聴くことは神さまの似姿になること

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 主のご復活おめでとうございます。枝の主日にあたっては今年も聖堂外からの全員での荘厳な行列による入堂は叶わなかったとはいえ、枝の祝福を行い、盛儀の入堂式を行うことが出来ました。枝を準備して下さった皆様、ありがとうございました。また、聖週間の典礼は沢山の皆様が午後8時という遅い時間からでしたが参列して心を込めて主の受難の道を共にたどり、復活徹夜祭では3名の方が洗礼、堅信、初聖体の秘跡を受け、神さまの恵みに満たされて私たちの信仰共同体の新しい兄弟姉妹としての歩みを始められました。本当におめでとうございます。また、今年からイースターエッグの祝福と配布を再開することを教会委員会の皆様が快く了承して下さり、教会学校リーダー会と保護者の皆様のご協力で440個作成し、復活徹夜祭ミサと復活祭ミサでお配りすることが出来ました。ご協力くださった皆様、ありがとうございました。

 4月17日(日)主の復活の主日の午後からは、フィリピン共同体の皆様が路上生活をする皆さんへのHomeless feeding programのために募って寄附をしていただいた食料品や飲料等をパッキングし、また、温かい食事を用意して下さり、18:00から関内駅地下街、関内駅高架下、横浜スタジアムの軒下等で100名を超える方々に主の復活のお祝いを届けることが出来ました。フィリピン共同体の皆様、本当にありがとうございました。こうして、主の復活の喜びを具体的な隣人愛の実践を通して証しすることが出来たこと、末吉町教会信仰共同体全体にとって大きな喜びの時でした。

 4月24日(日)神のいつくしみの主日には、教会学校の始業式祝福式と、新小1、新中1の新入学の祝福式と教会からのプレゼントの贈呈式を行うことが出来ました。新小1には卓上十字架を、新中1には新共同訳新約聖書を祝福して贈ることが出来ました。教会学校リーダー会の皆様のご尽力と、保護者の皆様のご協力に心から感謝申し上げます。こうして、子供たちが信仰をもって健やかに成長していく姿を目の当たりにできることは何よりも大きな喜びです。子供たちの成長のためにぜひお祈りください。

 5月1日(日)からは、これまで断続的に中止や再開を繰り返してきた中国語ミサですが、上野のイエズス会中国センターから井上神父様に来て頂いて再開することが出来ました。こうして、各共同体が祈る機会が増えていくこと、コロナ禍も3年目を迎える中で非常にうれしく思います。また、11:00からはベトナム共同体の皆様が「聖母への奉献式」(DÂNG HOA ĐỨC MẸ)を今年も実施してくれました。とても美しく、祈りに満ちた聖母マリアへの崇敬が行われたこと、本当にうれしく思います。ベトナム共同体の皆様、本当にありがとうございました。なお、この模様はYouTube配信をしていますので、以下のURLからご覧いただくことができます。

 また、11:30の日本語ミサ、14:00の英語ミサの際には、それぞれの共同体から私の司祭叙階15周年のお祝いをして下さり、心より感謝いたします。2007年5月3日の司祭叙階から15年が過ぎ、16年目を迎えました。末吉町教会でも2016年4月の赴任から6年が経ち、7年目を迎えます。これからも皆様とご一緒に祈りのうちに神様のいつくしみと愛を証ししながらともに歩んでいければと心から願っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、カトリック教会では1962年から1965年にかけて開催された第2バチカン公会議の最初の公文書として公布された「広報機関に関する教令」によって、毎年、「世界広報の日」を全世界で記念するように定めました。「世界広報の日」は世界中で毎年、聖霊降臨の主日の直前の復活節第7主日でお祝いするのですが、日本の教会では、典礼暦では木曜日にお祝いされることになっている主の昇天の祭日を、復活節第7主日にお祝いする特例を用いていますので、その1週間前の復活節第6主日にお祝いしています。

