フランシスコ教皇様による「神のことばの主日」の制定

末吉町教会「街の灯」2020年2月号巻頭言

フランシスコ教皇様による「神のことばの主日」の制定

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 2020年が始まって、早くも1か月が過ぎました。アジア圏では旧正月を迎えて、新年のお祝いの熱気に満たされました。末吉町教会には中国共同体があり、「春節(春)」を1月25日(土)にお祝いし、韓国共同体では「ソルナル(설날)」のお祝いを1月26日(日)に行い、ベトナム共同体も1月26日(日)に行いましたまた、主任司祭を兼任している港南教会のベトナム共同体でも、ベトナムの「旧正月」である「Tết」(テト:漢字では「節」)のお祝いを2月1日(土)の夕方に行いました。

 このように、新しい年をアジア圏ではお祝いするときにあたり、フランシスコ教皇様は新しい主日のお祝いを制定なさいました。昨年の聖ヒエロニムスの記念日である2019年9月30日に、自発教令形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を公布なさり、その中ではカトリック中央協議会の解説によると以下の点が強調されているそうです。

年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。また、「神のことばの主日」は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる」よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります。

( https://www.cbcj.catholic.jp/2020/01/24/20015/ )

 2020年の年間第3主日は1月26日ですが、この日から毎年、年間第3主日には「神のことばの主日」のお祝いが始まります。では、フランシスコ教皇様は何故、聖ヒエロニムスの記念日にこのお祝いを制定する使徒的書簡を公布なさったのでしょうか。

 聖ヒエロニムスは、エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニュムス(Eusebius Sophronius Hieronymus)という名前で、347年頃に現在のクロアチアのアドリア海沿岸のダルマティアで生まれました。イタリアの対岸というとイメージしやすいでしょうか。最初は修辞学と哲学を修め、ギリシャ語を学び、古典研究を行っていましたが、シリアの砂漠で隠遁生活(=修道生活の一形態)を行いながら、ヘブライ語を学びました。378年に司祭に叙階され、コンスタンティノポリスの町で、ナジアンゾスの聖グレゴリオス司教(378年コンスタンティノポリス大主教就任)と出会い、382年にはローマに赴いてダマスス1世教皇様と知り合い、徴用されるようになりました。そして、ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を出版すべく翻訳に取り掛かり始めます。聖ヒエロニムスは旧約聖書はヘブライ語版およびアラム語版からラテン語に翻訳しています。

 384年のダマスス1世教皇様の帰天を受けて聖ヒエロニムスは聖地エルサレムに向かい、その後、ベツレヘム、エジプトを経てベツレヘムに落ち着くと、405年頃にはVulgata(ウルガタ)訳聖書を完成させます。この聖書こそが1600年以上に渡ってカトリック教会の”Sacra Scriptura”(サクラ・スクリプトゥーラ=聖書)の規範版とされています。ちなみに、”Vulgata”とは、「公布されたもの」という意味のラテン語です。この聖書がカトリック教会によって公式版聖書として公布されたものであることを示す名前でもあります。

 カトリック教会の公式聖書を完成させた聖ヒエロニムスの記念日に使徒的書簡をもって「神のことばの主日」の制定をフランシスコ教皇様が公布なさったことは大変意義深いことです。なお、ヒエロニムスは英語ではSt. Jeromeと標記します。

 さて、フランシスコ教皇様の使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』の中では次のような言葉をもって「神のことばの主日」の制定が宣言されています。

【アペルイット・イリス】

3項: したがって、わたしはこの文書によって年間第三主日を、神のことばを祝い、学び、広めることにささげることを宣言します。この「神のことばの主日」は、わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです。

それぞれの共同体は、ある程度の荘厳さをもってこの主日を特徴づけるための、自分たちにふさわしい方法を見つけていくことでしょう。しかし大切なことは、神のことばの規範としての価値に会衆の注意を向けさせるために、聖書のことばがミサにおいて賛美されることです。この日曜日には、主のことばを告げ知らせることを際立たせ、説教においてそのことばをふさわしくたたえることを強調するのが、とくにふさわしいといえるでしょう。司教たちは、典礼における神のことばの告知の重要性を明らかにするために、朗読奉仕者の選任式、あるいは朗読者を任命するための類似した式を執り行うことができるでしょう。この点について、みことばの真正な朗読者となるために必要な養成を信者に提供するために、新たな試みがなされるべきです。このことは、すでに祭壇奉仕者あるいは聖体拝領のための臨時の奉仕者の場合には行われています。司牧者たちは、聖書をどのように読み、味わい、そして日常的にどのように聖書とともに祈るかを学ぶ重要性を示す手段として、聖書あるいは聖書の中の一つの書物を全会衆に与える方法を見つけることもできます。とくに、「霊的読書(レクツィオ・ディヴィナ)」の実践を通して、そうすることができます。

このフランシスコ教皇様の指摘から明らかとなるのは、みことば、つまり聖書を通して示される神様の「みことば」が私たちの生活の「規範」として重要な価値を持つことが示され、ミサの中で賛美されることの大切さです。そして、臨時の朗読者である信徒たちについても、臨時の聖体奉仕者の任命式と同じような任命式を司教が行うこともできることが提示されました。この点については、今後、横浜教区典礼委員会で取り組みが始まることが期待されます。この点から明らかとなるのは、ミサの中で「みことば」を告げ知らせること、つまり、第1朗読や第2朗読の聖書を朗読することや答唱詩編の詩編を歌唱することは大変大きな栄誉であるとともに、重大な責務であることです。朗読奉仕をして下さる皆様、また、詩編唱者をして下さる皆様がこれまで以上に心を込め、祈りを込め、ミサに与る全員に、神さまの慈しみと愛に満ちた「みことば」を告げてくだされば素晴らしいと思います。

