末吉町教会「街の灯」2020年3月号巻頭言
四旬節が始まりました
末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父
2月26日(水)の灰の水曜日から今年も四旬節が始まりました。末吉町教会では19:30から英語ミサの式文で中国語と日本語を用いた国際ミサに250名を超える方々が与り、昨年の枝の主日の際に祝福された枝を燃やし、灰の水曜日のミサの中で祝福された灰を「回心して福音を受けなさい」という言葉と共に額に受け、四旬節の歩みを始められました。なお、今年は、私自身は栄光学園での授業の後で中高生と灰の水曜日のミサを捧げましたし、朝には港南教会で50名ほどの方々と祈りを捧げました。ちなみに、司祭は週日には1日2回まで教会法上ミサ執行が許されていますので、3回のミサを司式するために横浜教区長司教である梅村司教様から個別許可を頂きました。
さて、新型コロナウィルスの感染拡大を巡って全国各地で色々な対策が行われています。カトリック教会においても例外ではありません。2020年2月28日付で公表されたカトリック横浜教区 教区長 梅村昌弘司教様の「新型コロナウィルス対応について」と題する声明では、以下の5項目が示されました。
1. 教区として、全教会のミサ、特に主日のミサを一律に中止するというような指示はいたしません。横浜教区は4県にわたっており、小教区の置かれている状況もさまざまです。それぞれの現場での判断におゆだねします。言うまでもなく、衛生対策は十分行なってください。
2. 体調がすぐれない方はミサへの参加をお控えください。またご高齢の方、持病をお持ちの方も無理なさらないでください。
3. 同じく、体調不良、またはご高齢や持病をお持ちの神父様方も、無理せずミサの挙行をお控えください。
4. 主日のミサの義務を免除する権限は各司祭に与えられておりますが、改めて教区長として義務からの免除をいたします。
5. そのほか個人としてまた共同体として、賢明かつ冷静に対応してください。
教区長声明の4項における主任司祭の権限は次の『新カトリック教会法典』の規定によります。
教会法1245条: 第87条所定の教区司教の権利を妨げることなく,主任司祭は,正当な理由の存するときは教区司教の規定に従って,個々の場合に守るべき祝日若しくは償いの日の順守義務を免除し,又は他の信心行為をもってこれに替えることができる。聖座法による聖職者会においては,修道会又は使徒的生活の会の上長も,自己の従属者及び昼夜その家に居住する他の者に対して同様のことができる。
なお、守るべき祝日は『日本における教会法施行細則』に次のように定められています。
22)第1246条2項 日本における守るべき祝日
a)日本における守るべき祝日は、すべての主日、主の降誕の祭日、そして神の母聖マリアの祭日である。
私は、カトリック横浜司教区教区長から与えられたカトリック末吉町教会の主任司祭としての教会法上の権能によって、カトリック末吉町教会に属する信徒の守るべき祝日のうち、3月中の主日について順守義務を免除し、日曜日には、「聖書と典礼」に記されている聖書のみことばを読み、味わい、主の祈りと以下の「霊的聖体拝領を求める祈り」を捧げることを持って替える、もしくはロザリオの祈りを1環捧げることをもって替えることが出来ることを宣言します。
体調に少しでも不安のある方は、たとえ、教会でミサが捧げられる主日であっても、3月中についてはミサ参列の義務は免除されていますので、ご自宅に留まり、健康維持を最優先にして下さい。
【霊的聖体拝領の祈】(『カトリック祈祷書』カトリック長崎大司教区 平成12年)
イエズス・キリスト、われは主が至聖なる聖体の秘蹟のうちにましますことを固く信じ、万事に超えて主を愛し、主を受け奉(たてまつ)らんことを望む。されど、今聖体を拝領すること能(あた)わざれば、霊的にわが心に降(くだ)り給(たま)え。主よ、われ主を受け奉(たてまつ)りし如(ごと)く、主によりすがりて、わが身を全く主に一致せしめ奉(たてまつ)る。願わくは主を離るるを許さず、悪魔のわなより救い給(たま)え。わが心に主の愛の火を点じ、永遠に主の御ために燃ゆるを得しめ給(たま)え。アーメン。
さて、フランシスコ教皇聖下は、2019年10月7日ロザリオの聖母の記念日にあたり、2020年『四旬節教皇メッセージ』を「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(二コリント5・20)というテーマで公布なさいました。このメッセージの中で教皇様は次のように四旬節を説明しています。
