着任のご挨拶(街ノ灯 5月号巻頭言より)

主任司祭 髙橋 愼一神父

この度、梅村司教様より、カトリック末吉町教会の主任司祭に任命をされました横浜教区司祭の髙橋愼一神父と申します。よろしくお願いいたします。
私は、1959年に東京の北見で生まれました。少年時代は、東京西部や横浜市各地で過ごしました。出身教会は、当時居住しておりました地にある秦野教会です。1990年に濱尾文朗枢機卿様より叙階の恵みを頂きましたので、司祭生活も30年を超えました、早いものですね。助任司祭時代は、二俣川、菊名教会に任命されましたが、その後は、主任司祭として静岡県各地の教会で司祭生活を過ごしてまいりましたので、横浜市に住むのは久しぶりです。実は、助祭として山手教会で過ごさせて頂いた時に、本籍地を山手教会に移してありましたので、自分では勝手に「故郷の中区に帰って来た」と思っております。
 末吉町教会のように伝統があり所属信徒が多い教会の主任司祭となるのは、初めてです。行き届かないところも多々あると思いますが、皆様よろしく御配慮御協力をよろしくお願いします。

亲爱的教友们您们好!
高桥慎一神父的问候
我的名字是高桥慎一神父,横滨教区所属的。我被梅村主教任命为天主教末吉町教堂的本堂神父。 初次见面,以后请多多关照。
我在1959年出生在东京北见。 小时候,我在东京西部和横滨各地长大了。 我当地教会是我当时居住的地方的秦野教堂。 我在1990年领了滨尾文朗红衣主教祝圣司铎了。所以我的司铎生活已经超过30年,我觉得过时间过的很快。 我当副本堂神父时,我被任命为二俣川教会和菊名教会,当我离开了两座教堂以后,我总是在静冈县各地的教堂里当本堂神父,所以我已经很久没有住在横滨市了。 实际上,当我在山手教堂当执事时,我把我的户口搬到了山手教堂, 所以我以为隔了好久回来自己认为老乡的中区。
我第一次担任末吉町教堂这么历史很长教友也很多的教会的本堂神父。 我认为我自己很多地方水平还不够,请大家帮助我好吗。

ごあいさつ

末吉町教会 小教区管理者 保久 要神父

2022年6月1日付けで末吉町教会の小教区管理者の任命を受けました、保久(やすひさ)要(かなめ)と申します。末吉町教会では2007年から2008年にかけて、小教区管理者を半年ほどつとめておりましたので、今回は2度目の任命となります。突然の人事異動に皆様驚きと戸惑いを感じられていることでしょう。ご存知の通り、濱田神父様はこれまでとても熱心に宣教司牧活動にあたって来られました。しかしあまりにも多忙でオーバーワークとなり、体調を崩されてしまいました。少し休養が必要との判断から、療養されることになりました。濱田神父様の回復のためにどうかお祈りください。

 私は末吉町教会と同時に港南教会の小教区管理者にも任命され、さらに教区の事務局長も兼務しておりますので、なかなか時間がとれないと予想されます。皆様にはご不便とご迷惑をおかけすると思いますが、しばらくのあいだご辛抱願えればと存じます。

 横浜教区での小教区管理者任命には、2通りのケースがあり、一つは規定により75歳で主任司祭を引退した後、継続して主任司祭とほぼ同じ仕事をする場合です。もう一つが今回の末吉町、港南両教会のケースで、主任司祭が任命されるまで、暫定的にその小教区をあずかるものです。おそらく来春の復活祭後には主任司祭が任命されると思います。

 なんとも不安なお気持ちになる方も多いかと思われますが、よいこともあります。主日のミサはこれから第3地区の神父様方がかわるがわる来てくださいます。従来のように1つの教会に1人ずつ主任司祭がいる形ですと、他の小教区に出向いて行かない限りほかの司祭のミサに与る機会がなかなかありません。昨今コロナ禍で参列者が制限されている中ではなおさら難しいことです。それがこれからは、末吉町教会にいながらにして、いろいろな説教が聞けるのです!せっかくの機会ですから、どうかワクワクしながら毎週楽しみにしてください。

 教会は司祭のものではなく、キリストに呼び集められたすべての者の共同体です。ともに呼ばれた者として、これからご一緒に歩んでいきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。

聴くことは神さまの似姿になること

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 主のご復活おめでとうございます。枝の主日にあたっては今年も聖堂外からの全員での荘厳な行列による入堂は叶わなかったとはいえ、枝の祝福を行い、盛儀の入堂式を行うことが出来ました。枝を準備して下さった皆様、ありがとうございました。また、聖週間の典礼は沢山の皆様が午後8時という遅い時間からでしたが参列して心を込めて主の受難の道を共にたどり、復活徹夜祭では3名の方が洗礼、堅信、初聖体の秘跡を受け、神さまの恵みに満たされて私たちの信仰共同体の新しい兄弟姉妹としての歩みを始められました。本当におめでとうございます。また、今年からイースターエッグの祝福と配布を再開することを教会委員会の皆様が快く了承して下さり、教会学校リーダー会と保護者の皆様のご協力で440個作成し、復活徹夜祭ミサと復活祭ミサでお配りすることが出来ました。ご協力くださった皆様、ありがとうございました。

 4月17日(日)主の復活の主日の午後からは、フィリピン共同体の皆様が路上生活をする皆さんへのHomeless feeding programのために募って寄附をしていただいた食料品や飲料等をパッキングし、また、温かい食事を用意して下さり、18:00から関内駅地下街、関内駅高架下、横浜スタジアムの軒下等で100名を超える方々に主の復活のお祝いを届けることが出来ました。フィリピン共同体の皆様、本当にありがとうございました。こうして、主の復活の喜びを具体的な隣人愛の実践を通して証しすることが出来たこと、末吉町教会信仰共同体全体にとって大きな喜びの時でした。

 4月24日(日)神のいつくしみの主日には、教会学校の始業式祝福式と、新小1、新中1の新入学の祝福式と教会からのプレゼントの贈呈式を行うことが出来ました。新小1には卓上十字架を、新中1には新共同訳新約聖書を祝福して贈ることが出来ました。教会学校リーダー会の皆様のご尽力と、保護者の皆様のご協力に心から感謝申し上げます。こうして、子供たちが信仰をもって健やかに成長していく姿を目の当たりにできることは何よりも大きな喜びです。子供たちの成長のためにぜひお祈りください。

 5月1日(日)からは、これまで断続的に中止や再開を繰り返してきた中国語ミサですが、上野のイエズス会中国センターから井上神父様に来て頂いて再開することが出来ました。こうして、各共同体が祈る機会が増えていくこと、コロナ禍も3年目を迎える中で非常にうれしく思います。また、11:00からはベトナム共同体の皆様が「聖母への奉献式」(DÂNG HOA ĐỨC MẸ)を今年も実施してくれました。とても美しく、祈りに満ちた聖母マリアへの崇敬が行われたこと、本当にうれしく思います。ベトナム共同体の皆様、本当にありがとうございました。なお、この模様はYouTube配信をしていますので、以下のURLからご覧いただくことができます。

 また、11:30の日本語ミサ、14:00の英語ミサの際には、それぞれの共同体から私の司祭叙階15周年のお祝いをして下さり、心より感謝いたします。2007年5月3日の司祭叙階から15年が過ぎ、16年目を迎えました。末吉町教会でも2016年4月の赴任から6年が経ち、7年目を迎えます。これからも皆様とご一緒に祈りのうちに神様のいつくしみと愛を証ししながらともに歩んでいければと心から願っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、カトリック教会では1962年から1965年にかけて開催された第2バチカン公会議の最初の公文書として公布された「広報機関に関する教令」によって、毎年、「世界広報の日」を全世界で記念するように定めました。「世界広報の日」は世界中で毎年、聖霊降臨の主日の直前の復活節第7主日でお祝いするのですが、日本の教会では、典礼暦では木曜日にお祝いされることになっている主の昇天の祭日を、復活節第7主日にお祝いする特例を用いていますので、その1週間前の復活節第6主日にお祝いしています。

 第2バチカン公会議の閉幕後、1967年から毎年、教皇メッセージが発表されていますが、フランシスコ教皇様は第56回を迎える2022年には「心の耳で聴く」というテーマでメッセージを発表されました。実際にどのような内容のメッセージをフランシスコ教皇様は私たちに向けて送ってくださっているかを見ていきたいと思います。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/06/24464/

【第56回「世界広報の日」教皇メッセージ 心の耳で聴く】

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年は「来て、見る」ことが、現実を知るために、そして出来事の体験や人との直接の出会いから現実を伝えるために必要であることを考察しました。その流れで今年は、別の動詞、「聴くこと」に着目したいと思います。これはコミュニケーションのいろはには欠かせないもので、真の対話の絶対条件です。(略)

 ふだんは心の傷の治療に携わる著名な医師が、人間がもっとも必要とするものは何かと問われました。医師は、「聞いてほしいという尽きない欲求」だと答えています。これはほとんど表に出ることのない欲求ですが、教育者や養成者と呼ばれる人たちに、それとどう向き合うのかと問うのです。親や教師、司祭や司牧担当者、メディア関係者、社会活動や政治活動をする人たちなど、伝える役割の人に対してです。

心の耳で聴く

 聖書のページからわたしたちは、聴くことは単に音声認識を意味するだけでなく、神と人間とを結ぶ対話による関係と本質的につながるものだということを学びます。律法の最初のおきての冒頭のことば「聞け、イスラエルよ」(申命記6・4)は聖書でずっと繰り返され、聖パウロが「信仰は聞くことにより……始まる」(ローマ10・17)と断言するまで続きます。確かに主導権は、わたしたちに語りかける神にあり、わたしたちは神に耳を傾けることで神にこたえます。しかしその聴くということも、そもそも神の恵みによるものであり、父母のまなざしや声に反応する乳飲み子と同じです。五感のうち神が重視するのは、まさに聴覚のようです。おそらく視覚よりも感度が問われ、注意が必要なので、人間の自由にゆだねられるからではないでしょうか。

 聴くことは、謙遜な神の姿と相通じるところがあります。神は、語ることによって人間をご自分の似姿として造り、聴くことによって人間をご自分の対話の相手として認めます。神がそのようなご自分を明かされるのは、聴くという行為によって可能となるのです。神は人間を愛しておられます。だからこそ神はみことばを人間に語り、だからこそ人間の声を聴くために「耳を傾ける」のです。

 一方人間は、聞かずに済むように、その関係から逃れよう、背を向けて「耳をふさいで」しまおうとしがちです。聞くことを拒否することは、助祭ステファノの話に耳をふさぎ一斉に彼に襲いかかった聴衆がそうだったように(使徒言行録7・57参照)、往々にして、相手への攻撃となってしまうのです。

 このように、一方には自由なコミュニケーションによってご自分を明かす神がおられ、他方には耳を澄ませ、聴くことを求められている人間がいるのです。主は、人間が余すところなくあるべき姿になれるようにと、人間を愛の契約にはっきりと招いておられます。それは、他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなることです。聴くとは、本質的には愛の次元なのです。

 フランシスコ教皇様の今年の「広報の日」のメッセージの冒頭部分では、「聴く」ということが、神の似姿としての性質から来るものであり、本質的には私たちの自由意志に委ねられていることを指摘しています。だから時には人間は聞かないようにしよう、その関係から逃れようとすることもあったことを、神のみことばを雄々しく告げた助祭ステファノを攻撃した民衆の事例から明らかにしています。そして、「聴くこと」は、「他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなること」であって、愛の次元に属することを教えてくださいました。

 フランシスコ教皇様のメッセージは次のように続きます。

心の耳で聴く(続き)

 だからイエスは弟子たちに、自分たちの聴く姿勢を検証しなさいと求めておられます。「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ8・18)。そう勧告したのは、種を蒔(ま)く人のたとえ話をし、ただ聞けばよいのではなく、しっかりと聴かなければならないと弟子たちに理解させた後のことです。「立派なよい」心でみことばを受け入れ、それをよく守る人だけが、いのちと救いの実をもたらすのです(ルカ8・15参照)。話している相手、聞いている内容、聞き方に注意して聴くことによってのみ、コミュニケーションの作法を磨くことができます。作法の軸にあるのは理論や技法ではなく、「寄り添うことのできる心の力」(使徒的勧告『福音の喜び』171)です。

 皆に耳があって、しかも大方が申し分のない聴力に恵まれていても、他者の声を聞けないでいます。まさに、身体的なものよりもひどい、内的な聴覚障害があります。事実、聴くということは聴覚だけでなく人格全体にかかわっています。聴くことの真のメインステージは心です。ソロモン王が若くして知恵を発揮したのは、「聞き分ける心」(列王記上3・9)を与えてほしいと主に願ったからです。また聖アウグスティヌスは、心で聴くこと(corde audire)、つまり、ことばを外にある耳でではなく、霊的に心で受け取るよう勧めました。「耳に心をもつのではなく、心に耳をもちなさい」1。さらにアシジの聖フランシスコは、「心の耳を傾けてください」2と兄弟たちを諭しました。

 真のコミュニケーションを求めるうえでまず再認識すべき聴く姿勢は、自分自身に耳を傾けること、つまり自分の真の望み、各人の内奥に刻まれているものに聴くということです。それにわたしたちを被造界の中で唯一無二の存在にしているもの、すなわち他者および絶対他者である神とかかわりたいという欲求に聴くことによってのみ、スタートし直すことができるのです。わたしたちは自己完結している原子としてではなく、ともに生きるように造られているのです。

 フランシスコ教皇様は聴く姿勢について、2013年、教皇になった年に公布した使徒的勧告『福音の喜び』での教えを繰り返して、「寄り添うことのできる心の力」が必要なことを明確にします。そして、「聴く」ことは「心」で行われるので、賢者ソロモン王のように「聞き分ける心」を神に願うことが必要だと指摘しています。この聞き分ける心は、まずは自分自身に向けられ、神と人と関わりを持つことを願い、ともに生きるように私たちを変えていきます。

 フランシスコ教皇様はコミュニケーションのあり方については次のように教えておられます。

よいコミュニケーションの条件である聴くこと

 正しく聴くことではない、それとは逆の聞き方があります。盗み聞きです。事実、これまでもこれからも存在し、今日のSNS時代にいっそう顕著になっているのは、自分の利益のために他者を利用しようとする、盗み聞きとのぞき見の誘惑です。それに対して、コミュニケーションを良好で完全に人間らしいものにするのは、まさしく顔と顔を突き合わせ、目の前にいる人に耳を傾けること、向き合おうとする他者に誠実に、信頼をもって、正直に心を開いて耳を傾けることです。

 残念なことに、聴くことの欠如は日常生活でたびたび経験されますが、それは政治の世界でも顕著で、そこでは大概、相手に耳を傾けるのではなく互いに言いっ放しです。これは、真理や善よりも周囲の賛同を求めていること、相手に耳を傾けるのではなく聴衆に聞き耳を立てていることの表れです。対してよいコミュニケーションとは、相手を揶揄する意図のあるジョークで聴衆に印象づけようとするのではなく、相手の理屈に注意深く耳を傾け、現実の複雑さを理解しようと努めることです。教会でさえイデオロギーの派閥が形成され、耳を傾ける姿勢が消え去り、不毛な対立に場を明け渡しているのなら、それは悲しいことです。(略)

 フランシスコ教皇様は、コミュニケーションを人間らしくするのは、面と向かって目の前にいる人に耳を傾け、向き合い、誠実に信頼をもって、正直に心を開くことにあることを指摘しています。私たちは時には、噂話や自分の先入観によって相手のことを決めつけてしまって、相手の本当の姿を見ようとはせず、相手の発する言葉についても真剣に受け取らずにいることもあるかもしれません。私たちの心のあり方を振り返る際の大きな手掛かりをフランシスコ教皇様は教えてくださいました。

 フランシスコ教皇様のメッセージは次のように続きます。

よいコミュニケーションの条件である聴くこと(続き)

 長期にわたるパンデミックで傷ついた今、社会の声に耳を傾ける力はとても重要です。「公式発表」に対して積み重ねられた強い不信感が、「インフォデミック(訳注:「インフォメーション」と「エピデミック」を組み合わせた造語。事実と虚偽の区別が困難になるほどに情報が氾濫する状態を指す)」までをも引き起こし、そうなると情報世界の信頼性と透明性の確保はいっそう難しくなります。耳を傾け、じっくりと聴かなければなりません。とりわけ、多くの経済活動の減速や停止によって高まっている社会不安に対し聴くことが必要です。

 やむなく移住した人たちの現実もまた複雑な問題で、解決の処方箋はどこにもありません。何度も申し上げていることですが、移住者に対する偏見を乗り越え、わたしたちの頑迷な心を解きほぐすには、彼らの話に耳を傾ける努力が必要です。彼ら一人ひとりに名前と来し方があるのですから。多くの優秀なジャーナリストは、すでにそれを行っています。ぜひ、そうしたいと考えているジャーナリストもたくさんいます。彼らを励ましましょう。その話を聞きましょう。そうすれば、自国にとって最善と思う移民政策をだれもが先入見なく選べるようになるのです。しかしいずれにせよ目の前にあるのは、ただの数でも危険な侵略者でもなく、生身の人間の顔と人生であり、耳を傾けるべき人々のまなざしであり、期待であり、苦しみなのです。

 フランシスコ教皇様は、コロナ禍で世界全体が大きな傷を負っていることを憂慮しておられます。そして、「情報」を理解するときに大切なこととして、その対象となっているのは名前を持っている生身の人間であることに再び気づくことの大切さを示しておられます。この点について、主日のミサのたびに、ウクライナ戦争で亡くなった無辜の市民や、祖国を守るために立ち上がり命を落としたウクライナの軍人や、徴兵制度によって強制的に戦地に送り込まれ命を落としたロシアの若者たちのために魂の永遠の安息を祈るとき、また、新型コロナウィルス感染症で苦しむ世界のための祈りをささげるときに教会全体としても意識していきたいと思っています。皆様の祈りは神様の手に委ねられたとき、本当に大きな慰めを、助けを必要とする魂へともたらすのだということを改めて思い起こしていただければ幸いです。

 フランシスコ教皇様のメッセージは次のように続きます。

教会の中で互いに耳を傾けること

 教会でも、耳を傾けること、互いに耳を傾け合うことはとても大切です。それはわたしたちが互いに差し出しうる、もっとも尊く豊かな贈り物です。わたしたちキリスト者は、聴くという奉仕のわざが、最高の聴き手であられる神から任されたものであり、そのかたのわざに加わるよう求められていることを忘れてしまっています。「われわれが神の言葉を語ることができるためには、われわれは神の耳をもって聞かなければならないのである」4。プロテスタント神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーはこう語り、交わりにおいて、他者にささげるべき第一の奉仕のわざは、その声に耳を傾けることだと思い出させてくれます。兄弟に耳を傾けることのできない人は、いずれ、神に耳を傾けることもできなくなるでしょう5。

 司牧活動でもっとも重要な仕事は、「耳での使徒職」です。使徒ヤコブが、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く」(ヤコブ1・19)ありなさいと諭したように、話すよりも聞くことです。人々に耳を傾けるために自分の時間の一部を無償で差し出すことは、最初の愛の行為です。(略)

 わたしたちがどんなときにも兄弟に耳を傾け、神に耳を傾けられますように。

聖母マリアの汚れなきみ心へのウクライナとロシアの奉献

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 末吉町教会では3月2日(水)19:30から沢山の方々が参列して、英語ミサ中、中国語と日本語も織り交ぜながら灰の水曜日のミサをお捧げすることが出来ました。また、3月5日(土)には教会学校四旬節黙想会を実施し、3月6日(日)には雪の下教会助任司祭の上杉優太神父様の指導で日本語の四旬節黙想会を実施しました。この講話は末吉町教会公式チャンネルでYouTube配信していますので、ご覧になることができます。また、3月13日(日)午後から夜まで、イタリアのアッシジにあるフランシスコ会大修道院にコンヴェンツァル・フランシスコ会日本管区から派遣されているTran Van Hoai神父様の指導でベトナム共同体の四旬節黙想会を実施し、3月26日(土)には山手教会助任司祭のダリル・ディーニョ神父様の指導でフィリピン共同体の四旬節黙想会を実施しました。こうして沢山の言語で四旬節黙想会を実施することが出来たので、沢山の霊的実りをそれぞれの共同体の皆様は受け取ることが出来たことと思います。

 また、3月20日(日)には日本語ミサ中に教会学校の終業式祝福式を実施することが出来ました。子どもたちの信仰は、大人たちの信仰の模範によって深められ、強められていきます。これからも港南教会が信仰共同体として次の世代に信仰を伝えていくことが出来るように、改めて私たちの信仰生活を振り返る機会にすることも素晴らしいと思います。同じく、3月20日(日)の14:00英語ミサ中、2名の幼児洗礼式を執り行いました。こうして、赤ちゃんを末吉町教会が信仰共同体として迎えることを出来たことを心から神様に感謝しています。

横浜教区では末吉町教会も属する神奈川第3地区の山手教会出身の水上神父様が3月21日(月)に山手教会で司祭叙階を受けられ、復活祭後からは保土ヶ谷教会の小教区管理者として任命をお受けになりました。皆様、新司祭の水上神父様と同じ地区の中で信仰の旅路を共に歩んでまいりますのでどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、フランシスコ教皇様は3月25日(金)神のお告げの祭日にあたって、バチカンのサンピエトロ大聖堂でウクライナとロシアの「聖母マリアの汚れなきみ心」への奉献式を司式なさいました。これに合わせて、全世界の司教様たちにも心を合わせて奉献を行うように呼びかけ、また、司教を通じてすべての信者にこの奉献に一致して祈るように呼びかけられました。これを受けて、末吉町教会でも、3月27日(日)の四旬節第4主日のミサの中で、ウクライナとロシアを聖母の汚れなきみ心へ荘厳に奉献いたしました。この奉献にあたり、フランシスコ教皇様は特別な式文を制定され、全世界の司教様たちにお送りになりました。この式文の中からとても印象深い個所を以下に抜粋します。

【ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り】

(略)  聖なる母よ、悲惨な罪の中で、疲れと弱さの中で、悪と戦争という理解しがたい不条理の中で、神はわたしたちを見捨てることなく、愛のまなざしを注ぎ続け、わたしたちをゆるし、再び立ち上がらせようと望んでおられることを、あなたは思い出させてくださいます。神はあなたをわたしたちにお与えになり、あなたの汚れなきみ心を教会と人類のよりどころとしてくださいました。神の恵みによって、あなたはわたしたちとともにいて、歴史の最も厳しい曲がり角においてもわたしたちを優しく導いてくださいます。

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。わたしたちはあなたに信頼を寄せています。とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

(略)

母マリアよ、わたしたちの願いを聞き入れてください。

海の星であるマリアよ、戦争の嵐の中でわたしたちを難破させないでください。

新しい契約の櫃であるマリアよ、和解への計画と歩みを奮い立たせてください。

「天の大地」であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。

憎しみを消し、復讐をしずめ、ゆるしを教えてください。

わたしたちを戦争から解放し、核の脅威から世界を守ってください。

ロザリオの元后、祈り愛することが必要であることを呼び覚ましてください。

人類家族の元后、人々にきょうだい愛の道を示してください。

平和の元后、世界に平和をお与えください。

 わたしたちの母よ、あなたの嘆きが、わたしたちの頑な心を動かしますように。あなたがわたしたちのために流した涙が、憎しみで涸れる谷に再び花を咲かせますように。武器の音が鳴りやまない中で、あなたの祈りがわたしたちを平和に向かわせますように。あなたの母なる手が、度重なる爆撃によって苦しみ、逃げまどう人々に優しく触れますように。あなたの母なる抱擁が、家と祖国を追われた人々に慰めを与えますように。あなたの苦しむみ心が、わたしたちのあわれみの心を動かし、扉を開き、傷つき見捨てられた人々のために尽くす者となりますように。

(略)