 第2バチカン公会議の閉幕後、1967年から毎年、教皇メッセージが発表されていますが、フランシスコ教皇様は第56回を迎える2022年には「心の耳で聴く」というテーマでメッセージを発表されました。実際にどのような内容のメッセージをフランシスコ教皇様は私たちに向けて送ってくださっているかを見ていきたいと思います。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/06/24464/

【第56回「世界広報の日」教皇メッセージ 心の耳で聴く】

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年は「来て、見る」ことが、現実を知るために、そして出来事の体験や人との直接の出会いから現実を伝えるために必要であることを考察しました。その流れで今年は、別の動詞、「聴くこと」に着目したいと思います。これはコミュニケーションのいろはには欠かせないもので、真の対話の絶対条件です。(略)

 ふだんは心の傷の治療に携わる著名な医師が、人間がもっとも必要とするものは何かと問われました。医師は、「聞いてほしいという尽きない欲求」だと答えています。これはほとんど表に出ることのない欲求ですが、教育者や養成者と呼ばれる人たちに、それとどう向き合うのかと問うのです。親や教師、司祭や司牧担当者、メディア関係者、社会活動や政治活動をする人たちなど、伝える役割の人に対してです。

心の耳で聴く

 聖書のページからわたしたちは、聴くことは単に音声認識を意味するだけでなく、神と人間とを結ぶ対話による関係と本質的につながるものだということを学びます。律法の最初のおきての冒頭のことば「聞け、イスラエルよ」(申命記6・4)は聖書でずっと繰り返され、聖パウロが「信仰は聞くことにより……始まる」(ローマ10・17)と断言するまで続きます。確かに主導権は、わたしたちに語りかける神にあり、わたしたちは神に耳を傾けることで神にこたえます。しかしその聴くということも、そもそも神の恵みによるものであり、父母のまなざしや声に反応する乳飲み子と同じです。五感のうち神が重視するのは、まさに聴覚のようです。おそらく視覚よりも感度が問われ、注意が必要なので、人間の自由にゆだねられるからではないでしょうか。

 聴くことは、謙遜な神の姿と相通じるところがあります。神は、語ることによって人間をご自分の似姿として造り、聴くことによって人間をご自分の対話の相手として認めます。神がそのようなご自分を明かされるのは、聴くという行為によって可能となるのです。神は人間を愛しておられます。だからこそ神はみことばを人間に語り、だからこそ人間の声を聴くために「耳を傾ける」のです。

 一方人間は、聞かずに済むように、その関係から逃れよう、背を向けて「耳をふさいで」しまおうとしがちです。聞くことを拒否することは、助祭ステファノの話に耳をふさぎ一斉に彼に襲いかかった聴衆がそうだったように(使徒言行録7・57参照)、往々にして、相手への攻撃となってしまうのです。

 このように、一方には自由なコミュニケーションによってご自分を明かす神がおられ、他方には耳を澄ませ、聴くことを求められている人間がいるのです。主は、人間が余すところなくあるべき姿になれるようにと、人間を愛の契約にはっきりと招いておられます。それは、他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなることです。聴くとは、本質的には愛の次元なのです。

 フランシスコ教皇様の今年の「広報の日」のメッセージの冒頭部分では、「聴く」ということが、神の似姿としての性質から来るものであり、本質的には私たちの自由意志に委ねられていることを指摘しています。だから時には人間は聞かないようにしよう、その関係から逃れようとすることもあったことを、神のみことばを雄々しく告げた助祭ステファノを攻撃した民衆の事例から明らかにしています。そして、「聴くこと」は、「他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなること」であって、愛の次元に属することを教えてくださいました。

 フランシスコ教皇様のメッセージは次のように続きます。

心の耳で聴く(続き)

