新年あけましておめでとうございます。

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

新年あけましておめでとうございます。今年も港南教会の皆様にとって神様の恵みに満たされた素晴らしい年になるよう心からお祈りいたします。

  末吉町教会のクリスマスは、24日の19:30から教会学校のクリスマスページェント(聖劇)で幕を開けました。子どもたちは一生懸命練習し、イエズス・キリストのご降誕の場面に入り込んで役になりきって演じてくれたので、あたかも2000年以上前のベトレヘムにいるかのような気持ちになることが出来ました。また、ページェントの幕と幕の間の歌は、各国語で歌われましたが、末吉町教会の中ではクリスマスのお祝いが国境も国籍も越えて私たち全員の共通の大きな喜びであることを感じることが出来ました。

 

12月28日から29日にかけては、横浜教区召命錬成会第1回侍者会合宿が日本カトリック神学院東京キャンパスで行われ、40名を超える参加者が教区中から集まりましたが、末吉町教会からも2人の参加者があり、司教ミサの際の侍者奉仕について学び、実際に梅村司教様司式のミサで侍者をしてくれました。

 

末吉町教会には、外国共同体も多くありますが、12月16日(日)には14:00英語ミサの後でフィリピン共同体のクリスマスの集いがあり、また、クリスマス前の9日間のクリスマス・ノベナ・ミサである「シンバンガビ・ミサ」も捧げられました。

 12月22日(土)には、ベトナム共同体のクリスマスミサとクリスマスの集いが捧げられました。グェン神父様とマイ・タム神父様とが来てくださり、ベトナム語でのミサが捧げられました。私もベトナム語で福音朗読をしました。

 

  12月29日(土)には中国共同体の「一年感謝のミサ」が捧げられ、160名ほどの参加者を得て、ミサ後にも盛大なお祝いが行われました。

 

こうして、外国共同体の方々も、日本人の方々も同じ信仰を生きるキリスト者として、平和の君としてお生まれになったイエズス・キリストを心を一つに合わせてお祝いすることが出来たことを、主任司祭として本当に嬉しく思います。

  さて、1月1日は「神の母聖マリア」の祭日をお祝いする「守るべき祝日」です。この「守るべき祝日」という表現に込められているのは、カトリック信者全員がミサに与って祈りを捧げる義務を負っている聖なる日、という意味です。末吉町教会の1月1日のミサも、深夜0時のミサでも、11:30のミサでも沢山の方で聖堂がいっぱいになりました。深夜0時からのミサで侍者をしてくれた皆さんはみんな、眠さに打ち勝って立派に侍者奉仕をしてくれました。なお、今年も「神の母聖マリア」の祭日には、深夜0時の末吉町教会のミサと、9:30の港南教会のミサと11:30の末吉町教会のミサをお捧げしました。

 

1月1日は聖母マリアの大きなお祝いであると同時に、「世界平和の日」としても祝われています。1月1日が世界平和の日とされ、全世界のカトリック信者が平和のために祈るようになったのは、比較的最近のことです。それは、ベトナム戦争が激化していった時代に、1966年10月のロザリオの月を「平和の元后」である聖母マリアに祈り、神様が世界に平和を与えて下さるようにロザリオの祈りを心を込めて祈ることを全カトリック信者に呼びかけた聖パウロ6世教皇聖下の教皇回勅『Christi Mater(キリストの母)』をきっかけとしています。

聖パウロ6世教皇聖下は、平和への祈りを取り次いでくださるように祈りつづけ、ついには、1968年1月1日を期して、元旦を「世界平和の日」として聖母マリアの取り次ぎのうちに平和のために祈るようにお定めになりました。そして、それ以来、カトリック教会では1月1日に世界平和を願って祈りがささげられているのです。

聖パウロ6世教皇聖下がより頼んだ「平和の元后」という聖母マリアの称号ですが、これは、第1次世界大戦が激化していく中で、多くの人々が命を戦争の惨禍の中で落としていったときに、聖母マリアにより頼んで祈る「ロレトの連祷(れんとう)」にベネディクト15世教皇聖下が「平和の元后」の称号を加えたことに端を発しています。その後、「平和の元后」である聖母マリアへの祈りは、歴代の教皇様によって捧げられてきました。

2019年1月1日の「世界平和の日」にあたっては、フランシスコ教皇聖下は「よい政治は平和に寄与する」という題で平和メッセージを発表されました。その中から重要な点を以下に抜粋します。

1.「この家に平和があるように」

イエスは弟子たちを宣教へと派遣するにあたり、彼らに告げました。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」(ルカ10・5-6)。

平和をもたらすことは、キリストの弟子の使命の核心です。そしてその相手は、人類の歴史に刻まれた悲劇と暴力のただ中で、平和を願い求めるすべての人です【1】。イエスのことばにある「家」とは、それぞれの個性と歴史をもつ各家庭、各共同体、各国、各大陸であり、なによりもまず一人ひとりの人間です。だれも分け隔てされたり、差別されたりすることはありません。それはまた、わたしたちの「共通の家」、すなわち神がわたしたちを住まわせてくださり、心を配って大切にするよう求めておられるこの地球でもあります。

したがって新年を迎えるにあたり、わたしも祈りたいと思います。「この家に平和があるように」。

2.よい政治の挑戦

平和は、詩人シャルル・ペギーが語る希望、すなわち暴力という石の間で咲こうとする、か弱い花のようなものです。だれもが認識しているように、どんな犠牲を払ってでも権力を求めることは、虐待と不正義につながります。政治は市民権と人間活動を築くうえでの基本的な手段ですが、それをつかさどる人々が、人間社会に奉仕するのでなければ、抑圧、疎外、さらには破壊の道具にすらなってしまいます。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9・35)と、イエスは語りました。聖パウロ六世が強調しているように、「地方、地域、国、全世界といったそれぞれのレベルで真摯に政治に取り組むことは、一人ひとりの人間には、具体的な現実を識別する義務、さらには都市、国家、人類の善をともに達成するために与えられた、選択の自由の重要性を認める義務があることを意味します」。(略)

3. 人権と平和に寄与する政治にとっての愛のわざと人間的徳

教皇ベネディクト十六世は次のように述べています。「すべてのキリスト者は、その呼ばれている役割と、社会体制(ポリス)の中での影響力の度合いに応じて、この愛を実践するよう召されています。……愛によって動かされたとき、共通善への献身は、単に世俗的かつ政治的な立場がもつものよりも大きな価値をもちます。……地上での人間の活動は、愛によって鼓舞され、持続させられるとき、人類という一つの家族の歴史の目的である普遍的な神の国の建設に貢献します」。正義、公平、相互尊重、率直、誠実、忠実といった、よい政治活動の基盤である人間的徳を実践しながら、人類家族の善のためにともに働くことを望む政治家は、どんな文化的、宗教的な背景をもっていようとも、この指針に同意することでしょう。

この点については、2002年に死去した福音の忠実なあかし人、ベトナムのフランシスコ・ザヴィエル・グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿が示した「政治家の真福八端」を思い起こすとよいでしょう。

自分の役割に対して高い意識と深い理解をもつ政治家は、幸いである。

信頼できる人柄の政治家は、幸いである。

自分の利益のためにではなく、共通善のために働く政治家は、幸いである。

一貫して忠実である政治家は、幸いである。/一致を実現する政治家は、幸いである。

抜本的改革を行うために尽力する政治家は、幸いである。

耳を傾けることのできる政治家は、幸いである。

ひるまない政治家は、幸いである。

改選や選挙期日のたびに、また国民生活が節目を迎えるたびに、正義と法の起源と基準点に立ち返る機会が訪れます。わたしたちはこう確信します。よい政治は平和に寄与します。よい政治は、基本的人権を尊重し、促します。それらは互いに果たすべき義務でもあります。こうして、現在と未来の世代の間に信頼と感謝のきずなが結ばれるのです。

(略)

7. 平和に向けた偉大な計画

わたしたちは先日、第二次世界大戦後に採択された世界人権宣言の70周年を祝いました。このことに関して、聖ヨハネ二十三世教皇のことばを思い起こしましょう。「人間は、自分の権利を意識するようになるにつれ、当然その権利に対応する義務にも気づくようになります。権利を有するということは、その権利を行使する義務を伴います。なぜなら、権利は尊厳の現れであるからです。そして、他のすべての人々にも、その権利を認め尊重する義務があります」。

平和は、人々が責任を担い合い、支え合うことに基づく政治の偉大な計画の実りにほかなりません。しかしそれは、日々、取り組むべき挑戦でもあります。平和は心と魂の回心であり、心と共同体におけるこの平和には、切り離すことのできない三つの側面があることは容易に理解できます。

―自分自身との平和。聖フランシスコ・サレジオの勧めに従って、頑固さ、怒り、忍耐力のなさを克服してください。そして「他者に少し優しく」するために、「自分自身に少し優しく」してください。

―他者との平和。家族、友人、見知らぬ人、貧しい人、苦しんでいる人といった人々と物おじせずに会い、そのことばに耳を傾けてください。

―被造物との平和。神のたまものの偉大さを再発見し、わたしたち一人ひとりは地球の住人、市民、未来の担い手として、責任を共有していることを再認識してください。

人間の弱さを熟知し、それに対処できる平和な政治は、救い主の母、平和の元后であるマリアが、すべての人間の名のもとに歌った賛歌(マニフィカト)の心にいつでも立ち返ることができます。「そのあわれみは代々に限りなく、主をおそれる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、……あわれみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(ルカ1・50-55)。     バチカンにて

フランシスコ教皇様は、新年に当たり「この家に平和があるように。」と祈り、ベネディクト16世教皇様が指摘する、愛による共通善への献身、つまり、愛によって鼓舞された地上の人間的活動が神の国を建設することを指摘しています。また、平和は心と魂の回心であり、心と共同体における平和には、自分自身との平和、他者との平和、被造物との平和が欠かせないことも併せて教えておられます。新しく始まったこの1年の私たちの歩みの中で、救い主の母、平和の元后であるマリアの賛歌を心に留めて、主への畏敬の念のうちに、神さまのいつくしみを出会う人、一人ひとりに心を込めてプレゼントしていくことが出来れば素晴らしいですね。

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