四旬節は「心からの回心、内面的悔い改め」の季節

末吉町教会主任司祭 ヨゼフ 濱田 壮久神父

今年は2月14日が灰の水曜日でしたが、末吉町教会では19:30から英語ミサで灰の水曜日のミサと灰の式が行われました。フィリピン共同体、中国共同体、ベトナム共同体、韓国共同体、日本共同体からの参列者もあり、230名近い方々と共に四旬節の歩みを祈りのうちに始めることが出来たことを神様に感謝しています。特に、子どもたちが7人も侍者の典礼奉仕をし、聖堂中に赤ちゃんや子供たちと一緒に一家で参列している家族が多かったことも神様の導きだと感じました。
四旬節はイエズス・キリストが公生活を始めるにあたって、「ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14b-15)ということを思い起こすことから始まります。ですから、灰の水曜日の灰の式では、私たちは「回心して(悔い改めて)福音を信じなさい」という言葉を受けながら、一人一人、額に灰を受けるのです。灰を受けること、そして、四旬節の歩みを重ねることは「悔い改め」と結びついていることが典礼儀式の上でもはっきりと示されています。
ちなみに、2018年1月11日付で公布された日本カトリック典礼委員会(委員長:梅村昌弘司教)による『四旬節・聖なる過越の三日間・復活節の典礼に関する補足事項』5項において、「灰の式は、キリスト者が復活祭を迎えるために回心の歩みを始めることを四旬節の最初の日に示す式である。そのため、灰の水曜日以外の日に行うことは典礼上、勧められない。」と指摘されており、末吉町教会でも今年から灰の水曜日以外での灰の式は行わないことになりました。
2月17日(土)から18日(日)にかけては、教会学校四旬節黙想会が行われ、22名の子供たちがゆるしの秘跡を受け、四旬節の準備を始めることが出来ました。また、18日15:00から藤沢教会で梅村司教様司式で行われた「横浜教区合同入信志願式」には、3月31日(土)の復活徹夜祭で洗礼を受ける方々と代父母の方々と参加し、梅村司教様によって「洗礼志願者の油」が洗礼志願者の額に塗油されました。そして、2月25日(日)には高輪教会主任司祭の川口薫神父様によって四旬節黙想会が行われました。色々な世代の方々が四旬節の歩みの一歩を踏みだしている姿に神様の導きを感じます。

さて、四旬節は「悔い改め」を行う季節ですが、『カトリック教会のカテキズム』によれば、「回心と悔い改めへのイエスの呼びかけは、外的な行い、すなわち『粗衣や灰』、断食などの苦行ではなく、まず、心からの回心、内面的悔い改めを求めます。これがなければ、償いの行為はむなしく、偽りのものです。それに対して、心からの回心は、悔い改めの行為やわざなどの目に見えるしるしをもって表されます。」(1430項)
この指摘から明らかとなるのは、イエズス・キリストが福音宣教の初めに「時は満ち、神の国は近づいた。」と指摘し、続けて「悔い改めて福音を信じなさい。」と仰せになったことを、自分の生活の中でどのように受け止めるかは、まず、自分の心の内側から始まるのだ、ということです。もし、私たちキリスト者にとって、聖書のみことばが生活の柱となっているならば、その聖書の中で、特に私たちの救い主イエズス・キリストの最初の公的な呼びかけが「悔い改め」にあることを心に刻むことはとても大切なことです。
では、誰がこの「悔い改め」を行う勇気を下さるのでしょうか。カテキズムでは「キリストの復活以来、聖霊は御父から遣わされたかたを信じなかったという世の誤りを明らかにしてくださいます。ところが誤りを明らかにしてくださるこの同じ霊が、人間の心に悔い改めと回心の恵みを与えてくださる慰め主でもあられるのです。」(1433項)と指摘しています。
このカテキズムの言葉は私たちに大きな希望をもたらしてくれるものです。「慰め主」である聖霊が私たちを神のいつくしみで満たし、自分一人の力だけでは達成し得ないような内面的悔い改めと償いの行為へと私たちを導いてくだる確かな約束があることを私たちは知ることが出来るからです。
9世紀にラバヌス・マウルスによって書かれ、カトリック教会で伝統的に聖霊降臨の際に歌われてきたグレゴリオ聖歌である”Veni Creator Spiritus”(ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス、直訳では「来たり給え、創造主なる聖霊よ」、日本語ではカトリック聖歌集223番「みたまよ来たりて」)の中には次のような節があります。

Qui Paraclitus diceris, / Donum Dei altissimi, / Fons vivus, ignis, caritas, / Et spiritalis unctio. / Infirma nostri corporis / Virtute firmans perpeti; / Accende lumen sensibus, / Infunde amorem cordibus.
別の弁護者(パラクレートス)と呼ばれる御身 / 至高なる神の賜物 / それは生命の泉・火・愛(カリタス) / そして霊的な塗油。 / 私たちの肉体の弱さを / 絶えざる勇気をもって力づけ、/ 光をもって感覚を高め / 愛を心の中に注いでください。

