教会の母聖マリアの記念日が新しく設けられました

末吉町教会「街の灯」2018年5月号巻頭言

教会の母聖マリアの記念日が新しく設けられました

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

4月中は、11日間の欧州巡礼で教会を留守にしてご迷惑をおかけいたしました。皆様の暖かい応援とお祈りに支えられて21名をお連れしての巡礼は本当に実り豊かなものとなりました。概略だけを記しておくと、まずはフランクフルトに夜に降り立ち、翌日は神聖ローマ皇帝の選挙と戴冠式が行われてきたKaisersdom(カイザースドーム・皇帝の大聖堂・フランクフルトの聖ボロメオ大聖堂)と、皇帝のお披露目が行われた旧市役所の建物の中にあるKaiserssaal(カイザースザール・皇帝の間)を見学し、神聖ローマ帝国選帝侯大司教領の司教座が置かれていたマインツ大聖堂(カテドラル)へと移動しました。そして、1000年以上前から現存する大聖堂の聖体安置小聖堂でミサを捧げました。その後、ライン川河畔をバスで移動しレバークーゼンに宿泊し、翌日は選帝侯大司教領の司教座が置かれたケルン大聖堂(カテドラル)の聖体安置小聖堂でミサをささげ、イエズス・キリストに黄金、乳香、没薬をお捧げした聖三賢王(三博士)の聖遺骨の納められた聖遺物櫃を巡礼し、ケルン市内の主要な巡礼教会を巡りました。

その後、レバークーゼンに戻り、翌日は神聖ローマ帝国の始祖とされるカール大帝が本拠となる宮殿を置き、宮廷聖堂を設置したアーヘン大聖堂(カテドラル)に巡礼しました。その後、ベルギーのリエージュに移動し、リエージュ大聖堂(カテドラル)の聖体安置小聖堂でミサを捧げました。翌日は聖母マリアが1933年に13歳の少女にご出現になったバンヌーの聖地へと巡礼しました。バンヌーの聖体安置小聖堂でミサを捧げた後、聖母の御出現を受けたマリエッテ・ベコさんとも実際に会い、晩年には病院での聖体拝領式も行った82歳の老司祭から、実際にこの聖地でどのようなことがあったかを聞くことが出来ました。

それからルクセンブルク大公国に移動しました。翌日は日曜日でしたので、選帝侯大司教領の司教座が置かれたドイツのトリーアまでバスで1時間ほど旅をして、ケルン教会管区大司教のヴェルキ枢機卿様の主司式で捧げられたHeiligerocktagesmesse(ハイリゲロックターゲスメッセ・年に一度の、トリーアに保管されているイエズス・キリストが十字架にかけられた際にはぎ取られ、縫い目がなかったのでくじ引きで誰のものになるかが決まった聖衣(チュニカ・下着)への巡礼週間のお祝いの主日ミサ)に与り、普段は閉鎖されている聖衣保管小聖堂にも入り、祈りを捧げることが出来ました。なお、この聖衣は数十年に一度、御開帳されますが、前回の2012年の際はフランクフルトから電車を乗り継いで巡礼に行きました。その後、ルクセンブルクに戻り、ルクセンブルク大聖堂(カテドラル)に巡礼し、特に、ルクセンブルクの聖母子像への祈りを捧げました。

この御像は、17世紀にペストが大流行した際に皆が聖母マリアの庇護と取り次ぎを求めて祈ったところ、それ以降、ペストでの死者が出なくなったという伝説を持つ聖母子像です。そのため、ルクセンブルクでは毎年、国内、近隣諸国から多くの巡礼者が訪れて8日間(オクターブ)の聖母子像をまつる祈り(Marienoktav・マリエンオクターブ)が行われ、その結びのミサ後には、聖母子像の神輿の後を上智大学副学長も務めたオロリッシュ大司教様が聖体行列を導き、ご聖体の秘跡の後をルクセンブルク大公殿下ご一家が歩き、旧市街を聖体行列し、旧市街の広場の特設会場で聖体賛美式が毎年捧げられています。私も2014年には参加しましたが、本当に人々のご聖体の秘跡への深い信仰と聖母マリアへの敬愛の念に感動を覚えました。

翌日はルクセンブルク大公国内で最古のカトリック教会である987年に建立された聖ミカエル教会でミサを捧げ、空路、ミュンヘンへと移動しました。ミュンヘンから1972年ミュンヘン冬季オリンピックのスキージャンプ競技が行われ、その後もジャンプの国際大会が行われるガルミッシュ・パルテン・キルヒェンへ移動しました。スキージャンプも行われるような場所で、アルプス山脈の中なので、街を囲む山並みには雪があり、アルプスに来たのだ、という実感を覚えました。翌日は、17世紀にペストが大流行したときに村人たちがイエズス・キリストにペストによってもうこれ以上犠牲者が出ないように願い、この嘆願が聞き入れられたならば、村人が後世に渡って10年に一度、受難劇を上演し続けることを誓ったオーバーアマガウに巡礼しました。人々の深い祈りと救い主キリストへの信仰が第三千年紀を迎えた現座に至るまで受け継がれている姿には感動を覚えます。

その後、世界遺産にもなっている18世紀の巡礼教会であるヴィ―ス教会に向かいました。この教会はツィンマーマンの手によるドイツ・ロココ様式の傑作とされる壮麗でとても美しい教会ですが、もともとは1738年にイエズス・キリストの鞭うたれている御像が納屋に放置されていることに心を痛めたある農婦が御像をもらい受けて、自分の牧場に建てた小さな小聖堂に安置して毎日、毎日祈りを捧げていたところ、御像が本物の涙を流したという奇跡によって巡礼地になった場所です。香部屋係の方と色々と話をしたところ、日本人の観光客は数えきれないほどいつも訪問するけれど、日本語でのミサは長く日本で宣教師として働いていたドイツ人司祭(後でわかりましたが、上智大学のアルフォンス・デーケン神父様だそうです)が巡礼団を連れてきて数年前に捧げたミサが初めてで、日本人司祭が日本語でミサを捧げたのは初めてのことだったそうです。

ヴィ―ス教会を後にしてノイシュバンシュタイン城へ向かい、お城を見学した後でミュンヘンに移動しました。翌日はミュンヘンからバスで40分くらい離れた場所にあるダッハウ強制収容所跡へと巡礼に行きました。この収容所はナチスの収容所の中でも最も古い時期に組織された収容所で、ここでの実験的な取り組みが他の収容所での大殺戮へとつながっていった場所です。なお、この場所には、かつて自分自身もダッハウ収容所に収容されていた司祭で、のちにミュンヘン=フライジング大司教区の補佐司教になったヨハンネス・ノイホイザー司教様によって観想修道会の女子跣足カルメル会の修道院が招聘され、設立以来、毎日ミサと7回の聖務日課が荘厳に捧げられています。この修道院には、日本人のシスターがおり、今回の巡礼では午前中に収容所内の展示棟とバラック跡を巡った後で6時課の聖務日課を一緒に共唱し、それからシスターを囲んでお話を伺い、修道院聖堂でミサを捧げました。

ダッハウ強制収容所が特別な理由は、3万人以上が常時収容されていましたが、バラック棟のうち、第26号棟が聖職者棟とされていたことです。ここには延べ2720名のカトリックとプロテスタントの教役者が収容されいていましたが、そのうち2579名がカトリックの司教、司祭、助祭たちでした。なお、この収容所の中で瀕死の状態になってしまったドイツ人助祭の福者カール・ライスナー神父様は、フランス人司教から1944年の待降節第3主日に秘密裏に司祭叙階を受け、その後、主の降誕のミサを1度だけ自力で捧げることが出来ただけで、病床に臥せり、1945年5月のアメリカ陸軍第42師団の日系人部隊による解放後、ほどなくして帰天した殉教の物語もあります。

その後、ミュンヘンに戻り、旧市街の主要な教会を巡礼しました。翌日は、ミュンヘン大聖堂(カテドラル)でミサを捧げ、その後、旧市庁舎のからくり時計を見てから空港に向かい、日本へと帰国しました。

概略を書くつもりが詳述になりましたが、ここからが今月の巻頭言の本題です。

カトリック教会では、聖霊降臨の祭日後の月曜日(今年は5月21日(月))に典礼暦上の全世界の教会でお祝いされる「義務の記念日」として「教会の母聖マリア」の記念日が新設されました。

典礼秘跡省の教令『一般ローマ暦における「教会の母聖マリア」の祭儀について』によれば、「聖アウグスティヌスは、マリアはキリストの肢体の母であると述べている。それは、信者が教会のうちに新たに生まれることに、マリアが愛をもって協力したからである。他方、聖大レオは、頭の誕生はからだの誕生でもあると述べて、マリアは神の子キリストの母であると同時に、神秘体すなわち教会の成員の母であることを示している。こうした考察は、マリアが神の母であること、そして、十字架の時に頂点に達したあがない主のわざにマリアが深く一致したことに由来している」ので、聖母マリアはまさに「教会の母」なのだと説明しています。