神の母、わたしたちの母よ、あなたの汚れなきみ心に、わたしたち自身を、教会を、全人類を、とくにロシアとウクライナを厳かにゆだね、奉献いたします。わたしたちが信頼と愛を込めて唱えるこの祈りを聞き入れてください。戦争を終わらせ、世界に平和をもたらしてください。あなたのみ心からあふれ出た「はい」ということばは、歴史の扉を平和の君に開きました。あなたのみ心を通して、再び平和が訪れると信じています。あなたに全人類の未来と、人々の必要と期待、世界の苦悩と希望を奉献いたします。

 あなたを通して、神のいつくしみが地上に注がれ、平和の穏やかな鼓動がわたしたちの 日常に再び響きますように。「はい」と答えたおとめよ、聖霊はあなたの上にくだりました。わたしたちの間に神の調和を再びもたらしてください。「ほとばしる希望の泉」であるマリアよ、渇いたわたしたちの心を潤してください。人類をイエスに織り込んだマリアよ、わたしたちを、交わりを作り出す者としてください。わたしたちの道を歩まれたマリアよ、平和の道へと導いてください。アーメン。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/03/24/24408/

 フランシスコ教皇様はこの奉献の式文をお捧げになってから、二人の男女の子どもたちと聖母マリアの御像に白いバラでいっぱいの籠をお捧げになりました。そして、御像に献香をされ、私たちの祈りがこの香の煙と共に天高く立ち上るように祈られました。それからミトラ(司教冠)をかぶり、バクルス(司教杖)を手に取って、子供たち二人の額に十字架のしるしを刻んで祝福され、退堂なさいました。

 私たちにとって、聖母マリアの汚れなきみ心により頼んで私たち自身を、教会を、全人類を、とくにロシアとウクライナを奉献することは、「わたしたちを、交わりを作り出す者としてください」という祈りにあるように、私たち一人一人が自分の生活の中で平和のために力強く一歩を踏み出して具体的な行動を始めることと結びついています。自分の生活の中で、自分の家族と、自分の友人たちと、自分の同僚や学校の仲間たちと、自分の生活する地域社会の人々との間で平和を実らせていく努力を、聖母マリアの汚れなきみ心からあふれ出る救い主イエズス・キリストへの深い愛に助けられ、勇気づけられて始められるとき、本当の意味で、私たち自身が奉献された者としての歩みを始めることができます。

 ちなみに、「奉献」という言葉はラテン語の”Consecratio”(コンセクラツィオ)という言葉の訳語ですが、”con”は「ともに」という接頭辞で、”Secratio”は”sacrare”(サクラーレ)と言う単語から来ています。この「サクラーレ」という単語は、ある者/物を「聖である」とする、もしくは宣言する、という意味です。したがって、「奉献する」ということは、これまでの通常の状態からある者/物を取り分けて、神さまのための者/物にするという意味があります。今回の聖母マリアの汚れなき御心への奉献式を経たことで、私たち一人一人がこれまでの自分から変えられて、本当に聖なることのために、特に平和のために尽力する者として取り分けられたことを心に刻むことはとても重要なことです。

 2007年12月5日の一般謁見演説でベネディクト16世教皇様は「アクイレイアの聖クロマティウス」司教様について講話をなさいました。

https://www.cbcj.catholic.jp/2007/12/05/3892/

 この講話の中で、聖クロマティウス司教について、ベネディクト16世教皇様は次のように説明しておられます。

【教皇ベネディクト十六世の119回目の一般謁見演説 アクイレイアの聖クロマティウス】

 アクイレイアの聖クロマティウス(Chromatius Aquileiensis 407年頃没)を考察します。この司教は古代のアクイレイアの教会でその奉仕職を果たしました。アクイレイアはローマ帝国の第10属州「ヴェネティア・エト・ヒストリア(Venetia et Histria)」にあってキリスト教的生活の生き生きとした中心でした。388年、クロマティウスがアクイレイアの町の司教座に上げられたとき、この地域のキリスト教共同体はすでに福音への信仰における輝かしい歴史で満たされていました。3世紀半ばから4世紀初頭にかけて、デキウス帝(Gaius Messius Quintus Decius 在位249-251年)、ウァレリアヌス帝(Publius Licinius Valerianus 在位253-260年)、ディオクレティアヌス帝(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus 在位284-305年)の迫害が多数の殉教者の命を奪いました。さらにアクイレイアの教会は、当時の他の多くの教会と同じように、アレイオス派の異端の脅威にさらされていました。ニケア公会議の正統教義の主唱者であり、アレイオス派によって追放されたアタナシオ(Athanasios 295頃-373年)も、一時アクイレイアに逃れていました。司教たちの指導の下に、アクイレイアのキリスト教共同体は異端の企てに立ち向かい、カトリック信仰との一致を強めました。

 この聖クロマティウス司教の生涯をベネディクト16世教皇様は次のよう描写します。

 クロマティウスはすでに家庭において、キリストを知り、愛することを学びました。ヒエロニモも最高の賛辞をもってそのことを語ります。ヒエロニモはクロマティウスの母を女預言者アンナに、二人の姉を福音のたとえ話の賢いおとめたちに、クロマティウス自身と兄弟エウセビウスを若いサムエルにたとえます(『書簡7』:Epistulae 7, PL 22, 341参照)。さらにヒエロニモはクロマティウスとエウセビウスについてこう述べます。「至福なるクロマティウスと聖なるエウセビウスは血の絆によってだけでなく、理想の形によっても兄弟でした」(『書簡8』:Epistulae 8, PL 22, 342)。

 クロマティウスは345年頃アクイレイアに生まれました。助祭、ついで司祭に叙階され、ついにはアクイレイアの教会の司牧者に選ばれました(388年)。司教アンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)から司教叙階を受けたクロマティウスは、勇気と力をもって大きな課題に取り組みました。彼が司牧するようゆだねられたのは広大な領域だったからです。実際、アクイレイアの裁治権は現在のスイス、バイエルン、オーストリア、スロベニアからハンガリーにまで及びました。聖ヨハネ・クリゾストモ(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)の生涯の逸話から、クロマティウスが当時の教会でどれほど有名で尊敬されていたかを知ることができます。このコンスタンチノープルの司教が司教座から追放されたとき、皇帝の支持を得るために、彼は西方教会でもっとも重要と考えた司教に宛てて3通の手紙を書きました。1通目はローマ司教に、2通目はミラノ司教に、3通目はアクイレイアの司教、すなわちクロマティウスに宛てたものでした(『書簡155』:Epistulae 155, PG 52, 702)。クロマティウスにとっても、不安定な政治情勢によって、時代は困難なものでした。クロマティウスは、クリゾストモが死んだのと同じ年の407年、蛮族の侵入から逃れようとしているとき、追放先のグラドで死んだと思われます。

 ベネディクト16世教皇様は聖クロマティウス司教の信仰のあり方を次のように描写します。

 クロマティウスがまず何よりも努めたのは、みことばに耳を傾けることでした。それはみことばを告げ知らせることができる者となるためです。クロマティウスは教えの中でいつも神のことばから出発し、いつも神のことばに戻ります。クロマティウスはいくつかのテーマを特に好みました。まず何よりも「三位一体の神秘」です。彼は救いの歴史全体を通じて示されたこの神秘を観想しました。第二のテーマは「聖霊」です。クロマティウスは信者が教会生活における聖なる三位一体の第三の位格である聖霊の現存と働きを思い起こすように絶えず求めました。しかし聖なる司教クロマティウスが特に強調したのは「キリストの神秘」です。受肉したみことばは、真の神にして真の人です。みことばは完全な形で人性をとりました。それは人類にご自身の神性のたまものを与えるためでした。この真理が、アレイオス派を反駁するために再び主張されることにより、50年後のカルケドン公会議(451年)の定義に役立ったのです。キリストの人間本性をはっきり強調することから、クロマティウスは「おとめマリア」について語るよう導かれました。クロマティウスのマリアに関する教えは明快かつ正確です。わたしたちはクロマティウスから至聖なるおとめに関する意味深いことばを聞くことができます。マリアは「神を受け入れることのできた福音的なおとめ」です。マリアは「汚れも傷もない小羊」です。この小羊は「紫の衣をまとった小羊」を産みます(『説教23』:Sermones XXIII, 3, Scrittori dell’area santambrosiana 3/1, p. 134参照)。アクイレイアの司教クロマティウスはしばしばおとめマリアと教会を関連づけます。実際、おとめマリアと教会はともに「おとめ」にして「母」です。クロマティウスの「教会論」は何よりもマタイによる福音書の注解の中で展開されます。そこではいくつかの考えが繰り返し述べられます。教会は唯一であり、キリストの血から生まれました。教会は聖霊によって織られた尊い衣です。教会は、キリストがおとめから生まれたことを告げ知らせる場であり、兄弟愛と一致で満たされた場です。クロマティウスが特に好んだイメージは、嵐の海に浮かぶ船でした。すでにお話ししたように、クロマティウスも嵐のような時代に生きていました。聖なる司教はこう述べます。「この船が教会を表すことは間違いありません」(『マタイ福音書注解』:Tractatus LXI in Evangelium Matthaei XLII, 5, Scrittori dell’area santambrosiana3/2, p. 260)。

 聖クロマティウス司教の生涯から明らかとなるのは、どのような困難な状況の中でも、父と子と聖霊の三位一体の神への信仰を生き抜くことが希望をもたらすこと、そして、神さまから前へと進む勇気が必ず与えられることです。そして、聖クロマティウス司教の神学から明らかとなるのは、聖母マリアに依り頼むことは、「神を受け入れることのできた福音的なおとめ」の保護の下で人生の旅路を歩むことになることです。自分の人生の中で、聖母マリアの汚れなき御心に自分自身が奉献されたことを教会共同体の中で実感していくことが出来るとき、聖クロマティウス司教が説明するように、「教会は、キリストがおとめから生まれたことを告げ知らせる場であり、兄弟愛と一致で満たされた場」であるので、私たち自身がどのような嵐の中でも決して難破することのない「嵐の海に浮かぶ船」に主イエズス・キリストと共に乗船していることが良く理解できるようになるのではないでしょうか。

 もう間もなく復活祭を迎えるために、四旬節の中でも特別に重要な準備の期間である聖週間を迎え、聖なる過ぎ越しの3日間を祈りながら過ごします。主イエズス・キリストの受難の道を聖母マリアの眼差しで見つめ、共に歩みながら、平和への祈りを深めていくことによって、素晴らしい復活祭を迎えられますように。

ウクライナ戦争の終結のために祈りを捧げましょう

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 2月24日のロシアによるウクライナ侵攻が始まる前日の2月23日(水)、フランシスコ教皇聖下は一般謁見の際に、今年の四旬節が始まる3月2日(水)をウクライナにおける平和のための祈りと断食の日とするように平和アピールをなさいました。バチカンニュースの日本語版では以下のように報じています。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2022-02/udienza-generale-appello-digiuno-per-la-pace-20220223.html

 「ウクライナにおける情勢の悪化のために心に深い悲しみを抱えています。ここ数週間の外交努力にも関わらず、その状況はいっそう危機的な展開を見せています。

 わたしと同じように、世界中の多くの人々が苦悩と不安を感じています。皆の平和が再び一部の人々の利害のために脅威にさらされています。

 神の前で真剣に良心を問いただすよう、政治責任を負う人々に呼びかけたいと思います。神は平和の神、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません。

 国家間の共存を破壊し、国際法を軽んじながら、人々の苦しみを増すようなあらゆる行動を控えるよう、関係するすべて当事者たちにお願いします。」

 ここで、信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします。特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」

 この呼びかけの翌日、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まりました。この人道上の危機と悲劇を目の当たりにしたフランシスコ教皇聖下は2月27日(日)のバチカンのサンピエトロ広場でのお告げの祈りのメッセージの中で更なる平和アピールをなさいました。バチカンニュースの日本語版では以下のように報じています。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2022-02/angelus-appello-per-la-pace-in-ucraina-20220227.html