この節の中で言われていることは、生命の泉、火、愛であり霊的な塗油である聖霊が、私たちに勇気を与え、五官を研ぎ澄まさせ、心を愛で満たして下さるのだ、そして、それを心から私たちは懇願しているのだ、ということです。つまり、私たちの心からの回心、内面的悔い改めは、私たち人間の自分の努力だけで始めるものではなくて、慰め主である聖霊の助けの中で、神に導かれて始まる歩みなのだ、ということです。
聖霊の導きによって始められた私たちの心からの回心の具体的な生活の中での実践についてカテキズムは1435項で次のように指摘しています。

「回心は日常生活の中での、和解の行為、貧しい人々への心遣い、正義の行い、他人の権利の擁護、他人への過ちについての告白、兄弟の回心を目指す忠告、生活の見直し、良心の究明、霊的指導、忍苦、義のために迫害を忍ぶことによっても実現されます。日々自分の十字架を担ってイエスに従うことが、悔い改めのもっとも確かな道です。」

私たちの生活の中で出会う相手のことを心から大切に思って、相手の善益のためによいことを行おうとする態度こそが、内面的悔い改めによって導かれる私たちの態度だと言えるでしょう。
さて、2018年四旬節教皇メッセージについて、フランシスコ教皇聖下は「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える(マタイ24・12)」という表題を付けておられ、「冷えた心」という見出しで以下のように述べておられます。

「ダンテ・アリギエリは、地獄に関する記述の中で、氷の玉座に座った悪魔の姿を描いています。悪魔は、愛のない氷の家に住んでいます。ここで自分自身に問いかけましょう。わたしたちの中で愛はどのように冷えていくのでしょうか。心の中から愛が消えてしまう危険を表す兆候は、どのようなものでしょうか。
「すべての悪の根」(一テモテ6・10)である金銭欲は、何よりもまして愛を弱めます。そして人は神を拒むようになり、そのために神のうちに慰めを求めることを拒絶し、みことばや秘跡による慰めよりも孤立した状態を好むようになります。こうしたすべてのことは、胎児、病気を患う高齢者、移動者、外国人、さらには自分の期待にそぐわない隣人といった、自分にとって「確かなもの」を脅かすように思われる人に対する暴力を引き起こします。
被造物もまた、このように愛が冷えることを静かにあかししています。地球は無関心と利益追求のために捨てられた廃棄物によって汚染されています。海も汚染されています。不幸なことに海は、移住を強いられ難破した多くの人の遺体を覆わなければなりません。神の計画のもとに神の栄光を称える天空にも、死の道具を降らす兵器の筋が残されています。
わたしたちの共同体の中でも愛は冷えています。使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしはこの愛の欠如のもっとも顕著なしるしを描こうとしました。それらは怠惰な利己主義、実りをもたらさない悲観主義、孤立願望、互いに争い続けたいという欲望、表面的なものにしか関心をもたない世間一般の考え方などです。こうして、宣教的な情熱は失われていきます。」

上記のような、私たちの心から神の愛の炎が吹き消されそうになっている状態をどのように解決できるかについて、フランシスコ教皇聖下は次のように教えて下さっています。

「母であり師である教会は、この四旬節の間、祈りと施しと断食という美味な薬を、時には苦い真理の薬と一緒に与えてくれます。
『祈る』ために長い時間を費やすことにより、わたしたちの心は自分自身をあざむく隠れた嘘を暴き、神の慰めを最終的に探し求めます。神はわたしたちの父であり、わたしたちが生きることを望んでおられるのです。
『施し』は、わたしたちを欲深さから解放し、隣人が自分の兄弟姉妹であることに気づかせてくれます。自分のものは、自分だけのものではないのです。施しがすべての人の真のライフスタイルになったらどんなによいでしょう。わたしたちキリスト者が使徒の模範に従い、自分のものを他者と分け合うことの内に、教会に息づいている交わりの具体的なあかしを感じ取ることができたらどんなによいでしょう。(中略)
最後に断食は、わたしたちの中にある暴力を鎮め、武装を解かせるものであり、わたしたちの成長にとって重要な機会です。断食は、必要最低限のものさえ不足する状態や、空腹に見舞われる日々の苦しみを体験させてくれますが、その一方で善意に飢え、神のいのちを渇望している、わたしたちの霊的状態も表しています。断食はわたしたちを目覚めさせ、神と隣人にさらに心を向けるよう促し、神に従う意欲を燃え上がらせます。神はわたしたちの飢えを満たす唯一のかたなのです。」

この四旬節の間、私たち一人一人が「慰め主」聖霊に助けを求めながら、私たちの心が神の愛の炎で燃え上がり、自分の十字架を担って主キリストのみあとに従っていく決意を新たにすることが出来ると素晴らしいですね。

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