=「説教」)を行うようになる上杉神学生(その時には、上杉助祭様ですね)にも当てはまります。

そして、カテキスタ達につても言及があります。ここでいうカテキスタとは末吉町教会の現状に照らして考えてみると、教会学校リーダーや各言語共同体の幼児洗礼のためのご両親への準備セミナー担当者や結婚準備のセミナー担当者などのことも含むことがわかります。信仰において成長するために子どもたちを助けるという務めにおいて、また、幼児洗礼を望むご両親の心構えを固めるため、結婚を望む二人のために婚姻のひせきの恵み豊かさを伝える務めのためにおいて、まずは自分自身の「みことば」に向き合う姿勢の刷新を行うことを通して、より豊かに神様の恵みに触れ、神さまの恵みに満たされて人生を歩むことを心から望んでいる人々にもそれを伝えることが出来るようになるからです。

フランシスコ教皇様は「みことば」を心に向かえる私たち一人ひとりの旅路において、マリア様が共にいて下さることを次のよう説明しておられます。

【アペルイット・イリス】

15項: 神のことばをわたしたちの心に迎えるための旅路において、神の母はわたしたちに同伴してくださいます。主が自分に語ったことが実現すると信じたがゆえに、マリアは幸いな方と呼ばれました(ルカ 1・45 参照)。イエスによって宣言されたすべての幸い、つまり貧しい人々、悲しんでいる人々、柔和な人々、平和を実現する人々、そして迫害されている人々の幸いよりも先に、マリア自身の幸いがあります。なぜなら、それは他のすべて の幸いの必要条件だからです。貧しい人々は、貧しいから幸いなのではありません。彼らがマリアのように神のことばが実現することを信じるなら、彼らは幸いな者となるのです。 聖書の偉大な弟子であり教師でもあった聖アウグスティヌスは、かつて次のように書きました。「熱狂にとらわれて、群衆の中のある人が叫びました。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎[は]。』 イエスは答えました。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』 (同 11・27-28)。イエスはこう言っているかのようです。『あなたがたが幸いだと呼んでいるわたしの母は、神のことばを守っているから本当に幸いである。 彼女のうちでみことばが肉となり、わたしたちの間に宿られたからではなく、彼女が同じ神のことばを守ったからである。そのことばによって彼女は造られ、そのことばが彼女の胎で肉となったのである』」(『ヨハネ福音書講話』Tractus in Ioannis Evangelium,10, 3)。

神の民が聖書との敬虔で親密な関係において成長していくよう、神のことばの主日が彼らを助けるものとなりますように。かつて、聖なる著者が、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことができる」(申命記 30・14)と教えたように。

2019 年 9 月 30 日、聖ヒエロニモの記念日、その没後 1600 周年の始まりに    

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

                                 フランシスコ

フランシスコ教皇様は、「マリアのように神のことばが実現することを信じるなら、彼らは幸いなものとなるのです」と教えて下さっています。そして、申命記を引いて、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことができる」(申30・14)と励まして下さています。

旧正月を迎えて大きな喜びのうちにあるアジア諸国の人々と共に、私たちも自分たちの生活の中で大きな喜びのうちに神のみことばを実践しながら、聖母と共にイエズス・キリストを自らの生活にお迎えして、善意が実りを豊かに結ぶ2月を過ごすことが出来ると素晴らしいですね。

末吉町教会「街の灯」2020年1月号巻頭言

末吉町教会「街の灯」2020年1月号巻頭言

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

新年あけましておめでとうございます。本年度もどうぞよろしくお願いいたします。

   2019年12月1日の待降節第1主日から始まった新しい典礼暦年の歩みの中で、末吉町教会では11月30日(土)から12月1日(日)には教会学校待降節黙想会が開催され29名の子どもたちが寝食を共にしながら、二つの講話、ゆるしの秘跡、聖劇の練習、聖体賛美式、朝の祈り、イエズス様への待降節の決意の手紙作成、ロザリオの祈りを一緒に捧げ、主日のミサに与りました。12月1日(日)はパウロ会管区長に就任なさった澤田豊成神父様指導の大人向け待降節黙想会が行われました。また、フィリピン共同体では12月7日(土)~8日(日)には待降節黙想会がエスコラピオス会のラジュ神父様の指導で、サレジオ会横浜志願院で行われ、12月9日(月)には19:30から英語ミサでの無原罪の聖マリアの祭日のミサには200名近くが心を合わせて祈りを捧げました。そして、12月13日(金)からはクリスマスまでの9日間のノヴェナの「シンバンガビ・ミサ(Rorate Missa)」が12月23日(月)まで日曜日を除いて毎晩19:30から捧げられ、毎日100名から200名近い方が集まり心を合わせて主の降誕の準備を深めることが出来ました。なお、12月15日(日)14:00英語ミサの後でフィリピン共同体のクリスマスパーティーが行われ、沢山の人が参加して楽しい時間を過ごすことが出来ました。

