イエズス・キリストの家族になる

末吉町教会「街の灯」2019年8月号巻頭言

イエズス・キリストの家族になる

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

 7月13日(土)に港南教会のベトナム共同体の1歳半から91歳までの23名と、日本人4名と、末吉町教会の英語ミサの聖歌隊で歌ってくださり、フィリピン共同体の秋田巡礼やVisita Iglesia(ヴィジタ・イグレシア)でもバスを運転をして下さっている山手教会の信者さんと私との29名で、マイクロバスの定員一杯に乗って、朝6:30に港南教会近くの環状線沿いから出発して那須への一日巡礼に出かけました。

 那須には「トラピスト・ガレット」で有名な那須トラピスト修道院があり、そこでは42名のシスターたちが生活をしていますが、そのうち12名がベトナムから来日したシスターたちなので巡礼の目的地として皆で話し合って決めました。ちなみに、正式名称は「厳律シトー会那須の聖母修道院」と言います。この修道院には、港南教会のベトナム共同体の信者さんの姉妹がシスターとして修道生活を送っておられるので、横浜の教会との霊的な深い絆があることが今回分かりました。

 さて、修道生活には2種類の生活形態があります。一つは、「活動修道会」とか「使徒的活動の会」と呼ばれる奉献生活で、学校や施設、小教区で使徒職を果たしていく修道会です。例えば、末吉町教会では、聖なる十字架を愛する会のベトナム人シスターがベトナム共同体の司牧に協力して下さっています。また、カトリック学校で教壇に立つシスターたちもこの「活動修道会」に属しています。

もう一つの修道生活は「観想修道会」とか「隠世共住修道生活の会」と呼ばれる奉献生活で、今回、私たちが訪問した那須トラピスト修道院もこの一つです。特徴は、修道誓願を宣立してからは、一生の間、「教皇禁域(Clausura・クラウズーラ)」から出ることなく、祈りと生活を支える労働に従事する生活を送ることです。ちなみに、那須トラピスト修道院では、毎朝、3:45に起床し、4:05の読書課の聖務日課から始まって7回の時課の典礼、ミサ、そして、その間の午前と午後の仕事が行われています。敷地も広大なので、お米作り、畑での野菜作り、ガレット工場での仕事や黙想の家の宿泊者の世話等、シスター方が手分けして仕事をしておられます。

 私たちは、バスの中でベトナム語で神のいつくしみのチャプレットをはじめとする祈りを皆で捧げながら那須を目指し、10:40頃に修道院に到着して11:00からベトナム語でミサを捧げ、11:50からの6時課の典礼に与り、その後、教皇禁域の手前の広場でお昼ご飯を食べました。その後、1:00からベトナム人シスターたちが大修道院長様の特別許可で教皇禁域から出て来てくださり、皆で楽しく話をしたり、交流を持つことが出来ました。その後、1:40頃に修道院を出発して那須野が原公園に移動して5時過ぎまでのんびりと過ごし、横浜には9時過ぎに帰り着きました。

 11教区の司祭養成に当たる東京カトリック神学院では、かつて、那須のマ・メゾン光星(知的障害者福祉法及び障害者自立支援法に基づく障害者支援施設)の敷地の中に初年度養成施設「ガリラヤの家」を設置して100名を超える入所者の方々との交流を持ってきました。また、那須トラピスト修道院まで歩いて30分かからない距離なので、トラピスト修道院での毎月の静修(1泊2日の黙想会)や、修道院付き司祭のダビデ神父様の毎週の英語講座や、主日ミサでの典礼奉仕で足しげく通っていたので、私にとっても2001年3月末から2002年3月までの1年間を暮らした場所でもあり、また、2007年の新司祭団の初ミサ以来の訪問となり、シスター方との懐かしい再会となりました。

 さて、修道生活をしているシスター方やブラザーたちはどのような生活を送るのかについて、教会法573条1項で次のような神学的定義が示されています。

C.I.C.573§1福音的勧告に従うことを表明することによって奉献された生活は,永続的生活の形態であり,これにより信者は聖霊の働きのもとに,キリストにいっそう近く従い,すべてに超えて愛する神にあますところなく自身を捧げる。それは神の光栄と教会の建設並びに世の救いのために新たな特別な資格で自らを奉献する者が,神の国の奉仕において,愛の完成を追求し,教会のなかで明白なしるしとなって,天の栄光を告げるためである。

 つまり、修道生活はキリストにいっそう近く従って、すべてに超えて神を愛する生き方を通して天の栄光を告げていることが分かります。実際、観想修道会は教会の「祈りの心臓」と呼ばれる慣例があり、祈りが絶えることなく陽の昇る前から陽の沈んだ後まで捧げられ続けています。私たち、修道生活を送っていない一人ひとりにも、観想修道会の祈りを通して、日々、絶えず神様からの恵みが注がれるのです。観想修道生活を送った跣足カルメル修道女会の幼きイエズスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)は次のような言葉を残しています。

