主の復活の喜びを多くの人にもたらす者になれますように

主の復活の喜びを多くの人にもたらす者になれますように

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

今年は4月1日に復活の主日を迎え、新年度の始まりと主の復活をたたえ祝う特別な日とが重なりました。3月31日(土)の午後8時から捧げられた復活徹夜祭のミサでは、310名ほどの方々が集まり、園庭で火の祝別をし、復活のろうそくに祝福された火を灯してイエズス・キリストが真に復活されたことを賛美しながら、キリストの火に導かれて聖堂まで行列し、ミサが捧げられました。このミサの中で6名の方が洗礼の秘跡を受け、初聖体を迎えました。また、今年から復活徹夜祭も「国際ミサ」として捧げるようにしたので、フィリピン共同体、中国共同体、ベトナム共同体、韓国共同体の皆様も一緒に集い、各国語の聖書朗読や聖歌があり、本当に聖霊によって一つに結ばれた神の民がともに集まり、祈っていることを深く感じることのできた夜となりました。また、キリアーレと主の祈りは「天使ミサ」を用いましたが、本当にすべての共同体の人が心を一つに合わせて美しい歌声で祈りを捧げることが出来ました。

4月1日の「復活の主日の日中のミサ」は11:30から捧げられましたが、400名ほどの方がともに集まり、「国際ミサ」として心を合わせて復活された主イエズス・キリストを賛美し、ミサの最後には、各共同体が準備してくださった復活の卵を祝福し、参列した皆さんでキリストの復活の喜びを分かち合うことが出来ました。

その後、天気にも恵まれ、満開の桜の下で園庭でパーティーが行われました。準備してくださった地区世話役会と地区の皆様、中国共同体、フィリピン共同体、ベトナム共同体、韓国共同体の皆様、本当にありがとうございました。パーティーの途中で、教会学校リーダーとフィリピン共同体のお母さんたちが準備してくれた「エッグ・ハンティング」を教会学校の子供たちが楽しめたことも本当に素晴らしかったです。その後、パーティーの片づけが終わってから、フィリピン共同体の有志が桜の木の下にシートを敷き、お花見を夕方まで楽しむことが出来ましたが、本当に復活祭の喜びに満ちた一日でした。

 さて、キリスト教の教会では主の復活が最も重要なお祝いです。フランシスコ教皇様は2013年3月13日に選ばれ、3月19日にローマ教皇に就任なさいました。そして、教皇として第2回目の2013年4月3日の「一般謁見」では復活をテーマとして取り上げ、次のように述べておられます。

「『信条』の中でわたしたちは次のことばを繰り返し唱えます。『聖書にあるとおり三日目に復活し』。まさにこの出来事をわたしたちはまさに今祝っているところです。キリスト教のメッセージの中心である、イエスの復活は、最初から響き渡り、伝えられて、わたしたちにまで達しました。聖パウロはコリントの信徒に向けて述べます。『最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです』(一コリント15・3-5)。この短い信仰告白は、復活した主のペトロと十二人への現れをもって、過越の神秘を告げます。イエスの死と復活こそが、わたしたちの希望の中心です。イエスの死と復活への信仰がなければ、わたしたちの希望は無力なものとなり、希望といえなくなります。イエスの死と復活こそが、わたしたちの希望の中心なのです。使徒パウロはいいます。『キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります』(17節)。残念ながら、イエスの復活への信仰をあいまいにしようとする試みがしばしば行われます。信者の間にさえも疑いが忍び入っています。それはいわば『薄い』信仰であり、力強い信仰ではありません。こうした軽薄な考え方のゆえに、また時として無

関心のゆえに、あるいは水平的な人生観のゆえに、人々は信仰よりも重要に思われる多くのものに心を奪われます。しかし、わたしたちの心を偉大な希望へと開くのは、復活です。なぜならそれは、わたしたちの人生とこの世の生活を、神の永遠の未来へと、完全な幸福へと開くからです。悪と罪と死に打ち勝つことができるという確信へと開くからです。」