イエスの死と復活という偉大な神秘を新たな心で記念するために備えるのにふさわしい季節を、主は今年もまた、わたしたちに与えておられます。この神秘こそが、個人、共同体としてのキリスト者の生活の礎です。わたしたちは心と思いを尽くして、絶えずその神秘に立ち返らなければなりません。わたしたちがその霊的な力にすすんで関わり、広い心で自由に応えて受け入れるほど、その神秘はわたしたちのうちで広がり続けます。
私たちにとって、四旬節はミサの際に心を合わせて祈る「司祭:信仰の神秘」「会衆:主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」という応唱で祈っている神の救いのわざを自分の生活の基礎に改めて据える祈りの歩みであることが分かります。教皇様は、この歩みは喜びのうちに行われることだとして、次のように説明しています。
1. 過越の神秘、それは回心の基盤
キリスト者の喜びは、イエスの死と復活の良い知らせ、すなわちケリュグマを聞いて受け入れることから生じます。ケリュグマは、「本物で、真実で、具体的なので、正直で豊かな対話に満ちた関係をもたらしてくださる」(使徒的勧告『キリストは生きている』117)愛の神秘を要約しています。この知らせを信じる人は、自分のいのちの源は自分自身にあるという偽りを退けます。いのちはまさに御父の愛から、いのちを豊かに与えたいという御父のみ旨からこそ生じます(ヨハネ10・10参照)。けれども、「偽り者の父」(同8・44参照)がそそのかす声に耳を傾けるなら、不条理の深淵に陥り、この地上ですでに地獄を見る恐れがあります。人間が個人として、集団として経験したあまりにも多くの悲劇的な出来事が、痛ましくも物語っているとおりです。
ですからこの2020年の四旬節にあたり、わたしは使徒的勧告『キリストは生きている』の中で若者に向けて記したことを、あらゆるキリスト者と分かち合いたいと思います。「十字架につけられたキリストの広げた腕を見つめなさい。幾度も幾度も繰り返し救っていただきなさい。そして自分の過ちを告白しようとするときは、罪の憂いから解き放ってくださるキリストのあわれみを、固く信じてください。深い思いがこもった流れるその血をじっと見つめ、その血で清めていただきなさい。そうすればあなたは、つねに新たにされるでしょう」(123)。イエスの過越は過去の出来事ではありません。聖霊の力によって、つねに今ここにある出来事です。そして、わたしたちが苦しんでいる多くの人々のうちに、信仰によってキリストのからだを見て触れられるようにしてくれるのです。
フランシスコ教皇様の眼差しは、人間の命の源として、天の父である神の人間への豊かな愛の神秘へと向けられています。私たちもまた、教皇様と思いを一つにして十字架につけられたイエズス・キリストを見つめるように招かれています。イエズス・キリストのこの十字架上の痛みと苦しみは、フィリピの教会への手紙の中で次のように描かれています。
【使徒パウロのフィリピの教会への手紙2章1節~11節】
あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
イエズス・キリストの十字架上の犠牲は「自己無化」(ギリシア語でケノーシス)と呼ばれます。それは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」、「他人のことにも注意を払」う生き方です。そして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にすることによって、自分と共に生きている人々に対して、神からの慈しみと憐れみをもたらす生き方です。
このような生き方を目指す際に重要な点として、教皇様は次のことを説明なさっています。
【2020年四旬節教皇メッセージ】
2.回心の緊急性
過越の神秘をより深く観想することは、皆さんのためになることです。神のいつくしみは、その神秘を通して与えられるのです。「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)かた、十字架につけられ復活した主と「顔と顔を合わせ」てはじめて、神のいつくしみを味わうことができます。それは心と心との対話、友と友との対話です。ですから祈りが、四旬節においてとりわけ重要なのです。祈りは、義務というよりはむしろ、つねにわたしたちに先立ち、わたしたちを支えてくださる神の愛にこたえる必要の表れです。キリスト者は現に、身に余るほどに愛されていることを自覚しつつ、祈りをささげています。祈りにはさまざまなかたちがありますが、神の目から見て真に大切なことは、祈りがわたしたちの心の奥を深く掘り下げ、心のかたくなさを和らげているかどうかです。それによりわたしたちは、よりいっそう神とそのみ旨へと向かう回心ができるのです。
素晴らしい回心の歩みとなる四旬節を過ごすことが出来ると素晴らしいですね。