12月24日(火)には19:30から教会学校の聖劇が聖堂で上演され、20:00からは日本・フィリピン・韓国・中国・ベトナム共同体合同の主の降誕(夜半)の国際ミサが420名ほどの参列のもとで捧げられました。ミサ後、中国共同体のレジオマリエ・メンバーが準備をした路上生活者へのクリスマスプレゼントをもって、中国・日本共同体から30名が集まって22:00から23:30までかけて関内駅地下、横浜スタジアム、馬車道駅地下を巡って54名の方々に手渡しました。なお、30名のうち14名は子どもたちです。ある小学校低学年の男の子は「神父様、怖いからプレゼント渡すとき、一緒に渡してね」と言ってきましたが、それを聞いていたある小学校低学年の女の子は「神父様、私は一人で渡しても全然怖くないよ。だって、みんな優しい目をしてるし、話しかけたら優しく答えてくれたよ」と言っていたことが心に残りました。神様が人間のいのちをその身に受けて私たちのうちに宿られた「受肉の神秘」を祝うクリスマスにあたって、こうして、どのような境遇にあっても神様の似姿(Imago Dei, Image of God)としての尊厳を誰もが持っていることを子供心に感じてくれたことは本当に素晴らしいことだと思います。

12月25日(水)11:30からは200名ほどが集まって主の降誕(日中)のミサをお捧げしました。なお、クリスマスは8日間にわたって祝い続けるので「クリスマス・オクターブ」と呼ばれますが、末吉町教会でもミサが捧げられました。このクリスマス・オクターブは2020年1月1日の「神の母聖マリア」の祭日で締めくくられました。この間、12月29日(日)主の降誕5日目の聖家族の祝日には14:00からベトナム語でミサが捧げられ、ミサ後、沢山の若者たちが参加してパーティーが行われました。

1月1日は深夜0:00のミサと11:30のミサをお捧げしながら沢山の方が新しい年の始まりを祈りのうちに迎えて下さったことを本当に嬉しく思います。なお、日本のカトリック教会の信者の「守るべき祝日」(必ずミサに参列して祈る義務の日)は、『カトリック新教会法典』「日本における教会法施行細則」1246条第2項「日本における守るべき祝日」では「日本における守るべき祝日は、すべての主日、主の降誕の祭日、そして神の母聖マリアの祭日である。」とされていますから、信仰実践という観点からも、本当に沢山の方が深い祈りを捧げて下さったことを嬉しく思います。ちなみに、復活祭や聖霊降臨祭やその他の大きな祭日はすべて日曜日、つまり「主日」にお祝いしますから、これらも「守るべき祝日」に含まれています。

さて、1月1日は「神の母聖マリア」をお祝いすると同時に「世界平和の日」として全世界のカトリック信者が祈りを捧げる日でした。これは、聖パウロ6世教皇様が第2バチカン公会議閉会2年後の1967年12月8日に、当時、ベトナム戦争が激化する中で1968年1月1日を「平和の日」として世界中が主の平和で満たされるように祈るよう呼びかけたことから始まりました。特に、今年の第53回「世界平和の日」には「希望の道である平和-対話、和解、エコロジカルな回心」というテーマで教皇メッセージが発表されましたが、その中ではフランシスコ教皇様の日本での体験が具体的に言及されています。

2020年「世界平和の日」教皇メッセージ】

1. 平和――障害や試練に直面する中で歩む希望の道のり

(略) 内戦や国家間の戦争という悲惨な試練は、情け容赦のない暴力によってますます深刻化しており、人類のからだと心にいつまでも消えない傷痕を残しています。どの戦争も、人類家族の召命に刻みこまれた兄弟関係そのものを破壊する兄弟殺しにほかなりません。

戦争は、多くの場合、相手の違いを受け入れられないことから生じていることは言うまでもありません。そうした不寛容は所有欲や支配欲を助長します。それは、利己主義、傲慢、憎しみによって、人間の心の中で生まれます。憎しみが、破壊に、相手を否定的なイメージで固めることに、相手の排除や抹殺に至らせるのです。戦争は、さまざまな関係の歪み、覇権への野心、権力の濫用、他者や異なるものを障害と見なすことで生じる恐怖心によってあおられます。そしてこれらすべてが、戦争によってさらにあおられるのです。

先日の日本への司牧訪問で強調したように、逆説的ではありますが、「わたしたちの世界は、倒錯した二分法の中にあります。それは、恐怖と不信の心理から支持された偽りの安全保障を基盤とした安定と平和を、擁護し確保しようとしているからです。人と人の関係を毒し、可能なはずの対話を阻んでしまうものです。国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能となります」。(略)

2. 平和――記憶と連帯と兄弟愛に基づいた、耳を傾けるという道のり

ヒバクシャ――、広島と長崎に投下された原爆の生存者は、1945年8月に起こったことの恐ろしさと、今日までの筆舌に尽くしがたい苦しみを、次世代の人々に証言することで、共同意識の炎を今もともし続けています。彼らの証言は、どのような支配欲や破壊欲を前にしても人間の良心をさらに強固にするために、犠牲者の記憶を呼び起こし守っています。「現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません。より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり起爆剤である記憶」をです。