 イエズス・キリストの十字架上でのご死去の意味は、私たちの罪のために死んだことを意味するのだ、と説明する聖パウロの言葉をフランシスコ教皇様は、とても大切なこととして示しておられます。つまり、主の復活をたたえ祝うことは、私たちの生活の中で犯した過ちや罪は、必ず主のご死去によって、つまり、主の十字架によって贖われ、清められることを土台としているのだ、ということを意味しているのです。実際、私たちはミサを捧げるたびに、「信仰の神秘。主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」という信仰告白を必ずします。この言葉を、もし軽い気持ちで唱えたり、カトリック信者としてとても大切な、主イエズス・キリストへの親愛の情を込めた信仰告白だと理解しないで唱えるとしたら、それはフランシスコ教皇様の指摘によれば、「死と復活への信仰がなければ、わたしたちの希望は無力なものとなり、希望といえなくな」る結果を招くのです。改めて、ミサごとに私たちはキリストの死と復活を心から信じ、希望のよりどころとしていることを思い起こす習慣を取り戻すことを心にとめる必要があります。

 フランシスコ教皇様は第2回目の一般謁見の演説の締めくくりとして次のような言葉を特に若者たちに託しました。

 「復活した主との出会いは、わたしたちを造り変え、信じるための新たな力と揺るぎない土台を与えます。わたしたちにも、復活した主を認めるための多くのしるしがあります。聖書、聖体、他の秘跡、復活した主の光を伝える愛のわざです。キリストの復活によって照らしていただこうではありませんか。キリストの力によって造り変えていただこうではありませんか。それは、世にあるわたしたちを通じても、死のしるしがいのちのしるしに取って変わられるためです。この広場には多くの若者がおられます。よくおいでくださいました。皆様に申し上げます。主は生きておられ、人生においてわたしたちに寄り添って歩んでくださいます。この確信を伝えてください。それが皆様の使命です。この希望を伝えてください。この希望に錨(いかり)を降ろしてください。それは天上への希望でもあります。しっかりと舫(もや)い綱を握り、錨を降ろし、希望を伝えてください。イエスの証人である皆様。イエスが生きていることをあかししてください。それがわたしたちに希望を与えます。それが、戦争と悪と罪のためにある意味で年老いたこの世に希望を与えます。若者よ、進んで行きなさい。」

 フランシスコ教皇様は、イエズス・キリストの十字架の上での死と、それに続く復活によって、イエズス・キリストが私たち信仰者と新しい出会い方をしてくださることを示しておられます。その出会いにおいては、キリストによって私たち自身が造り変えられていくのです。この復活された主との出会いで生じる私たち一人一人の「変容」は、確かな希望を持ち続ける大切な土台を私たち一人一人の人生にもたらしてくれます。そして、ヨハネ福音書にあるように、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)ようになってくださいます。

 私たち一人一人が主の復活をたたえ祝うとき、そのお祝いの気持ちが、聖書を毎日の生活の中でよく味わい読み深めていくことにつながり、また、聖体の秘跡におられる主イエズス・キリストを毎日曜日、つまり、主の復活をたたえ祝う主日ごとに拝領し、他の秘跡、例えば、ゆるしの秘跡に頻繁に与ったり、自分の家族や友人に病気の人がいれば、病者の塗油の秘跡を受けるように勧めたり、結婚を考えている若者がいれば、教会で結婚の秘跡を受けるように勧めたり、将来、司祭になることを考え始めている若者がいれば、勇気をもって司祭叙階を受ける道を歩みだすように勧めたりすることを通して、キリストと深く結ばれていくようになると本当に素晴らしいと思います。そして、復活した主の光を伝える愛のわざを自分の身の回りにいる人のために惜しみなく行っていく寛大さと勇気を持つことが出来ると、私たち一人一人と出会う人の心もまた、自然と復活された主イエズス・キリストの光で満たされていき、幸せと平和をもたらすことが出来るでしょう。

 自分自身のできることから始めることで、復活された主と出会った喜びを多くの人にも届けていくことが出来る復活節となりますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA