38年ぶりのローマ教皇来日

末吉町教会「街の灯」2019年12月号巻頭言

38年ぶりのローマ教皇来日

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

11月は死者の月で、11月3日(日)のミサでは皆様がご記帳された帰天者の芳名録がミサで捧げられ、心を合わせてお一人おひとりの永遠の安息をお祈りいたしました。また、午後には相沢墓地と上大岡墓地で墓参の祈りをお捧げいたしました。寒い一日でしたが、多くのご家族の皆様が帰天されたご家族のためにお祈り頂きました。

11月9日(土)には「拡大初聖体クラス」が14:45に集合して19:30まで行われましたが、聖体の秘跡についての講話、聖堂でのミサについての講話、ゆるしの秘跡についての講話の後、初めてのゆるしの秘跡の準備をして、17:00ミサの前後に全員のゆるしの秘跡が行われ、また、ミサでは一人ひとりが典礼奉仕を家族と一緒に行い、ミサ後には一緒に食卓を囲んで楽しい夕食のひとときを過ごしました。子どもたち一人ひとりが本当に仲良くなっていて、心温まる時間でした。ご協力いただいたリーダー、保護者の皆様、ありがとうございました。

11月10日(日)には七五三の祝福が行われ、7歳児、5歳児、3歳児の7名が祝福を受けて千歳飴を手にして笑顔いっぱいの姿が心に残っています。また、同じミサの中では5名の幼児洗礼式が行われました。受洗した一人ひとりのこれからの歩みが神様の子どもとして実り豊かなものになるよう、末吉町教会全体で心を合わせてお祈りしたいと思います。また、ミサ後にはミニバザーが開催され、多くの方々のご協力で楽しい時間を過ごすことが出来ました。皆様、本当にありがとうございました。

11月17日(日)には、司牧研修に来ているルカ上杉優太神学生が暮らし、学んでいる東京カトリック神学院から松浦信行院長神父様をお迎えしてミサをお捧げしていただきました。2019年4月にバチカンの福音宣教省の設立認可をもって新しい歩みを始めた11教区連立神学院である東京カトリック神学院の院長人事も当然、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿猊下の任命人事ですが、ミサに一緒に与ることのできた皆様には実感していただけたと思いますが、本当に素晴らしい院長様が任命されたので神学生達にとっても司祭養成の道は希望に満ちていることと思いました。

  11月24日(日)は王であるキリストの祭日で典礼暦年最終主日でしたが、昨年と同じく今年も9名の子どもたちが初聖体式を迎えました。至聖なる聖体の秘跡にまします主イエズス・キリストをお迎えするときの子どもたちの嬉しそうな、そして誇らしげな様子が心に残りました。子どもたち一人ひとりがこれからも喜んで贖い主キリストと共に人生の日々を重ねていくことができるよう、心を合わせてお祈りしてまいりましょう。

なお、今年も待降節の馬小屋(presepio)はベトナム共同体が制作してくれましたが、23日(土)の朝から教会に集まって作業を始め、24日(日)の午後から聖堂内に設置作業を開始して夜までかかって完成させてくれました。今年も本当に立派な作品が完成しました。本当にありがとうございました。

さて、2019年11月23日、38年ぶりにローマ教皇が日本を司牧訪問されました。1981年には聖ヨハネ・パウロ2世教皇様がローマ教皇として初めて日本の大地に降り立ちましたが、今回はフランシスコ教皇様が訪日されました。タイに続いての日本訪問ということで、82歳のフランシスコ教皇様(12月17日が誕生日なので、間もなく83歳になられます)には大変ハードなスケジュールとなったと思いますが、26日、離日の日に上智大学で次のように述べられました。

【教皇の日本司牧訪問・教皇の講話・上智大学訪問 2019年11月26日】

わたしの教皇としての日本司牧訪問の最後に、貴国を発ってローマに戻る前の少しの時間を皆さんとともに過ごせることを大変うれしく思います。

この国での滞在は短いものでしたが、大変密度の濃いものでした。神と、日本のすべての人々に、この国を訪れる機会をいただいたことを感謝します。日本は、聖フランシスコ・ザビエルの人生に多大な影響を与えた国であり、多くの殉教者がキリスト教信仰をあかしした国です。キリスト教信者は少数派ですが、存在感があります。わたし自身、カトリック教会に対して一般市民がもつ好意的評価を目にしましたが、こうした互いの敬意が、将来において深まっていくことを期待します。」

大変密度濃く、日本社会に生きる色々な人との対話をしてくださったフランシスコ教皇様が日本社会をどのように見ているかについて、日本到着直後に日本司教団に次のように語っています。長い引用になりますが、とても重要なメッセージを含んでいるので、教皇様ご自身の言葉で味わいたいと思います。

【教皇の日本司牧訪問・教皇の講話・日本の司教団との会談 2019年11月23日】

はじめに、ごあいさつせずに入ってきてごめんなさい。わたしたちアルゼンチン人は本当失礼ですね! すみません。皆さんとご一緒できてうれしいです。日本人は几帳面で働き者であることはよく知られていますが、それを目の当たりにしました。飛行機から教皇が降りると、すぐに動いてくれましたね。ありがとうございます。

日本訪問という恵みと、皆様の歓迎にとても感謝しています。日本のすべてのカトリック共同体を代表された、髙見大司教様のおことばにとくに感謝いたします。司教様がたとの、この最初の公的な会談の場をお借りして、皆さんのそれぞれの共同体、そして共同体全体に、信徒、カテキスタ、司祭、修道者、奉献生活者、神学生に、ごあいさつしたいと思います。また、新しい天皇の即位と、令和という新しい時代の幕開けという画期におられる、日本のすべてのかたにも、ごあいさつと祈りをお届けしたく思います。

ご存じかどうか分かりませんが、わたしは若いときから日本に共感と愛着を抱いてきました。日本への宣教の望みを覚えてから長い時間が経ち、ようやくそれが実現しました。今日、主はわたしに、皆さんと同席するという機会を与えてくださいました。わたしは信仰の偉大な証人の足跡をたどる、宣教する巡礼者としてここにおります。聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸してから470年が経ちます。ザビエルが、日本におけるキリスト教布教を始めました。彼を思い出しながら、皆様と心を合わせて主に感謝したいと思います。その感謝は、その後何世紀にもわたって福音の種を蒔き、熱意と愛をもって日本の人々に奉仕した、すべての人への感謝です。その献身が、日本の教会に独特の性格を与えました。わたしは、聖パウロ三木と同志殉教者、また、数知れない試練の中で死に至るまで信仰をあかしした福者高山右近のことを思い出します。迫害の中で信仰を守ろうとするこの献身のおかげで、小さなキリスト教共同体は成長し、堅固になり、豊かな実りを生みました。さらに、長崎の「潜伏キリシタン」のことも思い浮かべてみましょう。彼らは洗礼と祈りと要理教育を通して、何世代にもわたって信仰を守ってきました。それは、その地に輝く真の家庭教会でした。当人たちは意識せずとも、ナザレの聖家族を映し出していたのです。

主の道は、神を忘れまいと努める忠実な民の日常生活の中で、ご自分がいかに「働かれる」かを示しています。沈黙の中に隠れておられますが、聖霊の力と優しさをもって、二人またはそれ以上が、主の名において集まるところには主がおられる(マタイ18・20参照)ということを思い出させてくれる、生きた記憶です。あなたがたの共同体のDNAには、このあかしが刻まれています。それはあらゆる絶望に対する特効薬で、目を上げて歩むべき道を示してくれます。皆さんは、迫害の中で主のみ名を呼び続け、主がいかに自分たちを導かれたかを見つめてきた、生きている教会です。

希望に燃えた種蒔き、殉教者のあかし、時が来れば神が与えてくださるはずの実りを待つ忍耐、これらが、日本の文化と共存できた宣教方法を特徴づけたものです。その結果、長い年月を経て、教会の顔が形づくられました。教会は総じて、日本社会からとても評価されています。それは、教会が共通善のために多くの貢献をなしたからです。日本の歴史と普遍教会の歴史の中で重要なあの時代は、長崎と天草地方の教会と集落群が世界遺産に登録されたことでも認められています。ですが何より、皆さんの共同体の魂の生きる記憶として、あらゆる福音宣教の豊かな希望として、評価されるものです。

この司牧訪問のテーマは、「すべてのいのちを守るため」です。それは、わたしたち司教の奉仕職というものをよく表しています。司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべてのいのちを守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、わたしたちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。(略)

フランシスコ教皇様の中で、若いときから日本への共感と愛着をお持ちであること、また、日本への宣教の望みを心に抱いておられることを率直に話された後で、特に、イエズス会士である聖パウロ三木と同志25殉教者(日本26聖人)および福者ユスト高山右近に言及されています。聖パウロ三木が長崎の西坂の丘で殉教する時の様子は、2月5日「日本26聖人の祝日」の聖務日課(『教会の祈り』)「読書課」の第2朗読で毎年読まれますが、次のように記されています。