ヒバクシャと同じように大勢の人が、世界中で、記憶を守るための活動を次世代の人々のために行っています。それは、同じ過ちを再び犯さないため、あるいは過去の妄想的な企てを繰り返さないためだけでなく、経験の実りである記憶が、平和に向けた現在と未来の決断の根拠と刺激となるようにするためでもあります。

記憶はさらに、希望の地平です。戦争や紛争の闇に何度覆われても、連帯のしるしをわずかでも受けたという記憶があれば、勇敢で、英雄的でさえある決断をくだすことができます。そして個人や共同体の中にまったく新しい力を生み出し、新しい希望の炎をともすことができるのです。(略)

わたしたちは、自分たちを和解させるためにご自身のいのちをささげてくださったキリストを、キリスト者としての体験を通してつねに思い起こしています(ローマ5・6-11参照)。教会は、キリスト教の価値観の伝達、道徳的な教え、さらには社会的・教育的活動を通して、正しい秩序を実現させるために全身全霊をかけてかかわり、共通善のために尽くし、平和への希望をはぐくみ続けているのです。(略)

5. 希望するだけのものをすべて、勝ち得ることができる

和解の道のりには、根気と信頼が欠かせません。平和は、望まなければ決して実現しません。

それは何よりもまず、平和の実現を信じること、そして相手も自分と同じように平和を求めていると信じることです。そうして初めて、わたしたち一人ひとりへの、神の自由で、限りのない、無償で、飽くことのない愛によって導かれることができるのです。

争いの源は、多くの場合、恐れです。ですから、わたしたちを愛してくださり、放蕩息子の父親のように待っていてくださるかた(ルカ15・11-24参照)の前では助けを必要としている子どもであるという自覚をもって、人としての恐れを乗り越えることが重要です。兄弟姉妹の間の出会いの文化は、争いの文化を打ち砕きます。それはあらゆる出会いを可能にし、その出会いを寛大な神の愛からの贈り物とします。その文化は、わたしたちが狭い視野の領域を超え出るよう導き、天におられるただ一人の御父の子らとして、普遍的な兄弟愛のもとに生きるよう、つねにわたしたちを励ましてくれます。

キリストの弟子にとってこの道のりは、洗礼を受けた者の罪のゆるしのために、主がお与えになる和解の秘跡によっても支えられています。個人と共同体を新たにする教会のこの秘跡は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」(コロサイ1・20)ご自分と和解させたイエスを見つめ続けるよう呼びかけています。そして、隣人に対しても、神の被造物に対しても、思い、ことば、行いによるあらゆる暴力を放棄するよう求めているのです。

フランシスコ教皇様は「記憶」の大切さを強調しておられます。この「記憶」によって、たとえどんな困難の中にいるとしても、神様との絆で結ばれている体験、まわりの人から大切にされた体験があれば、そこから希望の炎が燃え立つように一人ひとりの中で働くのだ、ということです。新年の始まりに当たって、私たちも自分の生活の中でどのようなときに素晴らしい体験をしてきたかを改めて想い起し、記憶にとどめるようにすることが出来ると素晴らしいと思います。そして、この体験を信仰生活の中で中心に据えることが出来るとき、本当の意味で一人ひとりが広い視野を持って「主の平和」をもたらす者になれるのだ、ということをフランシスコ教皇様は教えておられます。

一方で、私たちの生活の中では自らの至らなさによって倫理的罪に陥ることもあります。このような時でも、いつでも神様との深い絆に立ち返ることが出来るように「和解の秘跡」である「ゆるしの秘跡」(告解)が地上を旅する教会には与えられています。今年1年を神様の光に照らされて歩んでいくとき、ぜひ「ゆるしの秘跡」を通して深く神様と出会いなおし、より高い聖性を目指して歩んでいくことが出来るようにしていただければと思います。この年末年始も、ある青年と話をしていたとき、日々の生活について話が深まっていく中で自分からその場でゆるしの秘跡を受けたいとの申し出を受けたこともありました。私たち一人ひとりが心の鎧を脱いで、勇気を出して自分自身を神様に対して開く時、私たちの心の中から言い訳や後ろめたさ、また、自分と他者との関係の中での不義理を神様によって洗い清めていただいて、清々しい気持ちで前向きに「平和の使徒」として毎日の生活を送ることが出来るようになると思います。

マザーテレサの言葉から(『マザーテレサ日々の言葉』75日 女子パウロ会)

 行いに愛をこめましょう。わたしたちの愛の奉仕は、平和の働き以外の何ものでもありません。

一人ひとりが、より大きな愛と効果的な働きをもって、仕事や家庭、周りの人たちにかかわる日々の生活の一つひとつの行いに愛をこめましょう。

平和のうちに喜んでいらっしゃい。

神がくださるものはなんでも受け入れ、神が取り去られるものはなんでも、ほほえんで差し上げましょう。

新しく始まったこの一年を、お一人お一人が慈しみ深い神のみ前で、健やかな明るい心持ちで歩んでいくことが出来るように心から祈っています。

38年ぶりのローマ教皇来日

末吉町教会「街の灯」2019年12月号巻頭言

38年ぶりのローマ教皇来日

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

11月は死者の月で、11月3日(日)のミサでは皆様がご記帳された帰天者の芳名録がミサで捧げられ、心を合わせてお一人おひとりの永遠の安息をお祈りいたしました。また、午後には相沢墓地と上大岡墓地で墓参の祈りをお捧げいたしました。寒い一日でしたが、多くのご家族の皆様が帰天されたご家族のためにお祈り頂きました。

11月9日(土)には「拡大初聖体クラス」が14:45に集合して19:30まで行われましたが、聖体の秘跡についての講話、聖堂でのミサについての講話、ゆるしの秘跡についての講話の後、初めてのゆるしの秘跡の準備をして、17:00ミサの前後に全員のゆるしの秘跡が行われ、また、ミサでは一人ひとりが典礼奉仕を家族と一緒に行い、ミサ後には一緒に食卓を囲んで楽しい夕食のひとときを過ごしました。子どもたち一人ひとりが本当に仲良くなっていて、心温まる時間でした。ご協力いただいたリーダー、保護者の皆様、ありがとうございました。

11月10日(日)には七五三の祝福が行われ、7歳児、5歳児、3歳児の7名が祝福を受けて千歳飴を手にして笑顔いっぱいの姿が心に残っています。また、同じミサの中では5名の幼児洗礼式が行われました。受洗した一人ひとりのこれからの歩みが神様の子どもとして実り豊かなものになるよう、末吉町教会全体で心を合わせてお祈りしたいと思います。また、ミサ後にはミニバザーが開催され、多くの方々のご協力で楽しい時間を過ごすことが出来ました。皆様、本当にありがとうございました。

11月17日(日)には、司牧研修に来ているルカ上杉優太神学生が暮らし、学んでいる東京カトリック神学院から松浦信行院長神父様をお迎えしてミサをお捧げしていただきました。2019年4月にバチカンの福音宣教省の設立認可をもって新しい歩みを始めた11教区連立神学院である東京カトリック神学院の院長人事も当然、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿猊下の任命人事ですが、ミサに一緒に与ることのできた皆様には実感していただけたと思いますが、本当に素晴らしい院長様が任命されたので神学生達にとっても司祭養成の道は希望に満ちていることと思いました。

  11月24日(日)は王であるキリストの祭日で典礼暦年最終主日でしたが、昨年と同じく今年も9名の子どもたちが初聖体式を迎えました。至聖なる聖体の秘跡にまします主イエズス・キリストをお迎えするときの子どもたちの嬉しそうな、そして誇らしげな様子が心に残りました。子どもたち一人ひとりがこれからも喜んで贖い主キリストと共に人生の日々を重ねていくことができるよう、心を合わせてお祈りしてまいりましょう。

なお、今年も待降節の馬小屋(presepio)はベトナム共同体が制作してくれましたが、23日(土)の朝から教会に集まって作業を始め、24日(日)の午後から聖堂内に設置作業を開始して夜までかかって完成させてくれました。今年も本当に立派な作品が完成しました。本当にありがとうございました。

さて、2019年11月23日、38年ぶりにローマ教皇が日本を司牧訪問されました。1981年には聖ヨハネ・パウロ2世教皇様がローマ教皇として初めて日本の大地に降り立ちましたが、今回はフランシスコ教皇様が訪日されました。タイに続いての日本訪問ということで、82歳のフランシスコ教皇様(12月17日が誕生日なので、間もなく83歳になられます)には大変ハードなスケジュールとなったと思いますが、26日、離日の日に上智大学で次のように述べられました。

【教皇の日本司牧訪問・教皇の講話・上智大学訪問 2019年11月26日】

わたしの教皇としての日本司牧訪問の最後に、貴国を発ってローマに戻る前の少しの時間を皆さんとともに過ごせることを大変うれしく思います。

この国での滞在は短いものでしたが、大変密度の濃いものでした。神と、日本のすべての人々に、この国を訪れる機会をいただいたことを感謝します。日本は、聖フランシスコ・ザビエルの人生に多大な影響を与えた国であり、多くの殉教者がキリスト教信仰をあかしした国です。キリスト教信者は少数派ですが、存在感があります。わたし自身、カトリック教会に対して一般市民がもつ好意的評価を目にしましたが、こうした互いの敬意が、将来において深まっていくことを期待します。」

大変密度濃く、日本社会に生きる色々な人との対話をしてくださったフランシスコ教皇様が日本社会をどのように見ているかについて、日本到着直後に日本司教団に次のように語っています。長い引用になりますが、とても重要なメッセージを含んでいるので、教皇様ご自身の言葉で味わいたいと思います。

【教皇の日本司牧訪問・教皇の講話・日本の司教団との会談 2019年11月23日】

はじめに、ごあいさつせずに入ってきてごめんなさい。わたしたちアルゼンチン人は本当失礼ですね! すみません。皆さんとご一緒できてうれしいです。日本人は几帳面で働き者であることはよく知られていますが、それを目の当たりにしました。飛行機から教皇が降りると、すぐに動いてくれましたね。ありがとうございます。

日本訪問という恵みと、皆様の歓迎にとても感謝しています。日本のすべてのカトリック共同体を代表された、髙見大司教様のおことばにとくに感謝いたします。司教様がたとの、この最初の公的な会談の場をお借りして、皆さんのそれぞれの共同体、そして共同体全体に、信徒、カテキスタ、司祭、修道者、奉献生活者、神学生に、ごあいさつしたいと思います。また、新しい天皇の即位と、令和という新しい時代の幕開けという画期におられる、日本のすべてのかたにも、ごあいさつと祈りをお届けしたく思います。

ご存じかどうか分かりませんが、わたしは若いときから日本に共感と愛着を抱いてきました。日本への宣教の望みを覚えてから長い時間が経ち、ようやくそれが実現しました。今日、主はわたしに、皆さんと同席するという機会を与えてくださいました。わたしは信仰の偉大な証人の足跡をたどる、宣教する巡礼者としてここにおります。聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸してから470年が経ちます。ザビエルが、日本におけるキリスト教布教を始めました。彼を思い出しながら、皆様と心を合わせて主に感謝したいと思います。その感謝は、その後何世紀にもわたって福音の種を蒔き、熱意と愛をもって日本の人々に奉仕した、すべての人への感謝です。その献身が、日本の教会に独特の性格を与えました。わたしは、聖パウロ三木と同志殉教者、また、数知れない試練の中で死に至るまで信仰をあかしした福者高山右近のことを思い出します。迫害の中で信仰を守ろうとするこの献身のおかげで、小さなキリスト教共同体は成長し、堅固になり、豊かな実りを生みました。さらに、長崎の「潜伏キリシタン」のことも思い浮かべてみましょう。彼らは洗礼と祈りと要理教育を通して、何世代にもわたって信仰を守ってきました。それは、その地に輝く真の家庭教会でした。当人たちは意識せずとも、ナザレの聖家族を映し出していたのです。

主の道は、神を忘れまいと努める忠実な民の日常生活の中で、ご自分がいかに「働かれる」かを示しています。沈黙の中に隠れておられますが、聖霊の力と優しさをもって、二人またはそれ以上が、主の名において集まるところには主がおられる(マタイ18・20参照)ということを思い出させてくれる、生きた記憶です。あなたがたの共同体のDNAには、このあかしが刻まれています。それはあらゆる絶望に対する特効薬で、目を上げて歩むべき道を示してくれます。皆さんは、迫害の中で主のみ名を呼び続け、主がいかに自分たちを導かれたかを見つめてきた、生きている教会です。

希望に燃えた種蒔き、殉教者のあかし、時が来れば神が与えてくださるはずの実りを待つ忍耐、これらが、日本の文化と共存できた宣教方法を特徴づけたものです。その結果、長い年月を経て、教会の顔が形づくられました。教会は総じて、日本社会からとても評価されています。それは、教会が共通善のために多くの貢献をなしたからです。日本の歴史と普遍教会の歴史の中で重要なあの時代は、長崎と天草地方の教会と集落群が世界遺産に登録されたことでも認められています。ですが何より、皆さんの共同体の魂の生きる記憶として、あらゆる福音宣教の豊かな希望として、評価されるものです。

この司牧訪問のテーマは、「すべてのいのちを守るため」です。それは、わたしたち司教の奉仕職というものをよく表しています。司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべてのいのちを守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、わたしたちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。(略)

フランシスコ教皇様の中で、若いときから日本への共感と愛着をお持ちであること、また、日本への宣教の望みを心に抱いておられることを率直に話された後で、特に、イエズス会士である聖パウロ三木と同志25殉教者(日本26聖人)および福者ユスト高山右近に言及されています。聖パウロ三木が長崎の西坂の丘で殉教する時の様子は、2月5日「日本26聖人の祝日」の聖務日課(『教会の祈り』)「読書課」の第2朗読で毎年読まれますが、次のように記されています。

【同時代の著者による聖パウロ三木とその同志の殉教の記録」】

十字架につけられてから皆が示した毅然とした態度は、それを見ている人々を驚かせた。パシウス神父とロドリゲス神父は耐え忍ぶように仲間を励ました。長上のペドロ・バウチスタ神父はほどんど動かずに、じっと天を見つめていた。また、マルチン修道士は神に感謝をささげようとして、「神よ、あなたの手にわたしの霊をゆだねます」という節を加えて、いくつかの詩編を唱えていた。フランシスコ・ブランコ神父も、はっきりとした声で神に感謝をささげていた。ゴンザロ修道士は、非常に大きな声で主の祈りと天使祝詞(=「アヴェ・マリアの祈り」)を唱えていた。

わたしたちの兄弟、パウロ三木は、今まで自分が立っていた演壇のうちで最も誉れある演壇に立っていることを見て、まず群衆に向かって、自分が日本人であり、かつイエズス会士であることを述べ、福音を宣べ伝えたために死刑に処されると言い、このすばらしい恵みをいただいたことを神に感謝すると述べて、次のように語った。

「今このような時を迎えて、わたしが偽りを語るとは、どなたも思わないでしょう。ですからあなたがたに宣言します。キリスト者たちが信じている道のほかには、救いへ導く道はありません。キリスト教がわたしに、敵をゆるし、わたしに害を及ぼしたすべての人をゆるすように教えているので、関白殿と、わたしを死刑に処するすべての人を喜んでゆるし、キリスト教の洗礼を受けることを決心するように彼らに願います。」