ここ数日、わたしたちは悲劇的な出来事に衝撃を受けています。それは戦争です。

 わたしたちはこの戦争への道をたどらないようにと何度も祈りました。このことについて話し続けましょう。神にもっと強く祈り求めましょう。

 こうしたことから、3月2日の「灰の水曜日」に行われるウクライナの平和のための祈りと断食の日への参加を改めて呼びかけたいと思います。ウクライナの人々の苦しみに寄り添い、皆が兄弟であることを感じ、戦争の終結を神に祈る日です。

 戦争をする者は、人間性を忘れます。人々の側に立たず、一人ひとりの命を見つめず、一部の利害と権力しか考えません。

 武器の悪魔的でよこしまな論理に頼ることは、神の御旨から最も遠いことです。また、それは平和を望む一般市民から遠ざかることです。あらゆる紛争において、戦争の狂気の代償を身をもって払う真の犠牲者は普通の市民たちです。

 今この時、避難先を探すお年寄りたちや、子どもを抱いて逃げる母親たちを思います。これらの兄弟姉妹たちのために、緊急に人道回廊を開き、避難者を受け入れなければなりません。

 ウクライナで起きていることに心を引き裂かれると共に、イエメン、シリア、エチオピアなど世界の他の地域で起きている戦争をも忘れることはできません。

 繰り返します。武器を置いてください。神は、暴力を行使する者とではなく、平和を作る人々と共におられます。

 イタリアの憲法が唱えるように、平和を愛する人は「他の人民の平和を脅かす方法、国際的係争の解決手段としての戦争を認めない」からです。

 このフランシスコ教皇聖下の平和アピールを受けて、この2月の司教総会から日本カトリック司教協議会会長に就任なさった菊地大司教様が2月28日には「3月2日の灰の水曜日に、ウクライナにおける平和のために断食と祈りを捧げましょう」という題の会長談話を発表されました。この談話の中に次のような言葉があります。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/02/28/24173/

戦争は自然に発生するものではなく、人間が生み出すものです。第二次世界大戦前夜、ヨーロッパにおいて国家間の緊張が高まる中で、教皇ピオ12世は、「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」(教皇ピオ12世1939年8月24日のラジオメッセージ)と、世界に平和を呼びかけました。

 戦後、東西対立が深まり核戦争の危機が現実となったときに、教皇ヨハネ23世は『地上の平和』を著し、ピオ12世のその言葉を思い起こしながら、「武力に頼るのではなく、理性の光によって――換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(ヨハネ23世「地上の平和」(62)」こそ、国家間の諸課題は解決されるべきであり、その解決を、いのちを危機に直面させ、さらには人間の尊厳を奪う、武力行使に委ねることはできないと主張しました。

 今日、大国による他の独立国への軍事侵攻という事態を目の当たりにして、その決断がいのちをいま危機に陥れるだけでなく、将来の世界秩序に多大な負の影響を与えるであろうことを憂慮します。

 わたしたちの「共通の家」が平穏に保たれ、真の神の秩序が確立されるように、政治の指導者たちが対話を持って解決の道を模索することを心から求めます。

 この平和を希求する祈りは、灰の水曜日だけに限定されるべきではないと考えます。私自身、灰の水曜日には断食をしつつ、9:00の港南教会のミサを捧げ、勤務校の栄光学園の中3倫理でも教皇メッセージを紹介しつつ、平和への願いを抱くことについて生徒たちにグループディスカッションをしてもらい、15:40から学園の灰の水曜日ミサを捧げ、19:30からは末吉町教会で英語ミサで中国語と日本語を交えつつ平和の祈りを捧げましたが、それぞれの場で復活祭までの四旬節の日々、ぜひウクライナの人々のために祈るように呼びかけました。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR:第1次湾岸戦争が勃発した1991年から2000年まで緒方貞子氏が女性初の難民高等弁務官を務めており、その頃のカトリック教会のカウンターパートである教皇庁難民移住移動者評議会議長は横浜名誉司教であったステファノ濱尾文郎枢機卿様でした)の3月4日付の発表では、すでに120万人以上が近隣諸国に難民として脱出し、最大で400万人以上が難民になる可能性があるとしています。また、ウクライナに留まる人々のうち、約1200万人が救済と保護を必要としているとしています。400万人前後の人口とは、クロアチアやクウェート1国分の人数です。約1200万人の人口とはベルギーやチュニジアやキューバ1国分の人数です。

 3月4日には日本カトリック会館で日本カトリック難民移住移動者委員会委員の定例委員会がありましたが、その際に日本の船員司牧部門担当者(責任者)として以下の報告をしました。それは、黒海に接続しているアゾフ海での商業船の運航停止を2月24日にロシア軍が要請し、ウクライナのマリウポルの港が閉鎖されたという話です。激戦地となっているマリウポルは日本で生活していると馴染みが無いかもしれませんが、アゾフ海の港からは小麦や大麦、トウモロコシ等がロシアとウクライナから輸出されており、この2か国で世界の小麦輸出の29%、人間の食用や牛等の家畜の肥料になるトウモロコシ供給の19%、ヒマワリ油輸出の80%を占めています。

 このマリウポルの港近辺で日本企業が所有する船が攻撃を受けましたし、ステラマリス(カトリック教会の船員司牧)ウクライナの活動拠点である、国際貿易港のオデッサ港の沖合ではエストニアの貨物船が機雷によって沈没しました。オデッサ港は工業製品等の輸出入の拠点港です。商船運航にまで影響が出るということは、日本で生活する私たちの日々の生活で消費する物資の輸入にも影響が及ぶということです。

ウクライナ戦争は、決して私たちの日常生活から遠い場所で起きている戦争ではありません。カトリックの信仰を生きる日々の中で「主の平和」が地上に実現するように願い、主の祈りの中で「み国が来ますように。み心が天に行われる通り、地にも行われますように」と毎日何度も祈るとき、地理的距離を越えて私たちは世界中の人道危機の渦中にある苦しんでいる人たちと神さまの家族の一員として連帯していくことになるからです。

これほどの人道危機が生じている中で、特に皆様にはロザリオの祈りを捧げ、聖母の取次のうちに祈っていただきたいと思います。1858年2月11日から聖母マリアはフランスのルルドで聖ベルナデッタに18回にわたってお姿を現しましたが、2月24日の8回目のご出現の際に、「罪びとの回心のために神様に祈りなさい」と告げ、罪びとのために「償い」を果たすように勧められました。また、第1次世界大戦の末期の1917年にポルトガルのファティマで5月13日から6回にわたって聖ルシア、聖ジャシンタ、聖フランシスコにお姿を現しましたが、7月13日の3回目のご出現の際に、少女達の前に姿を現した聖母は次のような言葉を告げられました。

「戦争はもうすぐ終わります。しかし人々が神に背くことを止めないなら、ピオ11世の時代にもうひとつのもっと酷い戦争が始まります。夜、不思議な光が、空を照らすでしょう。それがあなた達に神様がお与えになる大きな印になります。その後、神様はいろいろな罪を戦争、飢餓、教会と教皇の迫害の形で罰されるでしょう。」そして、「それを阻止する為に、私はロシアが私の汚れないみ心に奉献されることと、初土曜日に償いの聖体拝領がなされることを望みます。もし人々が私の望みに耳を傾けるなら、ロシアは回心し、世界に平和が訪れるでしょう。もしそうしなかったら、ロシアは世界中に誤謬を広めて戦争と教会の迫害を推し進めることになるでしょう。罪のない人達が殉教し、教皇には多くの苦しみが訪れます。いくつかの国はもう無くなってしまいます。それでも最後には私の汚れないみ心が勝利を収めるでしょう。教皇はロシアを私に奉献し、ロシアは私に回心するでしょう。そして、何年かの平和が世界に訪れるでしょう。」と伝えられました。また、「あなたたちがロザリオを唱える時、一連ごとにこう言いなさい。『ああイエズスよ、我らの罪を許したまえ。我らを地獄の火より守りたまえ。また全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導きたまえ』」と仰って、ロザリオの祈りの各連の後に加える祈りを教えてくださいました。

私たちが平和を求めて祈るとき、申命記30章の神さまの御言葉は本当に力強い支えになります。

【申命記30章15節~20節】

15見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。 16わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。 17もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、 18わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。 19わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、 20あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

 末吉町教会は聖母の汚れなき御心に奉献された教会です。聖母の汚れなき御心の取り次ぎのうちに、ウクライナの人々のために主の平和が実るように祈るとともに、ウクライナ戦争で命を落とした無辜のウクライナ市民の永遠の安息のため、また、徴兵制度によって自分の意志とは関係なく徴兵されて戦場に赴くことを余儀なくされて命を落としたロシアの若者たちの永遠の安息の為にも心を合わせて祈りを捧げたいと思います。また、意思決定権者たちが自分の名誉や権力、欲望のために政策を決定するのではなく、悔い改めて一人でも多くの命を守り、国際法によって承認されている国境線及び国家主権を脅かすことなく、それぞれの国家が有する独立が維持され、人々の日々の生活が主のもたらす平和に満たされていくよう、ロシアの意思決定権者の過ちのための償いの犠牲と祈りも心を合わせて捧げたいと思います。

この巻頭言を使徒聖パウロのコリントの教会への第2の手紙をもって結びたいと思います。

【コリントの教会への第2の手紙1章3節~11節】 

3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 5キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。 6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。 7あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。

8兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。 10神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。 11あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

2月11日は第30回「世界病者の日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 2022年は2月1日に旧正月を迎え、中国では春節、ベトナムではテト、韓国ではソルラルのお祝いでした。中国共同体の皆様、ベトナム共同体の皆様、韓国共同体の皆様、新年おめでとうございます。皆様の上に神様の恵みがこの新年にあたり豊かに注がれますよう、心を込めて祈っています。

1月は9日(日)の11:30ミサ中に4名の新成人の祝福式が執り行われ、これまでの成長の歩みを見守って下さった神様に感謝を捧げるとともに、これからの大人としての一人一人の歩みの上に神様の恵みが豊かに注がれるように心を合わせてお祈りすることが出来ました。新成人の皆さん、本当におめでとうございます。また、16日(日)の14:00英語ミサではSt. Nino(サント・ニーニョ:幼子イエズスへの信心)のお祝いを盛大に捧げることが出来ました。こうして、日本にいても母国での信仰生活の中で大切にしてきた信心業を沢山のフィリピン共同体のメンバーの皆さんが大事にしている姿には、本当にイエズス・キリストへの信仰の深さを感じ、嬉しく思いました。

 一方で、新型コロナウィルス感染症の感染拡大を受け、2月の第1、第2日曜日の9:00からの中国語ミサについては、司式の井上神父様の健康を守るために、東京から来ていただくことを断念することとなりました。今後も、新型コロナウィルス感染症の感染拡大の状況が変わらない場合、皆様に我慢をお願いすること等もあるかもしれません。心苦しく思いますが、困難な状況の中でも心を合わせて神様の導きに信頼を置いてともに歩んでいければと願っています。

 先日の司祭月修で梅村司教様から発表がありましたが、私たちと同じ神奈川第3地区に属する山手教会出身のアウグスチヌス水上健次助祭様の司祭叙階が正式に決定し、3月21日(月)春分の日に13:00から山手教会で梅村司教様の司式で司祭叙階式ミサが執り行われることとなりました。コロナ禍の中でも、新司祭が横浜教区に誕生することを神様に感謝しつつ、叙階式の日まで水上助祭様のために心を合わせてお祈りいただければ幸いです。なお、司祭叙階式のミサには参列制限があり、司祭と教会委員長のみが参加することとなります。心苦しく思いますが、皆様はそれぞれの場で心を合わせて新司祭の誕生をお祝い下さい。

 さて、2月11日はルルドの聖母の任意の記念日で、世界病者の日として全世界のカトリック教会では心を一つに合わせて祈りを捧げます。末吉町教会でも病気で苦しんでいる方々のために霊的花束を捧げるために1月から皆様に祈りをお願いしています。2月13日(日)の11:30ミサで祭壇に皆様からの祈りをお捧げする予定です。

この世界病者の日は、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様によって1993年から始められました。そして、「病者がふさわしい援助を受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な援助を得られるように、カトリックの医療関係者だけでなく、広く社会一般に訴えていかなければなりません。」(カトリック中央協議会ホームページより)とされています。毎年、「世界病者の日」には、教皇様は病気で苦しむ方々を慰め、彼らが必要な支援を受けられるよう医療従事者を励まし、また、病気の人のために祈り、お見舞いに行く人々のことを応援してくださいます。今年は第30回を迎えますが、フランシスコ教皇様は『「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)愛の道にあって、苦しむ人の傍らにいる』という題で教皇メッセージを発表されました。フランシスコ教皇様のメッセージの中から以下の箇所をご一緒に味わっていきたいと思います。

【第30回世界病者の日 教皇メッセージより】

1.御父のようにあわれみ深く

 今回の第30回のテーマとして選ばれた「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)は、まずわたしたちの視線を「あわれみ豊かな」(エフェソ2・4)神に向けさせます。いつだって子らを、たとえ子どもたちが背を向けようとも、父の愛で見守ってくださる神です。まさに、あわれみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべてのわざの中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります。だからわたしたちは、神のあわれみには父性と母性(イザヤ49・15参照)の二つの側面が内包されているのだと、驚きと感謝をもって断言できるのです。神は、父の強さと母の優しさをもってわたしたちの面倒を見ておられ、聖霊によって新しいいのちを与えようと、たえず強く願っておられるからです。

 このフランシスコ教皇様の教えは、神さまと人間の関係性を考える上でとても重要です。私たちにとって、神さまの本質が強さと優しさの二つの側面を持っていることは、神さまから受けるお世話に父の強さと母の優しさがあること、そして、神さまからあわれみを受けていることに気づくことは、どんな状況においても私たちは決して見捨てられることはないのだ、ということに気づくことでもあることが分かります。

【第30回世界病者の日 教皇メッセージより】

3.キリストの痛みを負うからだに触れる

 御父のようにあわれみ深い者となりなさいというイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。わたしが考えているのは、医師、看護師、検査技師、病者の介助や介護のスタッフ、そして苦しむ人のために貴重な時間を割いてくれる多くのボランティアのことです。親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負ったからだに触れる皆さんの手は、御父のあわれみ深いみ手のしるしとなるはずです。皆さんの職業の特別な尊さと、そしてそれに伴う責任とを、どうか心に留めておいてください。

 医学の、とくに近年の進歩の恵みを、主に感謝しましょう。新たな技術によって数々の治療法が開発され、患者に大きな利益をもたらしています。古いものから新しいものまで、さまざまな病気の撲滅に貴重な貢献をなすべく、研究が続けられています。リハビリ医療は、その知見と技能を著しく発展させてきました。だからといって忘れてはならないのは、患者それぞれが、その尊厳と弱さを含めて唯一無二の存在であることです。患者はつねにその人の病気よりも大切で、だからこそ、どのような治療法も、患者の話に、これまでのこと、懸念、不安に、耳を傾けないままなされてはなりません。回復の見込みがない場合でも、ケアはつねに可能であり、なぐさめを与えることはつねに可能であり、病状にではなくその人に関心を示しているという寄り添いを感じてもらうことはつねに可能なのです。ですから医療従事者には、専門課程の間に、患者に傾聴するすべと、患者とのかかわり方を身に着けることを期待しています。

 このフランシスコ教皇様の教えを考えるときに重要なのは「医療従事者」の範疇について、資格を有する方々だけに限定せずに病者のために献身的に時間を割くボランティアまで含めている点です。年末年始には6名の方の葬儀ミサを捧げました。また、2月5日(土)にも葬儀ミサを捧げました。こうして、地上での人生の完成の時を迎える方々と向き合うとき、フランシスコ教皇様が指摘されたように、確かに数えきれないほど多くの方々の善意が織り成されていって、安心して地上での旅路を終えて神の御許への旅立ちの準備をしていくことが出来ます。この点について、フランシスコ教皇様は次のように教えています。

【第30回世界病者の日 教皇メッセージより】

5.司牧におけるあわれみ――いること、近しくあること

 ここ30年で医療司牧(パストラルケア)は、必須の奉仕としての認知度が高まったと思います。貧しい人――病者は健康状態において貧しい人です――が苦しむもっともひどい差別が霊的配慮の欠如なら、わたしたちは彼らに対し、神の寄り添い、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道への促しを差し出さずにいてはなりません。これについて、皆さんに覚えていてほしいことがあります。病者に寄り添うことや、彼らに対するパストラルケアは、専門的にそれに従事する一部の牧者だけの務めではないのです。病者を訪問することは、キリストからのすべての弟子に対する要請です。自宅で訪問を待つ病者や高齢者は、どれほど多いことか。なぐさめという奉仕の務めは、「わたしが……病気のときに見舞(ってくれた)」(マタイ25・36)というイエスのことばを心に留めながら行う、洗礼を受けたすべての人の責務です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。わたしはすべての病者とその家族を、病者のいやし手、マリアの執り成しにゆだねます。この世の痛みを身に受けておられるキリストと結ばれて、意義となぐさめを見いだし、自信をもつことができますように。すべての医療従事者のために祈ります。彼らがあわれみ深い者となり、患者に対する適切なケアだけでなく、兄弟愛からの寄り添いに努めることができますように。

 2018年2月号の「街ノ灯」巻頭言で以下のような文章を書きました。

病者への司牧訪問、病者の聖体拝領式、病者の塗油の秘跡は、カトリック教会がキリストの使命を果たす素晴らしい機会ですので、これまで以上に自分の時間を割いていこうと考えています。残念ながら、2016年4月に末吉町教会に赴任してきたときは、教会としては「病者訪問チーム」は解散してしまっていました。今年の目標は、「病者訪問チーム」を再建することです。皆様の中で、特にこの分野での教会の司牧に協力してくださる方が多く現れてくださることを心から願っています。

あれから4年が経ちますが、末吉町教会の福祉委員会の中に「ミゼリコルディアの会」を無事に設立することが出来ましたし、教皇様が訪問を待っているのだ、と強調している「訪問を待つ病者や高齢」の皆様をミゼリコルディアの会のメンバーの皆様とご一緒に頻繁に訪問し、病者の聖体拝領式や病者の塗油の秘跡、家庭ミサを捧げてきました。3年目に入ったコロナ禍の中でも、感染者数が比較的落ち着いている時期には、ご家族とご本人の意向を最優先にして訪問を希望なさるかどうかを確認したうえで、細心の注意を払って訪問を継続出来ています。こうして、末吉町教会が信仰共同体としてコロナ禍の中でもイエズス・キリストへの愛ゆえに、フランシスコ教皇様が教えてくださったように「なぐさめという奉仕の務めは、『わたしが……病気のときに見舞(ってくれた)』(マタイ25・36)というイエスのことばを心に留めながら行う、洗礼を受けたすべての人の責務」を十分に果たすことが出来ていることは、本当に大きな慰めのしるしになっています。

 まだまだ収束の兆しが見えないコロナ禍の中でも、信仰共同体として末吉町教会が祈りと行いにおいて神さまのいつくしみと愛を沢山の人にもたらすことが出来ていることを神に感謝しつつ、1日も早い全世界でのコロナ禍の収束を心を込めてご一緒に祈りながら歩む2月を過ごせれば、と心から願っています。

年間第3主日(2022年は1月23日)は「神のことばの主日」

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

2021年12月は、コロナ禍の中で長らく休止してきた聖なる十字架を愛する会修道院でのベトナム語ミサを再開し、12月14日からはフィリピン共同体のクリスマス・ノベナの9日間のミサであるSimbang Gabi を毎晩19:30から捧げ、12月26日には16:00から100名ほどのベトナム共同体のメンバーが集い、1年の間、神さまから頂いた恵みに感謝してベトナム語ミサをマイ・タム神父様とご一緒に捧げました。また、19日(日)には18:00に教会で祈りを捧げてからフィリピン共同体の有志と一緒に路上生活者へのクリスマスプレゼントとして、温かい食事や食料品、日常必需品等を110名分用意して配布に出かけました。また、12月24日の20:00ミサの後、中国共同体の有志が準備して下さった60名分の食料品や生活必需品の路上生活者へのクリスマスプレゼントを、17名の子どもたちと15名の大人と一緒に配布しに行くことが出来ました。また、12月24日19:30から教会学校の子どもたちとリーダーたちと心を込めてペープサート劇による聖誕劇を上演することも出来ました。

コロナ禍の中で、いまだに皆様には大きな犠牲を強いるような活動制限のもとではありますが、こうして信仰共同体として末吉町教会が神さまの恵みを受けて伸び伸びと歩み続けることが出来ていることを心から神様に感謝しています。

2022年も1日は例年通り0:00ミサ、11:30ミサをお捧げすることが出来ました。そして本当に多くの方々と新しい年の始まりを神の母であり平和の元后である聖母マリアの取次のうちに祈り、お祝いすることが出来たことは神様の恵みに満たされた素晴らしい新年の幕開けとなりました。この新しい年の皆様の歩みの上に神様の祝福が豊かに注がれ、実り豊かな日々を重ねていくことができますよう、心を込めて祈っています。

 さて、2019年9月30日に公布されたフランシスコ教皇様の使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』によって「神のことばの主日」の制定が宣言され、一昨年、2020年の年間第3主日から実際に世界中のカトリック教会では「神のことばの主日」をお祝いし始めました。今年は3回目となります。「神のことばの主日」を祝うことは、クリスマスのお祝いをして間もない私たちにとって、とても大きな意味を持っています。それはイエズス・キリストが聖三位の神の第2のペルソナ(位格)、つまり、「みことば」であり、主の降誕とは、ヨハネ福音書1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあるように、「神のことば」である真の神が私たちと同じ人間性を取られ、人間の生命が神の目に美しく尊いものとして映っていることを意味するからです。

 パドバの聖アントニオは言葉と行いの関係性の重要性を説いて次のような説教をしました。ちなみに、聖務日課(教会の祈り)読書課に収載されている説教ですが、この聖人について教会の祈り読書課第2朗読の中に次のような説明があります。

 「十二世紀末にポルトガルのリスボンに生まれる。聖アウグスチノ修道会に入会して司祭に叙階されたが、やがてアフリカで福音宣教をするためにフランシスコ会に移った。しかし、アフリカに長くとどまることができず、フランスとイタリアで説教活動に従事するようになり、大きな成功を収め、多くの異端者を教会に連れ戻した。また、フランシスコ会で同会の修道者に神学を教える最初の教師でもあった。優れた学識と流れるような雄弁を特徴とする多くの説教を残した。三一年にパドバで死去。」

【パドバの聖アントニオ司祭の説教】

「行いが語るとき、言葉は生きたものとなる」

聖霊で満たされた人は、さまざまな言葉で語ります。ここで言うさまざまな言葉とは、キリストについてのさまざまな証し、すなわち謙遜、貧しさ、忍耐、従順などのことです。身につけたこれらのものを他の人々に示すとき、わたしたちはそれによって語っているのです。行いが語るとき、言葉は生きたものとなります。お願いします。言葉をひかえ、行いに語らせてください。わたしたちは言葉数は多いのですが、行いがそれに伴いません。このため、わたしたちは主から呪われます。主ご自身、葉が茂るだけで実がなかったいちじくの木を呪われたからです。グレゴリオも言っています。「説教者に課される鉄則は、その説くことを実践することである。」行いによってその説教を台無しにする人は、いたずらに教えの知識をひけらかしているにすぎません。

ところが、使徒たちは「聖霊が語らせるままに語りました。」自分の思いのままに語るのではなく、聖霊が語らせるままに語る人は幸せです。実際、自分の心のおもむくままに語る人が少なくありません。そのような人々は他人の語った言葉を盗み、それをあたかも自分の考えであるかのように述べ立てて、わがもの顔にするものです。このような人々、これに似た人々について、主はエレミヤ書で語っておられます。「見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を『託宣』と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう、と主は言われる。彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。わたしは彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる。」

ですから、わたしたちは聖霊が語らせるままに語りましょう。へりくだり、敬虔な心で聖霊に願い求めましょう。聖霊がその恵みを注いでくださり、わたしたちが五感を研ぎ澄まし、十戒を守ることでわたしたちのうちに五旬祭の日を成就し、鋭い痛悔の念に満たされ、信仰告白の火のような舌で燃え立ちますように。そして、燃え上がらせ、照らされた者として、聖人たちの輝きに包まれて三位にして唯一の神を見ることができますように。

 パドバの聖アントニオ司祭教会博士の説教の中で最初に注目したいのは、「キリストについてのさまざまな証し、すなわち謙遜、貧しさ、忍耐、従順など」の「行いが語るとき、言葉は生きたもの」となるという教えです。さらに聖アントニオは「お願いします。言葉をひかえ、行いに語らせてください。」とも懇願しています。この教えを考えるとき、「神のことば」を祝う主日を考えることは、イエズス・キリストが実際にどのように人々に関わってきたのかを考えることとつながっていることが良くわかります。

 聖アントニオは「使徒たちは『聖霊が語らせるままに語りました。』自分の思いのままに語るのではなく、聖霊が語らせるままに語る人は幸せです。」とも指摘していますが、初代教皇となった十二使徒の頭である聖ペトロとイエズス・キリストのやり取りの中で深く考えさせられる個所が聖書にあります。それは、最後の晩さんの際に、イエズス・キリストがペトロに3度の主の否認を予告した際に、ペトロは全力で打ち消しましたが、最終的に3度、主を否認したあとで、復活された主イエズス・キリストとペトロの間で交わされたやり取りです。主の晩さんの場面から聖書を見ていきましょう。

【ヨハネ福音書1336節~38節】

ペトロの離反を予告する

36シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 37ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

【ヨハネ福音書1815節~18節】

ペトロ、イエスを知らないと言う

15シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、 16ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。 17門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。 18僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

【ヨハネ福音書1825節~27節】

ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

25シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。 26大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」 27ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 このように、ペトロはイエズス・キリストに対して主の晩さんの席上で「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と力強く宣言したにも関わらず、主を否認してしまいました。つまり、この時点ではペトロの言葉と行いは一致していなかったことは明らかです。では、ペトロと主イエズス・キリストの関係性はここで断絶してしまったのでしょうか。決してそうではありません。皆様もご存じの通り、主の復活の後、聖ペトロは初代教皇として教会の礎として殉教の極みまで信仰を生き抜き、大きな証しを立てました。復活された主イエズス・キリストと聖ペトロとの個人的なやり取りがヨハネ福音書には記されています。

【ヨハネ福音書2115節~19節】

イエスとペトロ

15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 主イエズス・キリストは、ペトロの3回の否認について3回の問いを投げかけることで聖ペトロ自身が自らの行いを痛悔し、回心してイエズス・キリストに従っていくことを信仰宣言する機会をお与えになり、更には「わたしの羊を飼いなさい」と仰せになって偉大な使命をお与えになりました。この痛悔について、聖アントニオ司祭教会博士は、「聖霊がその恵みを注いでくださり、わたしたちが五感を研ぎ澄まし、十戒を守ることでわたしたちのうちに五旬祭の日を成就し、鋭い痛悔の念に満たされ、信仰告白の火のような舌で燃え立ちますように。そして、燃え上がらせ、照らされた者として、聖人たちの輝きに包まれて三位にして唯一の神を見ることができますように。」と願っています。

 「神のことばの主日」を祝うとき、私たち自身が自らの日々の言動を省み、十戒を守る生活を行うことが出来ていたかどうか、そして、信仰告白の火のような舌で燃え立ち、言葉と行いを一致させていたかどうか、三位にして唯一の神を見ようと願っていたかを振り返る機会とすることが出来れば本当に大きな実りを味わうことが出来ると思います。

【天主の十戒】

わたしはあなたの主なる神である。

1.わたしのほかに神があってはならない。

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4.あなたの父母を敬え。

5.殺してはならない。

6.姦淫してはならない。

7.盗んではならない。

8.隣人に関して偽証してはならない。

9.隣人の妻を欲してはならない。

10.隣人の財産を欲してはならない。

聖母のけがれなきみ心に倣って―12月8日は無原罪の聖母の祭日

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

  11月は死者の月でしたが、末吉町教会では11月7日(日)(毎年、11月第1日曜日英語ミサ)の14:00の英語ミサと、11月14日(日)(毎年、11月第2日曜日日本語ミサ)の11:30のミサでは、この1年の間に帰天された方々の御芳名を祭壇に捧げ、お一人お一人の永遠の安息をお祈りいたしました。また、11月14日(日)には、13:30から相沢墓地で、14:45からは上大岡墓地で今年も墓前の祈りをお捧げし、それぞれのご家族の墓地に納骨されている大切なご家族の魂に神様の恵みが豊かに注がれ、慰めが与えられるよう心を込めて今年もお祈り出来たことを嬉しく思います。

 11月14日(日)には七五三の祝福式をすることが出来ました。子どもたちのこれからの成長の歩みが神さまの祝福に満たされて素晴らしい歩みとなるようお祈りいたしました。また、11月21日(日)王であるキリストの祭日には11:30ミサ中、日本、フィリピン、中国、ベトナムの各共同体から10名の子どもたちの初聖体式が執り行われました。準備に当たり、ご尽力下さった教会学校リーダーの皆様、ご協力くださった保護者の皆様、本当にありがとうございました。一人一人の子どもたちのこれからの日々が御聖体の秘跡にまします主イエズス・キリストと共に歩むものとなるよう心を込めて祈っています。

 11月27日(土)には教会学校待降節黙想会を実施しました。一人一人が神さまと向き合い、ゆるしの秘跡も受け、主の降誕に向けての善い準備を始めることが出来ました。11月28日(日)にはフィリピン共同体のレジオマリエの3名の方の会員としての誓約式を執り行うことが出来ました。聖母マリアの御旗の下に集まって、祈りと使徒職を力強く果たしていってくださるよう、心から願っています。

 さて、12月8日(水)は無原罪の聖マリアの祭日です。「無原罪の御宿り」によって聖母マリアが母アンナの胎に宿ったことを思い起こします。ラテン語では Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae (インマクラータ・コンセプチオ・ベアテ・ヴィルジニス・マリエ)と言います。聖母マリアが神の恵みによって、原罪の汚れを存在のはじめから一切免れている、という教義です。

 大天使ガブリエルが聖母マリアを訪れた際に、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と挨拶した言葉にこの神秘が含まれていると理解されています。日本語では新共同訳では「恵まれた方」と訳され、アヴェマリアの祈りでは「恵みに満ちた方」と訳されている言葉は、ウルガタ訳聖書では”gratia plena”(グラツィア・プレナ)とあり、「神の恩恵」が充満していることを示していることが分かります。

【ルカ福音書1章26節~28節】

26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 この教えは1854年12月8日、教皇ピウス9世の回勅 Ineffabilis Deus(インエッファビリス・デウス) によって荘厳に教義として宣言されました。カトリック教会の典礼の二大枢軸はミサと聖務日課ですが、12月8日の聖務日課の典礼の読書課では聖アンセルモ司教教会博士の説教が全世界で朗読されます。ちなみに、聖アンセルモ司教教会博士について、聖パウロ女子修道会のホームページのLaudate

では次のように説明してあります。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=042101

4月21日 聖アンセルモ司教教会博士(1033年-1109年)

 中世思想の創始者、大神学者であり、カンタベリーの大司教であったアンセルモは、北イタリアのピエモンテの貴族の家に生まれた。16歳のときベネディクト会修道院に入ることを希望したが、一人息子として家を継がなくてはならない身分であることから、入会を拒否された。さらに優しかった母が亡くなったこともあって、自堕落な生活を送るようになった。

 しかし、修道院に入りたいという望みは消えておらず、26歳のとき誓願を立てることができた。アンセルモは人の心の動きを知ることに敏感で、それぞれに適した指導を与え、愛される修道院長として修道院の管理、修道者の指導、哲学の研究にあたった。その後カンタベリーの大司教となり、イギリス教会の基礎作りに貢献した。アンセルモは教師としても優れた人であり、また中世カトリック神学の基礎となったスコラ哲学の基礎を作った。

 この聖アンセルモ司教教会博士は聖母マリアについて次のように教えました。

聖アンセルモ司教の説教

処女(おとめ)よ、あなたの祝福によって自然はすべて祝福される

聖母よ、天、星、土、川、日、夜、人に治められるもの、人のために役立つものはすべて、あなたによっていわば復活させられ、名状しがたい新しい恩恵をもって飾られたことを喜びます。神をたたえる人間に治められ、また益するためにこそ造られた宇宙万物は、この生来の誉れ高い役割を失い、創造の目的に反して偶像に仕える人間の圧迫と濫用にしいたげられ、汚されて、まるで死んだも同然でした。ところが、今や万物は神を賛美する人間に治められ、利用されることで美しい姿を取り戻し、あたかも復活させられたように喜んでいます。

万物は、新しい、限りなく貴い恩恵を浴びて歓喜しました。それは、世を超越した創造主である神が、見えざるものとして自分たちを支配することを万物が感じとったときだけではなく、目で見えるかたちで自分たちのうちにあって、自分たちを使って聖化なさるものとして神を見たときに起こったことなのです。このように偉大な恵みは、祝福されたマリア、祝福された胎、祝福された実によってもたらされたのです。

陰府にいた者たちも、あなたの豊かな恩恵による解放を歓喜し、世を超えている天使たちも、再興された自らの状態に歓喜しています。事実、いのちを与える〔御子の〕死に先立つ時代に亡くなったすべての義人たちは、栄えある処女であるあなたから生まれた栄えある御子により、その捕らわれの状態からの解放を歓喜し、天使たちも半ば崩壊した彼らの国の再興に喜び勇んでいます。

限りない恩恵に満ちた方よ、創造されたものはすべて、あなたの満ちみてる恩恵のあふれに潤わされて再生されました。限りない祝福を受けた処女よ、あなたの祝福によって自然はすべて祝福されます。創造されたものが創造主によって祝福を受けただけでなく、実に創造主も被造物たるあなたにより祝福されました。

神はご自分に等しいものとして生んだ御子のみを、ご自分と同じく心から愛されましたが、その御子をマリアに与えられました。マリアを通じてご自分のために御子を造られましたが、それは別の子ではなく同じ御子であり、生まれながらにして神とマリアにとって同じ共通の子です。すべてあるものは神によって造られましたが、神はマリアから生まれました。神はすべてを創造されましたが、マリアは神を産んだのです。すべてを造られた神は、マリアから自らを造られました。しかも、このことによって、創造したすべてのものを再興されたのです。すべてを無から造ることのできた神は、それらが傷を受けたとき、マリアを通さずして再興させることを望まれませんでした。

このように、神は創造されたものの父であり、マリアは再創造されたものの母です。神は万物の創造の父であり、マリアは万物の再興の母です。神は万物を造った方をお生みになり、マリアは万物を救った方を産みました。神は、その方なくしては何も存在しない方をお生みになったのですが、マリアはその方なくしては、何もよいものになりえない方を産みました。

聖母よ、実に、主はあなたと共におられます。主のはからいによって、すべてあるものは主から恩を受けるとともに、あなたからも限りない恩を受けたのです。

 聖アンセルモ司教教会博士の教えから浮かび上がるのは、聖母マリアが傷ついたものを癒し、再興する方だ、ということです。新型コロナウィルス感染症について、ウィルスの変異株が続々と世界中で発見されるような状況の中で、傷ついた命を再興する方である聖母マリアの取次を願うことはとても時宜にかなった祈りだと言えるでしょう。

 聖母マリアがどれほど素晴らしい方で輝かしい方であるのかについて、聖ベルナルド修道院長は次のように説明をしています。ちなみに、聖ベルナルド修道院長教会博士について、聖パウロ女子修道会のホームページのLaudateでは次のように説明してあります。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=082001

8月20日 聖ベルナルド修道院長教会博士(1091年-1153年)

 ベルナルドは、フランスのブルゴーニュの貴族の家に生まれ、1112年に4人の兄弟と27人の友人を誘って、シトーのベネディクト会に入った。この修道会は労働と禁欲を厳守し、当時の修道院改革の中心をなしていた。2年後に、ベルナルドはクレルヴォーに新しい分院を建てるために派遣され、そこで亡くなるまで院長を務めた。

 クレルヴォー修道院の名声は高まり、ヨーロッパに68の修道院が設立され、また彼の弟子の中から、多くの偉大な人物が出た。彼は、修道院内のことにとどまらず、教会の組織上の諸問題の解決に尽力し、神の栄光と人びとの救いのために生涯をささげた。

聖ベルナルド修道院長の『聖母賛美』

いと高き御者から準備され、先祖によって前もって表されていたマリア

まさしく処女(おとめ)から生まれるということは、神の誕生にふさわしいことであり、また、処女から生まれるのにふさわしい方は、まさしく神なのです。ですから、人間の創造主が人となり、人からお生まれになるためには、まずご自分にふさわしい女性、み心にかなう女性をすべての女性の中から自分の母となるように選ぶこと、もっと正しく言えば、自分の母となるように創造なさったのは当然のことでした。

神はその方が処女であることを望まれました。すべての人の汚れを清めるべき汚れのない方は、全く汚れのない女性から生まれるはずだからです。神はまた、彼女が謙遜であることをも望まれました。後日、救いに必要な模範として諸徳の模範をすべての人に示される方は、心が柔和で謙遜な者として謙遜な女性から生まれるはずだからです。そこで、処女としてとどまりたいという願いをマリアのうちに先に抱かせ、謙遜という美徳を彼女に先に与えてくださった神は、処女のままで子を産む恵みを彼女にお与えになったのです。

マリアの中にあった善のうちに、わずかでも恵みによらないものがあったとしたら、天使は彼女を恵みに満ちた者と言うことができなかったでしょう。

至聖なる方を宿し、産むはずの方は体において聖なるものとなるために処女性という恵みを受け、精神においても聖なるものとなるために謙遜という賜物を受けたのです。

処女マリアはこれら二つの徳の真珠に飾られた女王のように、体も精神も美しく輝くのです。その輝きと美しさは天の国に知れわたり、天使たちは彼女の上に目を注ぐのです。ついにマリアは王〔である神〕の心を奪い、天の使いが彼女のもとに遣わされることになったのです。福音記者は、「天使は、処女のもとに遣わされた」と言っていますが、彼女こそ体においても心においても処女であり、その決意と誓いによっても処女だったのです。つまり使徒パウロが述べているように、心も体も聖なる処女だったのです。彼女はそのとき、たまたま認められた処女ではなく、世々の昔から選ばれた処女、いと高き御者からは予知され、ご自分のために準備された処女、天使たちからは守られ、先祖によって前もって表され、預言者からは約束された処女だったのです。

 私たちが日々の生活の中で、聖母マリアが地上の生活を通して生き抜いた輝きと美しさに目を向けながら歩む時、私たち自身も聖母マリアの「心が柔和で謙遜な者」の模範に倣って生きることが出来るようになります。聖母マリアを満たした神の恩恵が、聖母マリアの中に善を形成し、他者への思いやりに満ちた関りへと聖母マリアの心を開いていったことを改めて思い起こし、私たちの心が聖母のけがれなきみ心に倣うものとなるように祈りながら日々の生活を送る12月にできると素晴らしいですね。

第5回「貧しい人のための世界祈願日」を迎えて

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 新型コロナウィルス感染症の拡大防止に神奈川県の一人一人が細心の注意を払っていく中で、10月25日からは月曜日から土曜日の午前7:00から午後6時まで聖堂の開放を再開することが出来ました。これまで、聖堂で祈りの時間を過ごすことを望んでおられる沢山の方に犠牲を強いることとなっていたこと、本当に心苦しく思っていましたが、これからは聖堂で祈りたいときにはどうぞいらしてください。

 さて、10月はロザリオの月でしたが、日曜日の11:00から、また、第1、第3日曜日の13:30からロザリオの祈りをお捧げすることが出来ました。祈りの輪が広がっていくことは本当に素晴らしいなと思います。11月に入っても、どうぞ皆様、毎日の生活の中でロザリオの祈りを捧げ続けてください。

10月10日(日)11:30ミサの結びの部分では3年ぶりに銀嶺会の祝福を、オンラインとの併用ではありましたがお授けすることが出来ました。2019年は台風で中止、2020年はコロナ禍のため中止をした銀嶺会(75歳以上の方の敬老の祝福式と食事会、教会学校等の演目の披露)ですが、今年は食事会を割愛し、また、これまで介護タクシーを教会で手配して来て頂いていた皆様についてはご自宅でYouTubeを通してではありますが、自力で聖堂に来られた方も含めて、人生の大先輩の皆様方お一人お一人の上に神さまからの祝福が豊かに注がれるように末吉町教会の皆で心を合わせてお祈り出来ました。また、教会学校リーダーからの歌のプレゼントもすることが出来ました。

10月30日(土)には、来たる11月21日(日)王であるキリストの祭日に行われる初聖体式に向けて、「拡大初聖体クラス」を15:00から18:50まで実施しました。今年は、日本、中国、フィリピン、ベトナムの各共同体から計10名が初聖体式を迎えます。30日には、洗礼の意味、聖堂の祭壇やご聖櫃、聖遺物についての講話の後、初聖体を迎える子どもたちと保護者のゆるしの秘跡を行いました。保護者のゆるしの秘跡を待つ間、子どもたちはレクリエーション・ゲームを行い、その後、聖堂で「聖母の土曜日」の式文でミサを捧げ、初聖体式を相応しく迎えられるように聖母マリアの取次を願って祈りを捧げました。10名の子どもたちのためにどうぞ皆様、お祈りください。また、10月31日(日)の11:30ミサでは1名の洗礼式を執り行いました。

 こうして、全ての世代が心を一つに合わせて信仰共同体としての歩みを深められていること、素晴らしいことだと思います。

 11月は死者の月です。特に末吉町教会では11月7日(日)(毎年、11月第1日曜日英語ミサ)の14:00の英語ミサと、11月14日(日)(毎年、11月第2日曜日日本語ミサ)の11:30のミサでは、この1年の間に帰天された方々の御芳名を祭壇に捧げ、お一人お一人の永遠の安息をお祈りします。皆様お一人お一人にとって大切なご家族やご友人の魂に神様の慈しみが豊かに注がれ、深い慰めが与えられるように今年もお祈り出来ればと願っています。また、11月14日(日)には、13:30から相沢墓地で、14:45からは上大岡墓地で今年も墓前の祈りをお捧げします。それぞれのご家族の墓地に納骨されている大切なご家族の魂に神様の恵みが豊かに注がれ、慰めが与えられるよう心を込めて今年もお祈り出来ることを嬉しく思います。

 さて、フランシスコ教皇様は2015年12月8日から2016年11月20日に開催された「いつくしみの特別聖年」の閉幕にあたり公布なさった使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』(2016年)で教皇フランシスコは、年間第33主日を「貧しい人のための世界祈願日」とすることを発表されました。この祈願日は、ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなされたキリストに倣い、わたしたちも、貧しい人、弱い立場にある人に寄り添い、奉仕することを決意し、不平等や不正義のない世界の実現に向けて、具体的なわざを通して神のいつくしみのあかし人となれるよう、祈り求めていく日とされています。今年は第5回目を迎えましたが、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ14・7というテーマで教皇メッセージが発表されました。このメッセージの中から特に以下の箇所を皆様と味わいたいと思います。

【第5回 貧しい人のための世界祈願日 教皇メッセージ】

2項b、cイエスが明かしてくださる神のみ顔は、実は、貧しい人に向けておられる御父のみ顔、貧しい人に寄り添う御父のみ顔なのです。イエスのすべてのわざが、貧困は運命によるものではなく、わたしたちの中にイエスがおられることの具体的なしるしだということを示しています。わたしたちが望む時に望む場所でイエスを見いだすのではなく、貧しい人の生活の中に、彼らの苦しみや困窮の中に、彼らが強いられるしばしば非人間的な境遇の中にイエスを認めるのです。何度も申し上げていますが、貧しい人こそ真の福音宣教者なのです。彼らは最初に、福音を受け、主とそのみ国の幸いを分かち合うよう招かれている人々だからです(マタイ5・3参照)。

 いかなる境遇でも、またいかなる場所にいても、貧しい人は、わたしたちを福音化してくれます。なぜなら彼らによってわたしたちは、御父の真の素顔に、つねに新しいかたちで気づけるようになるからです。「貧しい人は多くのことを教えてくれるのです。彼らは「信仰の感覚(sensus fidei)」にあずかるのに加え、自分自身の苦しみをもってキリストの苦しみを知っています。わたしたちは皆、彼らから福音化されなければなりません。新しい福音宣教とは、彼らの生活がもっている救いをもたらす力を認め、彼らを教会の歩みの中心に置くようにとの招きです。彼らのうちにキリストを見いだし、その代弁者となり、さらに彼らの友となって、耳を傾け理解し、彼らを通して神が伝えようと望んでおられる不思議な知恵を受け取るよう招かれているのです。わたしたちのかかわりは、促進と支援の行動や計画にとどまるものではありません。聖霊が引き起こしているのは、活動への過剰な傾倒ではなく、まず何よりも『ある意味で自分と一体とみなし』ている他者に目を向けることです。愛のまなざしは、人を本当の意味で心配することへの最初の一歩です。そこからその人の幸福を実際に求めるようになるのです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』198-199)。

 この2項では、フランシスコ教皇様は「信仰の感覚」を通して自分の苦しみをキリストの苦しみと重ね合わせている困難な状況の中にある一人一人のことを「真の福音宣教者」と呼び、このような人々との出会いの中で、カトリック信者一人一人が福音化されることで、「人を本当の意味で心配」し始めることが出来ること、また、相手の「幸福を実際に求めるようになる」ことが出来ることを教えてくださっています。

3項:イエスは貧しい人のそばにおられるだけでなく、運命そのものを彼らとともになさいます。このことは、いつの時代であれ、その弟子たちにとって重要な教えです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」というイエスのことばも、それを示しています。わたしたちの間に彼らはつねに存在していますが、そのことを無関心につながる慣れにしてはならず、むしろ、人任せではいけない人生を分かち合うこと、その呼びかけとすべきです。貧しい人は共同体にとって「部外者」ではなく、ともに苦しみを担うべき兄弟姉妹であり、彼らの苦労と疎外感を和らげることで失われた彼らの尊厳は回復され、欠かすことのできない社会包摂が確保されるのです。しかし、慈善行為というものは支援者と受益者を前提としていますが、分かち合うことからは兄弟愛が生まれることは、ご存じのとおりです。施しは散発的なもの、他方、分かち合いは永続的なものです。前者には、施す側を気持ちよくさせ、受け取る側の自尊心を傷つける危険がありますが、後者は、連帯感を強め、正義を実現するために必要な前提です。つまり信者たちは、イエスにじかに会いたい、自らの手で触れたいと思ったときに、どこへ行けばいいかを知っているのです。貧しい人々はキリストの秘跡であり、彼らはイエスの姿を表し、彼を指し示しているからです。

 貧しい人と分かち合うことを、人生の事業とした聖人たちの模範がいくつもあります。なかでもわたしは、救ハンセン病の使徒、ダミアン・デ・ブーステル神父に思いを馳せます。ダミアン神父は、ハンセン病患者と生き、彼らと死を迎えようと、患者しか入れないゲットーとなっていたモロカイ島に渡るという召し出しに、寛大な心をもってこたえました。病に冒されて追いやられ、どん底に突き落とされたそのあわれな人々の暮らしを、生活という名にふさわしいものにしようと、額に汗し、何でもしました。危険について考えもせず自ら進んで医師となり看護師となり、当時「死の集落」と呼ばれた島に愛の光をもたらしたのです。ハンセン病はダミアン神父にも襲いかかりますが、これは彼がいのちをささげた兄弟姉妹と、すべてを分かち合ったしるしでした。彼のあかしは、新型コロナウイルスのパンデミックに特徴づけられる今日に、実にかなったものです。人目につくことはなくとも、何らかの具体的な分かち合いをもって、もっとも貧しい人のために尽くす多くの人の心には、確かに神の恵みが働いているのです。

 この3項ではフランシスコ教皇様は、貧しい人について兄弟姉妹として迎えることの重要性を説き、そして、「分かち合うことからは兄弟愛が生まれること」に気づくことの重要性を教えてくださっています。そのうえで、「貧しい人々はキリストの秘跡であり、彼らはイエスの姿を表し、彼を指し示している」とまでも断言しておられます。そして、1800年にフランスで創立され、現在は世界30か国で宣教活動を行っており、日本では1949年以来、茨城県と山形県でも司牧している「イエズス・マリアの聖心会」(Congregation of the Sacred Hearts of Jesus and Mary)の会員の聖ダミアン神父様によるハワイのモロカイ島での命がけの兄弟愛の実践について触れています。なお、日本初、かつ民間のハンセン病治療院である静岡県御殿場市にある神山復生(こうやまふくせい)病院を1889年(明治22年)に設立したジェルマン・レジェ・テストウィド神父様(パリ外国宣教会)は、聖ダミアン神父様から治療薬の斡旋等を受けたこともあったそうです。こうして、苦しみのうちにある人々に寄り添っていく人には神の恵みが働いていることに気付くよう、フランシスコ教皇様は私たちに呼びかけておられます。

7項:こうした理由から、貧困に対して、これまでとは異なるアプローチが必要とされています。それは、政府や国際機関が、今後数十年にわたって世界全体に決定的な影響を及ぼす新しい形態の貧困に対抗しうる、長期的展望を備えた社会モデルをもって取り組むべき課題です。貧しい人が、その状況は自ら招いたものであるかのように疎外されてしまうと、民主主義の理念そのものが危うくなり、あらゆる社会政策が破綻してしまいます。わたしたちは、貧しい人を前にして彼らに采配を振るう資格がほとんどないということを、心から謙虚に認めなければなりません。わたしたちは彼らについて理屈で論じています。統計にとどまったり、ドキュメンタリーにして感動させようと考えたりしています。ですが貧困は、創造的な計画を生み出すはずです。各人固有の能力をもって、自己実現のための実際の自由度を高めるようにする計画です。お金があれば自由が認められ、その度合いが増すという考え方は、遠ざけておくべき幻想です。貧しい人に実際に仕えることで、行動へと駆り立てられ、人類に属するこの一団を元気づけ向上させるふさわしい方法を見つけられるようになります。ほとんどつねに、名で呼ばれず、声も奪われているものの、彼らには、助けを求める救い主のみ顔が刻まれているのです。

8項a「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ14・7)。これは、善を行う機会を見落とさないようにという呼びかけです。背景に、聖書にある古くからの命令が透けて見えます。「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。……彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」(申命記15・7-8、10-11)。同様に使徒パウロも、エルサレムの最初の共同体の貧しい人々を助けるために、自身の共同体のキリスト者に勧めています。「不承不承ではなく、強制されてでもなく」そうしなさい、「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(二コリント9・7)。いくばくかの施しでうしろめたさを和らげるのではなく、貧しい人々に対して無関心や不公平な態度を取る文化に対抗することが大切です。

 フランシスコ教皇様は「貧しい人のための世界祈願日」とは、「長期的展望を備えた社会モデルをもって取り組むべき課題」として貧困にこれまでとは異なったアプローチで取り組み始めることに気づく日であることを示しています。そして、困窮する一人一人を統計上の単なる数字として理解したり、逆に、ドキュメンタリーとしてただ感動を呼び起こすような理解をすることを慎重に避け、むしろ、旧約聖書と新約聖書に示されている神からの教えとして、一人一人と向き合い、善を行う機会に変えていくように呼びかけておられます。

9項b貧しい人のための世界祈願日は、今年で5回目を迎えますが、地方教会にしっかりと根づき、どこにあっても最初の要求として、貧しい人と交わるという福音化の運動へと開かれていくよう願っています。彼らから戸を叩いてもらうのを待っているわけにはいきません。わたしたちから、彼らの家へ、病院、介護施設、路上へと、目立たぬようにしている街の隅へ、避難所、受け入れ施設などへと出向き、彼らのもとを訪れることが急ぎ求められています。彼らが何を感じ、何を味わい、何を願いとして心に抱くのかを理解することが重要です。(略)

 フランシスコ教皇様の導きを末吉町教会としてもしっかりと受け止め、これからも「福音化の運動」の歩みを止めることなく祈りのうちに深めていければ素晴らしいと思います。

「家族年」に各ご家族で取り組んでいただきたいこと

 9月30日で特措法に基づく緊急事態宣言が神奈川県でも解除されましたが、依然、新型コロナウィルス感染症対策をすることが求められています。末吉町教会でも感染対策を厳重に実施しながら、慎重な対応を重ねつつ、司牧活動を実施していければと考えています。信徒の皆様におかれましては、ご自分と大切なご家族の健康維持をこれまで通り優先なさっていただければ、と願っています。

 9月中は、緊急事態宣言下ではありましたが、教会委員会での決定を経てミサや司牧活動を継続していました。この中で、9月中も教会学校のクラスをZoomを用いてオンライン参加する子供たちと、ミサ後に信徒会館で参加する子供たちとのハイブリッドで実施することが出来ました。この間、港南教会は教会委員会で教会閉鎖を決定していましたので、教会学校リーダー会の皆様のご厚意で港南教会の小中高校生も末吉町教会の教会学校にオンラインで参加してもらうことが出来ました。こうして、大変な状況の中でもデジタル技術を活用することで子供たちの信仰教育も教会学校リーダーの御尽力で続けることが出来ていることは本当に素晴らしいと思います。

 9月19日(日)には14:00からの英語ミサではフィリピン共同体の赤ちゃんの幼児洗礼式も執り行われ、新しい神様の華族を教会共同体として迎えることが出来たことを神様に感謝しています。また、初聖体クラスも始まり、11月21日(日)王であるキリストの祭日に向けて8名が準備を開始しました。8名の皆さんが喜びのうちに初聖体式を迎え、私たちの救い主イエズス・キリストを聖体の秘跡のうちに自らのうちにお迎えできるようにどうぞお祈りください。

 さて、フランシスコ教皇様は昨年、2020年12月27日、聖家族の祝日のお告げの祈りの中で、「使徒的勧告『愛のよろこび』の考察を深める特別年布告」をなさいました。そして、2021年3月に迎える、使徒的勧告『愛のよろこび』発表5周年を機に、同文書の考察を深める特別年の開催を明らかにしました。期間は2021年3月19日から2022年6月26日ですので、「『愛のよろこび』家庭年」は半分ほどが過ぎたところです。フランシスコ教皇様は、昨年の12月27日の聖家族の祝日に次のようなメッセージを発表されました。

【家庭年開催に向けての教皇メッセージ(2020年12月27日)】

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 降誕祭から数日後、教会の典礼は、イエス、マリア、ヨセフの聖家族に眼差しを注ぐよう招きます。神の御子が、他のすべての子どもたちと同じように、家族の温かさを必要としていたことを思うのは素晴らしいことです。まさにその事実ゆえに、ナザレの聖家族は、世界中のすべての家族が確かな拠り所、理想とする、模範的な家族なのです。

 聖霊の働きにより、おとめマリアが受胎した時、ナザレにおいて、神の御子の、人間としてのいのちの春が芽を出しました。ナザレの家庭の中で、マリアの母性的な配慮と、ヨセフの世話に囲まれて、イエスの幼児期は喜びのうちに過ぎていきました。イエスはヨセフの中に、神の優しさを見出していました(使徒的書簡パトリス・コルデ2)。

 わたしたちは、聖家族に倣い、家庭の教育的価値を再発見するようにと招かれています。その価値は、愛に基づいていなくてはなりません。愛は常に絆を新たにし、希望ある展望を開きます。

 家庭が祈りの家となる時、愛情が深く純粋である時、赦しが不和を超える時、日々の生活の困難が互いの優しさと神の御旨への安らかな従順によって和らげられる時、人は家庭の中で誠実な交わりを体験することができます。

こうして、家庭は、快く自分を与えるすべての人に神が与える喜びに、自らを開くことができ、同時に、外へ、他者へ、兄弟たちへの奉仕へ、より良い新しい世界の構築の協力へと開く、霊的な力を見出すことができるのです。それは、人々に前向きな刺激をもたらし、生き方の模範をもって福音を伝える家庭です。

 当然、どの家庭にも問題はあります。時には喧嘩もあるかもしれません。それでも、一日の終わりには仲直りをしてください。「冷戦」を翌日に持ち越すことは、ためになりません。家庭には、大切に守るべき三つの言葉があります。それは、「(…しても」いいですか?」「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉です。家庭内にこの三つの言葉があれば、その家族はうまくいくでしょう。

 今日の祝日は、夫婦と家族の愛の理想をあらためて示しながら、家庭を通しての福音宣教へと、わたしたちを招いています。それは、使徒的勧告『愛のよろこび』で強調されているとおりです。同勧告は、来年3月19日で発表から5周年を迎えます。これを機会に、『愛のよろこび』を考察する特別年が行われます。それは同文書の内容をより深く理解する機会となるでしょう。

 この使徒的勧告の実りは、皆の歩みに寄り添うために、教会共同体や家庭で役立てられるでしょう。教皇庁信徒・家庭・いのち省がこの特別年のために準備する企画への参加を、すべての皆さんに今から呼びかけたいと思います。ナザレの聖家族、特に配慮に満ちた浄配にして養父である聖ヨセフに、全世界の家族と共にするこの歩みを託したいと思います。

 これから唱えるお告げの祈りをもって、おとめマリアに助けを祈りましょう。全世界の家庭が、聖家族の福音的理想にいっそう魅了されますように。そして、これらの家庭が、新しい人類と、具体的・普遍的な連帯のパン種となることができますように。

 このフランシスコ教皇様の家庭年に向けてのメッセージの中で初めに注目したいのは、

当然、どの家庭にも問題はあります。時には喧嘩もあるかもしれません。それでも、一日の終わりには仲直りをしてください。「冷戦」を翌日に持ち越すことは、ためになりません。家庭には、大切に守るべき三つの言葉があります。それは、「(…しても」いいですか?」「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉です。家庭内にこの三つの言葉があれば、その家族はうまくいくでしょう。

という個所です。特にコロナ禍の中で私たち一人一人は自分では気づいていなくとも、相当強いストレスを受けている可能性がありますから、家族同士の関わりの中でもかつての自分では考えられないような感情的な反応を相手に対してしてしまう場面もあることと思います。このような状況は大切な家族の絆を傷つけてしまう危険性があります。ですから、まずは、一人一人が家庭の中で「○○してもいいですか?」と相手に問うこと、また、「ありがとう」と「ごめんなさい」を言葉にしていきながら、自分の素直な気持ちを相手に伝えることを心掛けることが大切だといえます。この小さな言葉は、私たちが祈りの

心を込めて口にするとき、聖霊の恵みに満たされて相手の心に大きな愛を届ける福音宣教の言葉になっていきます。ぜひ、ご自分のご家族の間で積極的にこの3つのことばをお互いに口に上らせるようになさってください。

 次にフランシスコ教皇様のメッセージの中で注目したいのは、

家庭は、快く自分を与えるすべての人に神が与える喜びに、自らを開くことができ、同時に、外へ、他者へ、兄弟たちへの奉仕へ、より良い新しい世界の構築の協力へと開く、霊的な力を見出すことができるのです。それは、人々に前向きな刺激をもたらし、生き方の模範をもって福音を伝える家庭です。

という個所です。皆様のご家庭がお互いの思いを伝えあうことの出来る温かい家庭になっていくとき、そこには相手への思いやりをもって自分の時間も力も相手のために喜んで使うことの出来る関係が深まっていくことをフランシスコ教皇様は指摘しています。こうして、家族の間で育まれた相手への思いやりと優しさに満ちた行いと言葉かけが、家族の輪からさらに沢山の多くの人たちへと広がっていくようになればより新しい世界を切り拓いていくようになります。皆様のご家族が新しい福音的な世界を築いていく大きな礎になっていくことをフランシスコ教皇様は望んでおられます。

 フランシスコ教皇様の大きな希望に満ちたそれぞれのご家族への期待に応えていくために、この10月の間、ロザリオの祈りをそれぞれのご家族でご一緒に捧げていただきながら、聖母マリアの取次のうちに歩んでいただければ、と心から願っています。