フランシスコ教皇様は、同文書の5項の中では説教について次のように指摘しておられます。

【アペルイット・イリス】

5項: 聴くことによって生まれるこの一致の中で、まず司牧者たちが聖書を解説しすべての人がそれを理解するように助ける責任を担っています。聖書は神の民の本ですから、ことばの奉仕に呼ばれている人々は、それが自分たちの共同体にとって身近なものとなるようにする緊急の必要性を感じなくてはなりません。

とくに、説教には独特な役割があります。なぜなら、それは「秘跡的ともいえる性格」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』142)をもっているからです。簡潔でふさわしいことばを通して人々が神のことばにより深く入っていけるよう助けることは、司祭たち自身が「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見することを可能にします。これは無駄にしてはならない司牧的な機会です!

実際、多くの信者にとってはこれが、神のことばの美しさを理解し、それが日常生活にどのようにあてはめられるか分かる唯一の機会なのです。ですから、説教の準備のために十分な時間をささげなければなりません。聖書朗読の解説は即興的であってはならないのです。わたしたちの中で、説教者の役割を担っている者は、長くて知識をひけらかすような説教をしてはいけませんし、関係のない話題へと話がそれていくことがあってはなりません。聖書のことばについて祈り、黙想する時間を取るなら、わたしたちは、何が大切で 実を結ぶことができるものであるかを伝えるために心から語ることができますし、それによってわたしたちに耳を傾ける人々の心に届けることができるのです。聖書が「人の言葉としてではなく、神の言葉として」(Ⅰテサロニケ 2・13)受け入れられることができるようになるために、わたしたちが倦むことなく聖書のために時間と祈りをささげることができますように。

カテキスタもまた、信仰において成長するために人々を助けるという自分たちの務めにおいて、聖書に親しみそれを研究することを通して、個人を刷新していく緊急の必要性を感じなければなりません。このことは、彼らに耳を傾ける人々のうちに神のことばとの真の対話を育てていく手助けになります。

フランシスコ教皇様は、「みことば」を説き明かす務めを有する司牧者についてまずは語っています。これは、私自身のことも当てはまりますし、また、今春、助祭叙階を受けてからのミサでは”Homilia”(ホミリア=「説教」)を行うようになる上杉神学生(その時には、上杉助祭様ですね)にも当てはまります。

そして、カテキスタ達につても言及があります。ここでいうカテキスタとは末吉町教会の現状に照らして考えてみると、教会学校リーダーや各言語共同体の幼児洗礼のためのご両親への準備セミナー担当者や結婚準備のセミナー担当者などのことも含むことがわかります。信仰において成長するために子どもたちを助けるという務めにおいて、また、幼児洗礼を望むご両親の心構えを固めるため、結婚を望む二人のために婚姻のひせきの恵み豊かさを伝える務めのためにおいて、まずは自分自身の「みことば」に向き合う姿勢の刷新を行うことを通して、より豊かに神様の恵みに触れ、神さまの恵みに満たされて人生を歩むことを心から望んでいる人々にもそれを伝えることが出来るようになるからです。

フランシスコ教皇様は「みことば」を心に向かえる私たち一人ひとりの旅路において、マリア様が共にいて下さることを次のよう説明しておられます。

【アペルイット・イリス】

15項: 神のことばをわたしたちの心に迎えるための旅路において、神の母はわたしたちに同伴してくださいます。主が自分に語ったことが実現すると信じたがゆえに、マリアは幸いな方と呼ばれました(ルカ 1・45 参照)。イエスによって宣言されたすべての幸い、つまり貧しい人々、悲しんでいる人々、柔和な人々、平和を実現する人々、そして迫害されている人々の幸いよりも先に、マリア自身の幸いがあります。なぜなら、それは他のすべて の幸いの必要条件だからです。貧しい人々は、貧しいから幸いなのではありません。彼らがマリアのように神のことばが実現することを信じるなら、彼らは幸いな者となるのです。 聖書の偉大な弟子であり教師でもあった聖アウグスティヌスは、かつて次のように書きました。「熱狂にとらわれて、群衆の中のある人が叫びました。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎[は]。』 イエスは答えました。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』 (同 11・27-28)。イエスはこう言っているかのようです。『あなたがたが幸いだと呼んでいるわたしの母は、神のことばを守っているから本当に幸いである。 彼女のうちでみことばが肉となり、わたしたちの間に宿られたからではなく、彼女が同じ神のことばを守ったからである。そのことばによって彼女は造られ、そのことばが彼女の胎で肉となったのである』」(『ヨハネ福音書講話』Tractus in Ioannis Evangelium,10, 3)。

神の民が聖書との敬虔で親密な関係において成長していくよう、神のことばの主日が彼らを助けるものとなりますように。かつて、聖なる著者が、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことができる」(申命記 30・14)と教えたように。

2019 年 9 月 30 日、聖ヒエロニモの記念日、その没後 1600 周年の始まりに    

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

                                 フランシスコ

フランシスコ教皇様は、「マリアのように神のことばが実現することを信じるなら、彼らは幸いなものとなるのです」と教えて下さっています。そして、申命記を引いて、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだからそれを行うことができる」(申30・14)と励まして下さています。

旧正月を迎えて大きな喜びのうちにあるアジア諸国の人々と共に、私たちも自分たちの生活の中で大きな喜びのうちに神のみことばを実践しながら、聖母と共にイエズス・キリストを自らの生活にお迎えして、善意が実りを豊かに結ぶ2月を過ごすことが出来ると素晴らしいですね。

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