それから、パウロ三木は仲間に目を転じ、この2月5日最後の戦いに挑むように彼らを励ましはじめた。皆の顔には喜びの表情があったが、特にルドビコ茨木の顔がそうであった。群衆の中のキリスト者の一人が彼に向かって、「君は間もなく楽園に入るよ」と叫ぶと、ルドビコは腕と体全体に喜びをみなぎらせ、見物人たちの目を自らのほうに引きつけた。

ルドビコの傍らにいたアントニオは天を見つめ、いとも聖なるイエスとマリアの名を呼んだ後、長崎の要理クラスで学んだ詩編、「子らよ、主を賛美せよ1」を歌い出した。このクラスでは、歌うためにいくつかの詩編を子どもたちに教えているのである。

他の者たちは朗らかな顔で、「イエスよ、マリアよ」と繰り返し唱えた。そのうちの何人かは、集まった人々に向かって、キリスト者にふさわしく生活するように諭した。(略)

聖パウロ三木は日本人であること、そしてイエズス会士であることを宣言したうえで、自らを殺そうとする人々について、キリスト教の教えである「ゆるし」を実践することを告げ、更には、唯一の救いへの道である洗礼を受ける決心をするように促しました。このような信仰の証しを受け継いできた日本の教会を、フランシスコ教皇様は「神を忘れまいと努める忠実な民」と仰せになり、この中で主ご自身が共におられ働かれている生きた記憶として、共同体の信仰のDNAにこの多くの苦難を乗り越えた信仰の先達の証しが刻まれているのだ、と仰っています。

そして、これからの日本にある教会が歩むべき道を次のように指し示してくださいました。

【教皇の日本司牧訪問・教皇の講話・東京ドーム 2019年11月25日】

  (略)力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。思い煩うことなく、信頼しなさい、と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6・25、31、34参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。

主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。

孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁見講話(2019年2月13日)」参照)。主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からのすばらしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢にあずかる者なのです。「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。(略)

フランシスコ教皇様は、わたしたち日本で暮らす人々に、特にカトリック信者に、どのような状況の中でも自分の生活の中で出会う人々と心を通わせ合いながら、私たちが暮らすこの世界が創造主からの美しい贈り物であることに心を向け、「善」を行っていくことを強く勧めておられます。わたしたちの生活の場であるこの社会が「真に調和のある人間的な社会」として発展していくよう、日々の生活の中で主イエズス・キリストと共に歩むことが出来ると素晴らしいですね。

「平和の君」(prince of peace)とも称される主イエズス・キリストの降誕を間もなく迎えますが、待降節の準備の間、わたしたちのうちに「主の平和」が満ち溢れ、どの家族も、ナザレの聖家族の写し絵として神様の温かな優しさと幸せに満たされて過ごすことが出来ますように。

典礼暦年のしめくくり―王であるキリストの祭日

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

10月6日日曜日には14:00の英語ミサの中で、フィリピン人で初めて列聖されたサン・ロレンソ・ルイスのお祝いをしました。サン・ロレンソ・ルイスはドミニコ会の「ロザリオ会」という毎日ロザリオの祈りを捧げる信心会のメンバーでしたが、「聖トマス西と15殉教者」の一員として1637年9月29日に42歳で長崎の西坂の丘で殉教しました。この16人は死の2日前、9月27日から西坂の丘で拷問を受け、「釣るし」と呼ばれる上下逆さまに吊るされる拷問を受けました。9月29日はカトリック教会の伝統で大天使聖ミカエル、ガブリエル、ラファエルのお祝い日なので、27日から拷問され続け殉教した日本16聖人は9月28日に記念日が定められました。ちなみに、日本16聖人の列福式ミサは聖ヨハネ・パウロ2世教皇様によって1981年2月18日にフィリピンの首都マニラで執り行われ、列聖式ミサはバチカンで聖ヨハネ・パウロ2世教皇様によって1987年10月18日に執り行われました。

(右の写真は毎日ロザリオの祈りを捧げているレジオマリエのメンバーを中心としてサン・ロレンソ・ルイスの御像を前に撮影した写真です。)

さて、10月には横浜教区司祭の年の黙想会がありましたが、40名を超える参加者のうち、最高齢は横須賀大津教会で協力司祭として活躍なさっている94歳のアンドレ・ヴァン・カンペンハウド神父様でした。カンペンハウド神父様は末吉町教会でも主任司祭として私たちを導いてくださっていましたから、皆さんの中でもカンペンハウド神父様との良い思い出をお持ちの方が沢山いらっしゃることと思います。

往路は私の運転で長野県の軽井沢にあるクララ会黙想の家に向かいましたが、その時、沢山の話をすることが出来ました。復路は私が東京カトリック神学院での講義のために軽井沢から直接神学院に移動することになっていたので、磯子教会におられる教区で最年少の牧山善彦神父様が横浜までご一緒でした。カンペンハウド神父様は来年には司祭叙階70周年の「プラチナ祝」をお祝いなさいます。ちなみに、今回初めて「プラチナ祝」という名前を知りました。 

カンペンハウド神父様からは第2バチカン公会議前後の教会の様子についてとても興味深い体験を教えていただきました。その中で、特に印象に残っているのはキリストへの「熱意」、また、福音宣教への「熱意」です。カトリック教会全体が聖霊の光に照らされて、神さまへの憧れを強く感じながら、私たちの生きている世界をより聖なる世界に、より平和な世界に変革していこうという「熱意」に満ちて、皆が活き活きと信仰生活を送っていたことを懐かしそうに振り返っておられたのが印象に残っています。また、横浜教区で教会の建て替えにあたった経験や、教区事務局での経験や三浦海岸教会を設立する際の様子など、横浜教区がどのような歩みをしてきたかも教えてくださいました。

カンペンハウド神父様から新しい教会が誕生するときのお話を聞きながら、末吉町教会が辿ってきた歴史の中で、それぞれの時代にキリストへの「熱意」に燃えた司祭、修道女、信徒の大きな働きがあって現在の私たちがあることを思い起こしました。

末吉町教会は1872年(明治5年)に横浜の居留地外の邦人向けにフランスから来日したサンモール会のメール・マチルドが若葉町に明道小学校を設立し、2階建ての洋館の1階を学校、2階を聖堂にしたことに始まります。なお、キリスト教禁教令の太政官布告が取り下げられたのは1873年(明治6年)2月21日であり、洗礼台帳(Lieber Baptizatorum)には1874年からの洗礼記録が残っています。

その後、1889年(明治23年)の大日本帝国憲法発布によって信教の自由が保障されたことを受け、1890年(明治24年)に今の場所から1つ隣の町内である若葉町に移転し、1894年には教会聖堂が献堂されました。その後、1899年(明治32年)8月12日に火災のため明道小学校が類焼し、廃校となりました。1900年(明治33年)にはサンモール会のシスター方は横浜紅蘭女学校を開校しました。そして、1958年には校名を横浜雙葉中学校・高等学校に変更しました。末吉町教会と横浜雙葉学園はこのように創立の時から深い結び付きがあります。

さて、末吉町教会の歩みの中では、1930年(昭和5年)には若葉町教会聖堂が3月15日に祝別され、4月にはミカエル天使園幼稚園が開学します。1939年6月14日には若葉町教会から保土ヶ谷教会が独立します。その後、1945年5月29日の横浜大空襲で若葉町教会の聖堂、司祭館、幼稚園が焼失してしまいました。若葉町教会は戦後、米軍に接収され、周辺一帯が米軍の軽飛行機(ヘリコプター等)の飛行場となりました。1945年9月には現在の末吉町の地所を手に入れます。1951年には「宗教法人法」の施行に伴い、戦後、「「ミカエル保育園」として運営していた幼稚園を「聖母幼稚園」と改称して宗教法人立幼稚園にしました。1954年(昭和29年)12月26日、2年の工事を経て新聖堂の献堂式を迎えます。新聖堂献堂の翌年、1955年には戸部教会が末吉町教会から独立します。戸部教会の独立から2年後の1957年には磯子教会が末吉町教会から独立します。

1972年には横浜の若葉町に邦人向けの宣教拠点がサンモール会の明道小学校の2階聖堂に設けられたことの100周年を記念して、港南教会の設立準備が始まり、私が主任司祭を兼任している港南教会の聖堂が1973年3月18日に献堂されました。港南教会の草創期にも多くの困難があったことと思いますが、末吉町教会に属していた信徒たち一人ひとりの燃え立つような信仰の「熱意」が1987年の小教区昇格による港南教会の独立という歩みを導き、今日に至る歴史を積み重ねて来る原動力になったのだと思います。

さて、現代のカトリック教会の歩みは1962年から65年に開催された第2バチカン公会議の実りをもとにしています。この公会議では16文書が採択され、聖パウロ6世教皇様によって使徒的権威を持って荘厳に公布されました。その中に「現代世界憲章」(略称:“GS”=ラテン語原文の最初の2単語のGaudium et Spes(「喜びと希望」の意)の頭文字)として知られる「現代世界における教会に関する司牧憲章」があります。この憲章は、現代世界の中で歴史の歩みを続けるカトリック教会がどのように司牧に取り組んでいくべきかについて扱った文書です。その構成は「序文」、「第1部 教会と人間の召命」、「第2部 若干の緊急課題」、「結語」からなりますが、第1部の結びである45項は「初めと終わりであるキリスト」という題名の下で次のように述べています。

『現代世界における教会に関する司牧憲章(現代世界憲章)』45項

教会は世を助け、世から多くを受けながら、一つのこと、すなわち神の国が到来し、全人類の救いが達成されることを目指している。神の民が地上の旅の間に人間家族に提供できる善のすべては、教会が「救いの普遍的秘跡」、すなわち人間に対する神の愛を現すと同時に実現する神秘であるということから来ている。

万物を造った神のみことば自身が肉となったのは、完全な人間として、すべての人間を救い、万物を一つに再統合するためであった。主は人類の歴史の目的であり、歴史と文明のもろもろの願望が収斂する焦点であり、人類の中心、すべての心の喜び、すべてのあこがれの成就である。このかたこそ、父が死者からよみがえらせ、高く挙げ、その右に座らせ、生者と死者の審判者として立てたかたである。彼の霊によって生かされ、集められたわれわれは、人類の歴史の完成に向かって旅している。それは「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめる」(エフェソ1・10)という神の愛の計画にまったく合致する。

主自身がいっている。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(黙示録22・12-13)。

ベネディクト16世名誉教皇様は、第2バチカン公会議閉会40周年を目前にした2005年11月20日(日)のバチカンでの「お告げの祈り」の言葉で『現代世界憲章』に言及して、王であるキリストについて次のように説明しました。

『お告げの祈り』2005年11月20日 教皇ベネディクト16世

親愛なる兄弟姉妹の皆様。

今日は、典礼暦の最後の主日である、全宇宙の王であるキリストの祭日を祝います。おとめマリアから生まれた、父のひとり子は、その誕生が告げられたときから、「王」といわれました。この「王」とは、救い主の意味です。すなわち、この王は、預言者たちが約束した通り、ダビデの王座を継ぎ、永遠に支配するからです(ルカ1・32-33参照)。

キリストの王としての威厳は、30歳になるまで、まったく現されることがありませんでした。キリストは30年間、ナザレで普通の生活を送ったからです。それから、イエスは、公生活において、新しい神の国を始めました。この神の国は、「この世には属していない」(ヨハネ18・36)ものでした。そして、イエスは、最後にその死と復活により、神の国を完全に実現しました。復活して、弟子たちに現れたとき、イエスは彼らにこういわれました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)。この権能は、愛に由来するものです。この愛を、神は御子の奉献によって完全に示しました。キリストの国は、あらゆる時代の人々に与えられたたまものです。ですから、受肉したことばを信じる者は、「一人も滅びないで、永遠のいのちを得る」(ヨハネ3・16)のです。だからこそ、聖書の最後に置かれたヨハネの黙示録は、こう告げ知らせます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(黙示録22・13)。

「初めと終わりであるキリスト」。これが、40年前に発布された、第二バチカン公会議の『現代世界憲章』第1部の最後の節の標題です。神のしもべ、教皇パウロ六世のことばの一部を引用しながら、このすばらしい箇所は、こう述べています。「主は人類の歴史の目的であり、歴史と文明のもろもろの願望が収斂する焦点であり、人類の中心、すべての心の喜び、すべてのあこがれの成就である。」

(略)

キリストが中心であるという考えに照らされながら、『現代世界憲章』は、現代の人間の置かれた状況、その召命と尊厳、また、その生活のさまざまな次元を考察しています。すなわち、家庭、文化、経済、政治、そして国際共同体です。人間、それもすべての人が、その召命を完全に実現することができるように、キリストを告げ知らせ、キリストをあかしすること――これが、昨日も、今日も、常に変わることのない教会の使命です。

神が特別なしかたで王である御子と結びつけたかたである、おとめマリアによって、わたしたちが、御子がわたしたちの生涯を導く主であることを知り、キリストの愛と正義と平和の国の到来のために、忠実に協力することができますように。

ベネディクト16世名誉教皇様はルカ福音書の大天使ガブリエルによる聖母マリアへの受胎告知のことばを踏まえて、救い主であるイエズス・キリストが天の父である神によって「王」と呼ばれることを指摘します。そして、キリストの弟子として生きるカトリック信者たちは、キリストに結ばれて永遠の命に至る道を歩み抜くことが出来ることを教えておられます。

【ルカ福音書1章30節-33節】(教皇様は32-33節を挙げています。)

1・30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1・31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1・32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 1・33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

お告げの祈りの中でベネディクト16世名誉教皇様が示した教えの中で注目すべき点は、キリストの持っている「天と地の一切の権能」は愛に由来するものだ、という点です。

私たちは「王であるキリスト」をたたえ、信仰宣言(ニケア・コンスタンチノープル信条)の中で次のように唱えています。

ニケア・コンスタンチノープル信条

「聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座についておられます。主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。」

復活されたイエズス・キリストは天の玉座に座しておられ、神によって創造された生命ある全ての被造物を愛によって満たし、神の国の完成の日まで守り抜き、「神の国」は終わることが無いことを保証してくださっています。イエズス・キリストによって守られ、導かれている安心感を心に抱くことが出来るとき、私たちは不安や恐れから解放されて人生のどの段階でも前向きな気持ちになることが出来ると思います。

カンペンハウド神父様は94歳になった今も、キリストへの憧れをいつも胸に抱きながら「キリストの愛と正義と平和の国の到来」のために「熱意」をもって王であるキリストの足跡をたどりながら祈り、福音宣教にあたっています。

私たちも、それぞれの年齢と生活する環境の中で、自分の信仰の「熱意」を燃え立たせ、王であるキリストの足跡をたどりながら私たちの生活するこの世界が、天上のエルサレム、王であるキリストの玉座のある「神の国」の特徴である「愛と正義と平和」に満ちたものとなるように祈りのうちに心を合わせて歩みを前へ前へと進めてまいりましょう。