この教令によると、霊的著作家の文章やベネディクト14世教皇様、レオ13世教皇様の教導職の文書の中でも「教会の母」という称号は用いられており、特に、第2バチカン公会議第3会期の閉会の際に福者パウロ6世教皇様が1964年11月21日に聖なるおとめマリアを「教会の母」として宣言なさいました。そして、「マリアが、信徒であれ司牧者であれマリアを最愛の母と呼ぶすべてのキリスト者の母である」のだから、「すべてのキリスト者が、最も甘美なこの称号をもって、今後いっそう神の母に敬意を払い、取り次ぎを願うよう」お定めになりました。こうして、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様の時代には、使徒座によってロレトの連祷(聖母マリアへの連願)の中に「教会の母」という称号が付け加えられました。

なお、典礼秘跡省長官であるロベール・サラ枢機卿様による解説の中では、この決定はルルドでのおとめマリアのご出現160周年にあたってなされたことが記されています。この記念日は、ポーランドやアルゼンチン等の国では聖霊降臨後の月曜日に祝うその国の典礼暦(固有暦)上、既に認可されて祝われてきたそうです。そして、「五旬祭に聖霊を待ち望んでいたときから、地上を旅する教会に母としてたえず気遣ってきたマリアの霊的母性の神秘の意義をふまえて、教皇フランシスコは、聖霊降臨後の月曜日に、教会の母であるマリアの記念日が、ローマ典礼様式の全教会で義務として守られることを定めた。聖霊降臨の教会の活力と教会に向けられるマリアの母としての心遣いとの結びつきは明らかである」と指摘なさり、「神の愛によって成長し満たされることを望むなら、わたしたちの生活を三つの偉大な現実、すなわち、十字架と聖体と神の母の上にしっかりと据える必要があ」り、「これらは、わたしたちの内的いのちを形づくり、実を結ばせ、聖化し、わたしたちをイエスへと導くために神からこの世界に与えられた三つの神秘である」ことを教えておられます。

私たち自身も、信仰の土台を十字架と聖体と神の母聖マリアの上に据え、ゆるぎなく神の家族の一員としての歩みを重ねていくことが出来ると素晴らしいですね。

【「教会の母マリア」 記念日 聖務日課読書課 第2朗読】

第二バチカン公会議第三会期閉会に際しての福者教皇パウロ六世の演説

『教会の母マリア』

マリアと教会をつなぐ深い結びつきについて熟慮して、聖なるおとめの誉れとわたしたちの慰めのために、わたしは、至聖なるマリアが教会の母であると宣言します。それはマリアが、信徒であれ司牧者であれマリアを最愛の母と呼ぶすべてのキリスト者の母であるということです。そして、すべてのキリスト者が、最も甘美なこの称号をもって、今後いっそう神の母に敬意を払い、取り次ぎを願うよう求めます。

(略)この称号は決して目新しいものではありません。そればかりか、キリスト信者と全教会は、とくにこの母という称号でマリアに呼びかけることをむしろ好んでいます。実にこの称号は、マリアに対する信心のまことの本質に属しています。なぜなら、受肉した神のみことばの母としてマリアに与えられた尊厳にその根拠があるからです。(略)

マリアがキリストの母であり、キリストはおとめの胎において人間の本性を受けるやいなや、その神秘体すなわち教会を頭である自分自身に結びつけたからです。したがって、マリアはキリストの母であり、またすべての信徒と司牧者、すなわち教会の母でもあるのです。

(略)今この特別な時に、キリストの花嫁として救いをもたらす使命をいっそう熱心に果たそうと努める教会に対して、母としての助けを与えてくださらないはずがありません。

(略)マリアは、キリストがもたらす救いの先取りによって原罪の汚れから免れていますが、神から受けたたまものに自らの全き信仰の模範を加えました。こうしてマリアは、「信じたあなたは幸い」という福音の賛美のことばにふさわしい方となったのです。

この地上での生活において、マリアはキリストの弟子としての完全な姿を表し、あらゆる徳の鑑(かがみ)となり、イエス・キリストによって告げられたあの幸いの徳をことごとく身に帯びていました。それゆえ、全教会は、その多様な生活と積極的な活動を展開する中で、完全にキリストにならうための最高の模範を神の母であるおとめから受け取ることができるのです。

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