【同時代の著者による聖パウロ三木とその同志の殉教の記録」】

十字架につけられてから皆が示した毅然とした態度は、それを見ている人々を驚かせた。パシウス神父とロドリゲス神父は耐え忍ぶように仲間を励ました。長上のペドロ・バウチスタ神父はほどんど動かずに、じっと天を見つめていた。また、マルチン修道士は神に感謝をささげようとして、「神よ、あなたの手にわたしの霊をゆだねます」という節を加えて、いくつかの詩編を唱えていた。フランシスコ・ブランコ神父も、はっきりとした声で神に感謝をささげていた。ゴンザロ修道士は、非常に大きな声で主の祈りと天使祝詞(=「アヴェ・マリアの祈り」)を唱えていた。

わたしたちの兄弟、パウロ三木は、今まで自分が立っていた演壇のうちで最も誉れある演壇に立っていることを見て、まず群衆に向かって、自分が日本人であり、かつイエズス会士であることを述べ、福音を宣べ伝えたために死刑に処されると言い、このすばらしい恵みをいただいたことを神に感謝すると述べて、次のように語った。

「今このような時を迎えて、わたしが偽りを語るとは、どなたも思わないでしょう。ですからあなたがたに宣言します。キリスト者たちが信じている道のほかには、救いへ導く道はありません。キリスト教がわたしに、敵をゆるし、わたしに害を及ぼしたすべての人をゆるすように教えているので、関白殿と、わたしを死刑に処するすべての人を喜んでゆるし、キリスト教の洗礼を受けることを決心するように彼らに願います。」

それから、パウロ三木は仲間に目を転じ、この2月5日最後の戦いに挑むように彼らを励ましはじめた。皆の顔には喜びの表情があったが、特にルドビコ茨木の顔がそうであった。群衆の中のキリスト者の一人が彼に向かって、「君は間もなく楽園に入るよ」と叫ぶと、ルドビコは腕と体全体に喜びをみなぎらせ、見物人たちの目を自らのほうに引きつけた。

ルドビコの傍らにいたアントニオは天を見つめ、いとも聖なるイエスとマリアの名を呼んだ後、長崎の要理クラスで学んだ詩編、「子らよ、主を賛美せよ1」を歌い出した。このクラスでは、歌うためにいくつかの詩編を子どもたちに教えているのである。

他の者たちは朗らかな顔で、「イエスよ、マリアよ」と繰り返し唱えた。そのうちの何人かは、集まった人々に向かって、キリスト者にふさわしく生活するように諭した。(略)

聖パウロ三木は日本人であること、そしてイエズス会士であることを宣言したうえで、自らを殺そうとする人々について、キリスト教の教えである「ゆるし」を実践することを告げ、更には、唯一の救いへの道である洗礼を受ける決心をするように促しました。このような信仰の証しを受け継いできた日本の教会を、フランシスコ教皇様は「神を忘れまいと努める忠実な民」と仰せになり、この中で主ご自身が共におられ働かれている生きた記憶として、共同体の信仰のDNAにこの多くの苦難を乗り越えた信仰の先達の証しが刻まれているのだ、と仰っています。

そして、これからの日本にある教会が歩むべき道を次のように指し示してくださいました。

【教皇の日本司牧訪問・教皇の講話・東京ドーム 2019年11月25日】

  (略)力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。思い煩うことなく、信頼しなさい、と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6・25、31、34参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。

主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。

孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁見講話(2019年2月13日)」参照)。主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からのすばらしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢にあずかる者なのです。「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。(略)

フランシスコ教皇様は、わたしたち日本で暮らす人々に、特にカトリック信者に、どのような状況の中でも自分の生活の中で出会う人々と心を通わせ合いながら、私たちが暮らすこの世界が創造主からの美しい贈り物であることに心を向け、「善」を行っていくことを強く勧めておられます。わたしたちの生活の場であるこの社会が「真に調和のある人間的な社会」として発展していくよう、日々の生活の中で主イエズス・キリストと共に歩むことが出来ると素晴らしいですね。

「平和の君」(prince of peace)とも称される主イエズス・キリストの降誕を間もなく迎えますが、待降節の準備の間、わたしたちのうちに「主の平和」が満ち溢れ、どの家族も、ナザレの聖家族の写し絵として神様の温かな優しさと幸せに満たされて過ごすことが出来ますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA