日本で初めてのクリスマスのお祝いとクリスマスツリーの起源とは

日本で初めてのクリスマスのお祝いとクリスマスツリーの起源とは

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

11月中は死者の月ということもあり、11月4日(日)には、永遠の安息をお祈りする方々の芳名録がミサの際に奉納され、心を一つに合わせて神さまのいつくしみを帰天したお一人おひとりのためにお祈りすることが出来ました。また、午後には、末吉町教会相沢墓地と上大岡墓地で、墓参の祈りをお捧げいたしました。今年は雨が降っていましたが、沢山の方々がご自分のご家族のお墓での祈りを、心を込めてお捧げ下さいました。

また、11月11日には8名の7歳、5歳、3歳の子どもたちの七五三の祝福式がミサの中で行われました。神さまの恵みに満たされて温かい家庭の中で、一人一人が健やかに成長していくことができるようお祈りしました。本当におめでとうございます。

 
そして、11月25日には8名の子どもたちが初聖体式を無事に迎えることが出来ました。聖体の秘跡を受けるとき、子どもたちの顔はイエズス・キリストをお迎えできる喜びで光り輝いていました。準備にあたって下さった教会学校リーダーの皆さま、また、パーティーの準備をして下さった皆さま、本当にありがとうございました。

  11月23日には日本カトリック神学院東京キャンパスでの神学院ザビエル祭に、神奈川第3地区の7教会から2台のバスが二俣川教会と末吉町教会から出発して参加することが出来ました。

東京カトリック神学院と福岡サンスルピス神学院が統合してから10年が経過しましたが、来年からは再び二つの神学院に分かれ、それぞれ九州教会管区(長崎大司教区、福岡教区、大分教区、鹿児島教区、那覇教区)の神学生のための福岡カトリック神学院と、大阪教会管区・東京教会管区(大阪大司教区、広島教区、高松教区、京都教区、名古屋教区、東京大司教区、横浜教区、さいたま教区、新潟教区、仙台教区、札幌教区)の神学生のための東京カトリック神学院になりますので、今年が日本カトリック神学院としては最後のザビエル祭でした。来年以降は、福岡カトリック神学院に移籍する九州教会管区の神学生たちが東京キャンパスに勢ぞろいすることはありませんので、日本中の教区神学生たちの姿が一堂に会することも今後は当分ありません。

   ザビエル祭では神学生たちが沢山の企画を準備し、来場者たちと親しく交わっており、本当に心温まる時間を過ごすことが出来ました。なお、末吉町教会から出発したバスには、保土ヶ谷教会、港南教会、戸部教会、磯子教会からの方も乗車しており、バスの中ではお互いに自己紹介をしたり、一緒にロザリオの祈りを一環ささげたりして、教会を超えた交流をすることもできました。来年は新設される東京カトリック神学院とはなりますが、ザビエル祭は開催されることと思うので、沢山の方が参加してくだされば幸いです。

 

さて、今年も待降節が始まり、新しい典礼暦年を迎えました。主イエズス・キリストが人類の救い主とお生まれになるのを待ち望む待降節の歩みの中で、私たち一人一人が神さまの恵みを深く味わうことが出来ると素晴らしいと思います。

ちなみに、クリスマス(Christsmas)という名前は、英語でChrist + Mass、つまり、「キリストのミサ」という名前に由来します。イエズス・キリストがイスラエルにあるベトレヘムという町の馬小屋で誕生したことをお祝いします。イエズス・キリストの誕生日のお祝いの日に、世界中のキリスト教徒が聖なるミサを捧げることからこの名前が付けられました。(*語史…英語Christmas←中英語Cristemasse ←古英語Cristes Maesse)

日本で初めて行われた、平和の君であるイエズス・キリストの誕生を讃える主の降誕、つまり、クリスマスのお祝いは、1549年8月15日に鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエル神父様の来日から3年半後の1552年12月に、現在の山口県周防でカトリック宣教師たちが日本人信徒を招いて捧げたクリスマスミサと言われています。この時以来、江戸時代のキリシタン禁教令の時代には司祭は不在となった時代もありましたが、潜伏キリシタンたちには帳方、水方、聞方の三役があり、特に帳方は典礼暦の基本となる「御帳」をもとにして主の復活祭をお祝いする日取りを毎年決め、また、主の降誕祭をはじめとする祝祭日をお祝いするように共同体を指導してきました。したがって、日本では聖フランシスコ・ザビエル神父様の時代から途切れることなく主の降誕を讃え祝うクリスマスのお祝いは行われてきたことが分かります。

それでは、クリスマスのお祝いに欠かせないクリスマスツリーは、日本ではいつから飾られるようになってきたのでしょうか。

日本では12月7日を「クリスマスツリー記念日」としていますが、この日付に日本でのクリスマスツリーの起源を考えるヒントが隠されています。1886年(明治19年)12月7日に、横浜に1885年に開業した「明治屋」が横浜港に寄港する船員たちに向けて、クリスマスツリーのディスプレイを始めたことから、日本では12月7日が「クリスマスツリーの日」とされています。その後、1900年(明治33年)に「明治屋」が銀座にお店を構え、クリスマスツリーをはじめとするクリスマスデコレーションをするようになり、また、クリスマス商戦を展開していったことから全国に広がっていったそうです。

例えば、1928年(昭和3年)の東京朝日新聞では、12月6日から5日連続で「話題と解説」というコラム欄でクリスマスの特集がされたそうです。5日連続の読み物で、初日は「クリスマスの謂われ」、2日目は「欧州のクリスマス事情」、3日目は「サンタクロース」、4日目は「クリスマスプレゼント」、5日目は「クリスマスのお祝い料理」となっていました。各家庭でのクリスマスのお祝いが90年前には一般的に定着していたことがわかります。

このように、横浜の街は近代日本のクリスマス文化の発祥の地として特別な位置を占めています。

それでは、クリスマスツリーはどのように始まったのでしょうか。

  ドイツのカトリック教会には、「ドイツ人の使徒(“Apostel der Deutschen“)」と呼ばれる大切な聖人がいます。その聖人の名前は、ボニファチウス(Bonifatius)です。

聖ボニファチウスは、675年頃、今のイギリスにあったウェセックス王国(Wessex)で、とても豊かな家庭に生まれました。生まれたときの名前は、ウィンフリート(Winfrid)です。ウィンフリートは、小さいころから勉強が大好きでした。そこで、ベネディクト会の修道院で神学を勉強して、30歳のときにベネディクト会で神父様になりました。 

716年には、宣教師として海を渡って、北海に面したドイツの沿岸地方のフリースラント(Friesland)でキリスト教を沢山の人に教え始めました。 

718年には、ローマに出かけ、グレゴリオ2世教皇聖下からボニファチウスという名前をいただきました。ボニファチウスという名前は、ラテン語のBonus(ボーヌス)、日本語の「良い・善い」とラテン語のfacius(ファチウス)、日本語の「為す者」が合わさった言葉で、「良い(善い)ことをなす者」という意味です。

ボニファチウスはゲルマニア(Germania)、今のドイツに戻ってから、もっと熱心にキリスト教を多くの人々に伝えました。そして、722年11月30日に、全ゲルマニアの司教になりました。そして、732年には大司教に任命されました。

ボニファチウスの熱心な祈りと働きによって、ザルツブルク(Salzburg)、フライジンク(Freising)、レーゲンスブルク(Regensburg)、パッサウ(Passau)に司教区が設立されました。

  また、745年には、フランクフルトの隣の町のマインツに大司教区が設立され、ボニファチウスはマインツ大司教になりました。また、744年には、フルダにベネディクト会の修道院を建立しました。

 なお、ボニファチウスは、754年にキリスト教をフリースラントに伝えに行ったとき、武器を持った人たちに殺されてしまいました。こうして、ボニファチウスは殉教者になりました。お墓は、フルダにあるベネディクト会の修道院の中にありましたが、今では、お墓の上にフルダ教区の司教座大聖堂が建てられています。現代では、ドイツ司教協議会は司教総会を開く際にはフルダ教区のカテドラルで、つまり、聖ボニファチウス大司教の墓所の上でミサを捧げてから会議を始めることが習慣になっています。

この聖ボニファチウスが司教に叙階されて間もないころ、722年12月24日に、キリスト教を伝える福音宣教の旅をしていたとき、ガイスマール(Geismar=現在のフリッツラー(Fritzlar)という村を訪れました。そして、暗い森の中で火を燃やしながら、村人がユ-タイド(冬至)のお祭りをしているのを見つけました。

  ユータイドの祭りでは、毎年、大きな樫の木に宿る雷と戦(いくさ)の神である「ト-ル」に馬を捧げていましたが、その年は疫病が流行したり、食べ物が少ししかとれなかったので、人々はトールの神の怒りを鎮めるために、族長(王様)の一人息子をいけにえに捧げようとしていました。 

神官が少年をひざまずかせて、その頭上に黒い斧を振り下ろそうとしたとき、聖ボニファチウス司教様の杖が斧をくい止めました。いけにえをトール神に捧げることを邪魔された神官はとても怒って、「このよそ者を叱り、罰してください」と樫の木に向かって祈りました。しかし、怒り狂う神官を無視して、聖ボニファチウス司教様は斧で樫の木を切り倒してしまいました。トール神が樫の木に宿っていると信じていた人々はとても混乱し、戸惑いましたが、聖ボニファチウス司教様は 「これはただの木です。 真の神さまのためにここに教会を建てましょう。」と村の人々に言いました。

そして、切り倒された大木は周りの木を残らずなぎ倒してしまいましたが、横に小さな青々としたモミの若木が一本だけ倒れずに残されていました。聖ボニファチウス司教様はこのモミの木を指さしながら、「このモミの木は生きている。これこそ、あなたたちの新しいキリスト教の信仰のしるし、私たちに真の救いをもたらす救い主がかけられた十字架の木の印です。」と言いました。

村人たちは、聖ボニファチウス司教様と一緒に族長(=王様)の家にこのモミの木を運び、家の中に飾りました。そして、聖ボニファチウス司教様を囲んで、全人類の救い主であるイエズス・キリストの誕生の話を聞き、彼らにとっての初めてのクリスマスを祝いました。

  クリスマスツリーは、私たちが祈るときに胸に刻む十字架のしるし、つまり、私たち全人類の救いのためにイエズス・キリストが十字架の木の上で偉大なわざを成し遂げ、自分の生命をすべての人のために捧げたことを思い起こすことと深くつながっています。

私たちもこの待降節の間、クリスマスツリーを目にするたびに、イエズス・キリストが私たちのために成し遂げて下さった大いなる救いのわざを思い起こしながら、勝利の印である十字架の木を想い、私たちのうちに嬰児(みどりご)としてお生まれになってくださったイエズス・キリストを心から喜び迎える準備が出来ると素晴らしいですね。

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