 だからイエスは弟子たちに、自分たちの聴く姿勢を検証しなさいと求めておられます。「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ8・18)。そう勧告したのは、種を蒔(ま)く人のたとえ話をし、ただ聞けばよいのではなく、しっかりと聴かなければならないと弟子たちに理解させた後のことです。「立派なよい」心でみことばを受け入れ、それをよく守る人だけが、いのちと救いの実をもたらすのです(ルカ8・15参照)。話している相手、聞いている内容、聞き方に注意して聴くことによってのみ、コミュニケーションの作法を磨くことができます。作法の軸にあるのは理論や技法ではなく、「寄り添うことのできる心の力」(使徒的勧告『福音の喜び』171)です。

 皆に耳があって、しかも大方が申し分のない聴力に恵まれていても、他者の声を聞けないでいます。まさに、身体的なものよりもひどい、内的な聴覚障害があります。事実、聴くということは聴覚だけでなく人格全体にかかわっています。聴くことの真のメインステージは心です。ソロモン王が若くして知恵を発揮したのは、「聞き分ける心」(列王記上3・9)を与えてほしいと主に願ったからです。また聖アウグスティヌスは、心で聴くこと(corde audire)、つまり、ことばを外にある耳でではなく、霊的に心で受け取るよう勧めました。「耳に心をもつのではなく、心に耳をもちなさい」1。さらにアシジの聖フランシスコは、「心の耳を傾けてください」2と兄弟たちを諭しました。

 真のコミュニケーションを求めるうえでまず再認識すべき聴く姿勢は、自分自身に耳を傾けること、つまり自分の真の望み、各人の内奥に刻まれているものに聴くということです。それにわたしたちを被造界の中で唯一無二の存在にしているもの、すなわち他者および絶対他者である神とかかわりたいという欲求に聴くことによってのみ、スタートし直すことができるのです。わたしたちは自己完結している原子としてではなく、ともに生きるように造られているのです。

 フランシスコ教皇様は聴く姿勢について、2013年、教皇になった年に公布した使徒的勧告『福音の喜び』での教えを繰り返して、「寄り添うことのできる心の力」が必要なことを明確にします。そして、「聴く」ことは「心」で行われるので、賢者ソロモン王のように「聞き分ける心」を神に願うことが必要だと指摘しています。この聞き分ける心は、まずは自分自身に向けられ、神と人と関わりを持つことを願い、ともに生きるように私たちを変えていきます。

 フランシスコ教皇様はコミュニケーションのあり方については次のように教えておられます。

よいコミュニケーションの条件である聴くこと

 正しく聴くことではない、それとは逆の聞き方があります。盗み聞きです。事実、これまでもこれからも存在し、今日のSNS時代にいっそう顕著になっているのは、自分の利益のために他者を利用しようとする、盗み聞きとのぞき見の誘惑です。それに対して、コミュニケーションを良好で完全に人間らしいものにするのは、まさしく顔と顔を突き合わせ、目の前にいる人に耳を傾けること、向き合おうとする他者に誠実に、信頼をもって、正直に心を開いて耳を傾けることです。

 残念なことに、聴くことの欠如は日常生活でたびたび経験されますが、それは政治の世界でも顕著で、そこでは大概、相手に耳を傾けるのではなく互いに言いっ放しです。これは、真理や善よりも周囲の賛同を求めていること、相手に耳を傾けるのではなく聴衆に聞き耳を立てていることの表れです。対してよいコミュニケーションとは、相手を揶揄する意図のあるジョークで聴衆に印象づけようとするのではなく、相手の理屈に注意深く耳を傾け、現実の複雑さを理解しようと努めることです。教会でさえイデオロギーの派閥が形成され、耳を傾ける姿勢が消え去り、不毛な対立に場を明け渡しているのなら、それは悲しいことです。(略)

 フランシスコ教皇様は、コミュニケーションを人間らしくするのは、面と向かって目の前にいる人に耳を傾け、向き合い、誠実に信頼をもって、正直に心を開くことにあることを指摘しています。私たちは時には、噂話や自分の先入観によって相手のことを決めつけてしまって、相手の本当の姿を見ようとはせず、相手の発する言葉についても真剣に受け取らずにいることもあるかもしれません。私たちの心のあり方を振り返る際の大きな手掛かりをフランシスコ教皇様は教えてくださいました。

 フランシスコ教皇様のメッセージは次のように続きます。

よいコミュニケーションの条件である聴くこと(続き)

 長期にわたるパンデミックで傷ついた今、社会の声に耳を傾ける力はとても重要です。「公式発表」に対して積み重ねられた強い不信感が、「インフォデミック(訳注:「インフォメーション」と「エピデミック」を組み合わせた造語。事実と虚偽の区別が困難になるほどに情報が氾濫する状態を指す)」までをも引き起こし、そうなると情報世界の信頼性と透明性の確保はいっそう難しくなります。耳を傾け、じっくりと聴かなければなりません。とりわけ、多くの経済活動の減速や停止によって高まっている社会不安に対し聴くことが必要です。

 やむなく移住した人たちの現実もまた複雑な問題で、解決の処方箋はどこにもありません。何度も申し上げていることですが、移住者に対する偏見を乗り越え、わたしたちの頑迷な心を解きほぐすには、彼らの話に耳を傾ける努力が必要です。彼ら一人ひとりに名前と来し方があるのですから。多くの優秀なジャーナリストは、すでにそれを行っています。ぜひ、そうしたいと考えているジャーナリストもたくさんいます。彼らを励ましましょう。その話を聞きましょう。そうすれば、自国にとって最善と思う移民政策をだれもが先入見なく選べるようになるのです。しかしいずれにせよ目の前にあるのは、ただの数でも危険な侵略者でもなく、生身の人間の顔と人生であり、耳を傾けるべき人々のまなざしであり、期待であり、苦しみなのです。

 フランシスコ教皇様は、コロナ禍で世界全体が大きな傷を負っていることを憂慮しておられます。そして、「情報」を理解するときに大切なこととして、その対象となっているのは名前を持っている生身の人間であることに再び気づくことの大切さを示しておられます。この点について、主日のミサのたびに、ウクライナ戦争で亡くなった無辜の市民や、祖国を守るために立ち上がり命を落としたウクライナの軍人や、徴兵制度によって強制的に戦地に送り込まれ命を落としたロシアの若者たちのために魂の永遠の安息を祈るとき、また、新型コロナウィルス感染症で苦しむ世界のための祈りをささげるときに教会全体としても意識していきたいと思っています。皆様の祈りは神様の手に委ねられたとき、本当に大きな慰めを、助けを必要とする魂へともたらすのだということを改めて思い起こしていただければ幸いです。

 フランシスコ教皇様のメッセージは次のように続きます。

教会の中で互いに耳を傾けること

 教会でも、耳を傾けること、互いに耳を傾け合うことはとても大切です。それはわたしたちが互いに差し出しうる、もっとも尊く豊かな贈り物です。わたしたちキリスト者は、聴くという奉仕のわざが、最高の聴き手であられる神から任されたものであり、そのかたのわざに加わるよう求められていることを忘れてしまっています。「われわれが神の言葉を語ることができるためには、われわれは神の耳をもって聞かなければならないのである」4。プロテスタント神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーはこう語り、交わりにおいて、他者にささげるべき第一の奉仕のわざは、その声に耳を傾けることだと思い出させてくれます。兄弟に耳を傾けることのできない人は、いずれ、神に耳を傾けることもできなくなるでしょう5。

 司牧活動でもっとも重要な仕事は、「耳での使徒職」です。使徒ヤコブが、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く」(ヤコブ1・19)ありなさいと諭したように、話すよりも聞くことです。人々に耳を傾けるために自分の時間の一部を無償で差し出すことは、最初の愛の行為です。(略)

 わたしたちがどんなときにも兄弟に耳を傾け、神に耳を傾けられますように。

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