「祈りとは心のほとばしりです。天に向ける素朴なまなざしです。つらいときにもうれしいときにも天に向けて上げる、感謝と愛の叫びです。」(幼いイエスの聖テレジア『自叙伝』C,25r)

 リジューの聖テレーズの祈りについての考え方は驚くほど素朴です。そして、私たち一人ひとりにとっても毎日の生活の中で実践できる内容となっています。どんな出来事に直面した時も、また、どのような人といるときも、心が動かされて天におられる私たちの父を仰ぎみる眼差しが祈りだからです。つまり、天の父である神との関わり、距離感が近くなり、心が繋がって思いが通い合う道が祈りだと聖テレーズは理解しているのです。

 イエズス・キリストはご自分の家族、母、兄弟、姉妹とは誰であるかについて、地上での公生活の中で次のように宣言されました。

【マタイ福音書12章46節~50節「イエスの母、兄弟」】

12・46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。 12・47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。 12・48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」12・49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 12・50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

イエズス・キリストは弟子たちの方を指して仰います。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 12・50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」これは、ラテン語ウルガタ訳聖書では

“Ecce mater mea et fratres mei. 1250 Quicumque enim feceritvoluntatem Patris mei, qui in caelis est, ipse meus frater et soror et mater est“.(エッチェ マーテル メア エット フラートレス メイ。クイクムクエ エニム フェチェリット ヴォルンターテム パートリス メイ、クイ イン チェリス エスト、イプセ メウス フラテール エット ソロール エト マーテル エスト。)

と記されています。

 つまり、イエズス・キリストにとってご自分の家族たる兄弟、姉妹、母とは、「天の父のみ心を行う人」(feceritvolutatem Patris mei, qui in caelis est)なのだと宣言されたのです。

 イエズス・キリストの家族の定義でとても興味深いのは、私たちが日々、唱えるようにイエズス・キリストから教えられている主の祈りにある生き方がそのまま含まれている点です。私たちは主の祈りの中で次のように唱えます。

「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。」

この祈りは、ラテン語では次のように唱えています。

 “fiat voluntas Tua, sicut in caelo, et in terra.”

マタイ福音書では、イエズス・キリストは、「天におられる私の父のみ心」、すなわち天の父のVoluntas(ヴォルンタス・意思)を実践する人が家族であると宣言し、主の祈りでは、”fiat voluntas Tua(フィアット・ヴォルンタス・トゥア:直訳すると、「あなた(=天におられる父である神)」の意思が成されるように)と祈り、この天の父の意思が天においてと同じように地上においても成されるように祈るよう、弟子たちに教えました。

 イエズス・キリストの思いは、実はすべてのカトリック信者の母であり、教会の母である聖母マリアの生き方を踏まえたものであることが次の聖書箇所から分かります。聖母マリアは大天使ガブリエルから受胎告知を受けたとき、次のように答えました。

【ルカ福音書1章38節】

1・38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

01・38 Dixit autem Maria: “Ecce ancilla Domini; fiat mihi secundum verbum tuum“. Et discessit ab illa angelus.(ディクシット アウテム マリア:エッチェ アンチッラ ドミニ;フィアット ミキ セクンドゥム ヴェルブム トゥウム。エット ディシェッシット アブ イッラ アンジェルス。)

 マリア様はイエズス・キリストの母となることを告げられたとき、天使が預かってきた天の御父の言葉に基づいて、自分自身に天の御父の意思が成されるように、と祈りのうちに答えたのです。

 イエズス・キリストの家族になるために聖母マリアが述べた一つの言葉である”fiat”(フィアット)、つまり、「天の御父の意思が私の人生において実現するように私は協力します」という信仰宣言は、まさにイエズス・キリストがお示しになったご自分の家族となる人たちの特徴を表していることが分かります。

 マザーテレサは家族が一緒に祈るとき、神さまがわたしたちに望んでおられることを見出せることを次ように教えてくれました。

マザーテレサの言葉から(『マザーテレサ日々の言葉』74日 女子パウロ会)

わたしは、両親とわたしたち兄弟が、毎晩いっしょに祈っていたことを覚えています。祈りは、わたしたち家族への神からのいちばんすばらしい贈り物です。祈りは家族をひとつにしてくれます。ですから、家族の祈りに戻りましょう。そして、あなたの子どもたちに祈りを教え、いっしょに祈りましょう。祈りを通して、あなたは、神があなたにしてほしいと望まれることを見つけるでしょう。

 暑い日の続く8月ですが、「教会の心臓」として私たちのために祈り続けて下さる観想修道会の方々を想いながら、天の父である神の意思がわたしたち一人ひとりの人生の中で実現するように協力する決意を聖母マリアの取り次ぎのうちに神さまに捧げながら、イエズス・キリストの兄弟、姉妹として、イエズス・キリストの家族の一員として迎え入れられる喜びを胸に刻みながら歩んでまいりましょう。

 

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